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【12-02】「二世」か、「エリート官僚」か/中国のトップ、交代へ

鈴木 暁彦(中国総合研究センター フェロー)     2012年10月25日

 米国の大統領選挙は11月6日に投票が実施される。暦の上ではその2日後、中国の共産党大会が北京で始まる。中国は共産党が国家(政府)、軍隊、宗教、社会組織など一切を指導する体制の国なので、5年に一度の党大会は、国と国民の命運を左右する最も重要な会議と位置づけられる。第18回となる今回は最高指導部が一新し、建国の父・毛沢東から数えて「第五世代」の指導者が誕生する。

 党大会の日程が9月28日に発表されてから、中国メディアは連日、党大会にからむニュースを報じている。共産党(総書記)、国家(主席)、人民解放軍(中央軍事委員会主席)を一手に掌握してきた胡錦濤(フー・チンタオ)氏は今回、総書記を退き、後任に習近平(シー・チンピン)氏が就くことが内外とも一致した見方となっている。

習近平氏とは

 1953年6月生まれの習氏は59歳。2007年10月の第17回党大会で、最高権力機関である政治局常務委員会入りを果たし、常務委員9人のうち序列は6位となった。2008年には国家副主席、2010年には中央軍事委員会副主席にも就任し、ライバルを押しのけて、後継者への地歩を固めてきた。

 父は中国革命を戦った「開国の元勲」の一人、習仲勲氏(1913~2002)。党中央宣伝部長、副首相、広東省書記、全人代副委員長など要職を歴任し、鄧小平氏が実権を握った1980年代は、「八大元老」の一人とする見方もあった。

 習仲勲氏の次男である習近平氏は、幼いころから権力者たちと家族ぐるみで付き合い、共産党と軍に幅広いネットワークを築き、二世グループ「太子党」の出世頭となったのである。党エリートの子弟を中国では「紅二代」(ホン・アールタイ)と呼ぶ。中国語サイト「百度百科」で「紅二代」を検索すると、名簿に習近平氏の名前も入っている。(http://baike.baidu.com/view/3082763.htm

ライバル、李克強氏は

 第17回党大会が開かれる前までは、ライバルの李克強氏が次期トップの最有力候補と見る向きが内外にあった。習氏より若い1955年7月生まれの57歳。胡錦濤氏と同じエリート組織、共産主義青年団(共青団)第一書記を務め、党のエリート官僚として要職を歴任してきた。

 日本政府も、李氏を胡氏の後継者と見立て、パイプづくりに力を入れていた時期がある。ところが、5年前の党大会後、新しい政治局常務委員の顔ぶれを対外的にお披露目する記者会見では、李氏が習近平氏の後ろ(序列7位)を歩いて入場してきたのである。

 前の職場に勤めていた筆者は、中国広州市のオフィスでテレビ生中継を見ていたが、この入場順を見て、習近平氏が多くの予想を裏切り、次期総書記の座を射止めた、と悟った。これは多くの中国ウォッチャーの直感と同じである。李氏は2013年3月の全国人民代表大会(全人代)で、首相に選出されると見られている。

 李氏は北京大経済学部卒。1993~98年共青団第一書記を務めた後、1999年河南省長、2002年同省書記、2004年遼寧省書記と、早くから頭角を現してきた。一方の習氏は清華大人文社会学部卒。1990年福州市書記、2000年福建省長、2002年浙江省書記、2007年上海市書記と権力の座を駆け上がってきた。習氏と李氏による新体制では、軍にも強い基盤がある二世グループ「太子党」「紅二代」の代表が党と国全体を率い、党のエリート官僚が具体的な政策運営を担う形になる。

共産党内における権力者の世代交代

 中国当局やメディア、中国の学者たちは通常、次のように指導者の世代を区分している。

 第一世代の中心人物は毛沢東(1893~1976)。

 1935年の遵義会議で実権を掌握してから、1976年に死去するまで、曲折はあったが、ほぼ一貫して最高権力の座にいた。第一世代の指導者たちは中国革命を戦い、国民党を破り、1949年中華人民共和国を建国し、その功勲が権力の源泉となった。

 第二世代の中心は鄧小平(1904~1997)。

 実質的に実権を握っていたのは概ね1978~1992年ごろ。第二世代には葉剣英、陳雲、宋平、胡耀邦、趙紫陽らが含まれる。その多くは革命戦争に参加し、また、文化大革命(1966~76)期間中に迫害を受けた経験を持つ。文革後、鄧小平による改革開放が始まると、再び要職を担った。この時代、中国は政治の重心を階級闘争から経済建設に転換、外資導入と市場開放を推進し、国際分業体制に参入するとともに、高度成長の基盤を築いた。

 第三世代の中心は江沢民氏(1926~)。

 実権を握っていたのは概ね1992~2002年ごろ。第三世代には李鵬、喬石、朱鎔基、李瑞環らが含まれる。その多くは革命期に幼少時代を過ごし、建国後、旧ソ連で教育を受けた人も少なくない。第三世代以降、文人政治家が台頭し、軍出身者が目立って減少する。この時代、中国は世界の大国として台頭し、国際的には脅威論も広がり始めた。

 第四世代は胡錦濤氏(1942~)を総書記とする指導グループ。

 2002年に党のトップに就き、徐々に実権を固めた。第四世代には曽慶紅、呉邦国、温家宝、賈慶林、李長春、呉官正の各氏らが含まれる。多くは建国期に生まれ、新中国の歴史とともに育った。理系大学で学んだテクノクラート(技術官僚)が多いのが特徴。

 第五世代は、習近平氏を総書記とする指導グループ。

 李克強氏のほか、張徳江、王岐山、李源潮、汪洋の各氏らが主要メンバーになると予想されている。多くが建国後の生まれ。中国革命を戦った要人の子女や、共青団生え抜きのエリートも少なくない。

変わる後継者の選び方

 抗日戦争に勝ち、中国革命を成功させた革命第一世代と第二世代は、建国の殊勲が権力の源泉となってきた。毛沢東、鄧小平はいずれも強いカリスマ性を持ち、「鶴の一声」で物事を決着させる力を備えていた。

 毛沢東死去に伴う文革終結後、経済復興を指揮した鄧小平氏は、胡耀邦、趙紫陽氏を相次いでトップに据えたが、ともに道半ばで失脚した。1989年の天安門事件で社会が混乱に陥る中、鄧氏が総書記に選んだのが江沢民氏である。当時の李鵬首相を差し置き、上海市書記から一気にトップに就く大抜擢だった。

 1997年2月に鄧小平が亡くなり、江沢民時代が本格到来したが、江氏には後継者指名の余地はなかった。1992年10月の第14回党大会で、当時49歳の胡錦濤氏が政治局常務委員7人の末席に選出され、事実上、将来の総書記の地位が約束されていたからだ。

 胡氏は1942年12月生まれ。清華大で水利工程を学び、共青団第一書記の後、1985年貴州省書記、1988年チベット自治区書記に就任。政治局常務委員会入りは、鄧小平氏に手腕を認められての抜擢だった。

 今回、習氏が総書記最有力候補になった過程を振り返ると、胡錦濤氏にも絶対的な後継者指名権はなかった、と見ることができる。中国は、権力者が自身の権威によって後継者を指名することができない時代となったのである。国民の意思を直接問うのではなく、人口の6%(8200万人)の共産党員のみによる内部選抜によって、強大な権力を受け継ぐ指導者は今後、どのようにして「権力の正統性」を確保していくのか。

 これからの中国の改革、とりわけ政治体制改革の行方に世界が注目するわけはここにある。


【付記】※記事の中で述べた意見等は、筆者の個人的見解であり、科学技術振興機構および中国総合研究センターの見解ではありません。