日本における食料・農業問題
2009年5月22日
鈴木宣弘(すずきのぶひろ):
東京大学大学院農学国際専攻 教授
1958年三重県生まれ。1982年東京大学農学部卒業。農林水産省、九州大学教授を経て、2006年より現職。専門は、農業経済学、国際貿易論。食料・農業・農村政策審議会委員(会長代理、企画部会長、畜産部会長、農業共済部会長)。主著に、『現代の食料・農業問題―誤解から打開へ』(創森社、2008年)、『日豪EPAと日本の食料』(筑波書房、2007年)、『食べ方で地球が変わる―フードマイレージと食・農・環境』(共編著、創森社、2007年)、『農のミッション-WTOを超えて』(全国農業会議所、2006年)、『FTAと日本の食料・農業』(筑波書房、2004年)等。
「食料危機」の教訓
今回の「食料危機」は、我々に大きな教訓を残した。需給が逼迫したら、まず自国優先で、輸出規制という食料の囲い込みが起こり、高くて買えないどころか、お金を出しても買えない事態が起こりうるということが確認された。WTO(世界貿易機関)にしたがい、関税削減を進めたために、小規模ながらコメなどの基礎食料生産を担っていた農家が潰れてしまっていた途上国は、主食が手に入らなくなり、悲鳴を上げた。
輸出規制は、自国民の食料を守る責任から行われる以上、それを完全に規制することは無理だ。しからば、食料を安易な国際分業に頼るルールは見直し、やはり自国での生産を取り戻さねばならないことになる。日本も生産現場の疲弊が進行しており、途上国で起きた混乱は、将来的には他人事ではないと考えるべきであろう。
穀物に対するバイオ燃料需要の拡大は、木くずや雑草を原料とする第二世代の実用化とともに収束していく可能性があるので、第二世代が主流となるまでの過渡期をどう乗り切るかという問題と考えたほうがよい。さらには、原油の高騰はバイオ燃料を含む代替燃料の開発・利用を促進するから、エネルギー需給が次第に緩み、原油の高騰も緩和されるであろう。原油価格が落ち着けば、補助金を増額できないかぎり、バイオ燃料用に穀物を使用するのは採算がとれなくなり、バイオ燃料の義務目標の見直しも迫られてくる。新興国の「爆食」や人口爆発に伴う需要増加にも頭打ちがあることも考慮すべきである。一方、生産物価格の高騰によって、長期間の価格低迷で増産型技術開発が停滞していたために鈍化していた単収の伸びが加速される可能性や不耕作地の再利用の動き等も勘案すると、供給増加の制約を強調する見方にも疑問がある。したがって、世界的な食料需給が一方的に逼迫を強めることは考えにくい。この点は冷静に踏まえておく必要があろう。
つまり、一方的に、穀物価格が上がり続けることはないと考えられる。価格の上昇と下落は繰り返すものと思われるが、問題は、WTOにより食料の生産・輸出国の偏在化も進んでいるため、何らかの需給変化の国際価格への影響が大きく、その不安心理による輸出規制、高値期待による投機資金の流入が生じやすく、さらに価格高騰が増幅されやすくなってきていることである。
不測の事態への備え
食料価格は上昇と下降を繰り返していくであろうが、不測の事態になれば、輸出規制も簡単に行われることを前提にして、平時から常に準備しておく必要があるという視点が必要であり、実は、欧米各国は、それを当然のこととして常に国内生産を振興してきた。
米国は、対外的に食料安全保障の話なんか全くしないから、そんなことは考えていないのだというのは間違っている。米国は、100%を大きく上回る十分な自給率を常に維持しているから、対外交渉で自給率低下の懸念を主張する必要がないだけで、実は食料自給率と国家安全保障の関係を非常に重視している。このことを最もよく示すブッシュ前大統領の日本を皮肉るかのような演説を紹介すると、「食料自給は国家安全保障の問題であり、それが常に保証されている米国は有り難い」、「食料自給できない国を想像できるか、それは国際的圧力と危険にさらされている国だ」といった具合である。
戦略的支援により自給率が100%を超える輸出国
米国は競争力があるから輸出国になり自給率が100%を超えているのではなく、食料生産への手厚い支援によって、国内需要を上回る食料生産が常に確保され、かつ、その余剰食料を世界の人々の胃袋を握る武器として戦略的に活用できたのである。それは、農家の手取りは別に補填する一方で、販売価格は低くするという「隠れた」輸出補助金による「攻撃的保護」で達成されてきた。
日本の食料生産が、高関税と過保護な国内支援で守られているというのは、相対的には間違っている。関税が高かったら、我々の体のエネルギーの60%もが輸入に頼るほどに、輸入食品が溢れるわけがないし、関税が低くても、国内補助が十分なら、収入が十分得られるから、担い手も育ったであろう。農業所得に占める政府からの補助金(直接支払い)の割合は、米国で5割前後、フランスで8割、スイスでは100%近くなのに対して、我が国では16%程度というデータがある。他の先進国が100%前後の自給率を維持しているのは戦略的な手厚い支援の結果であり、日本は保護削減の世界一の優等生であるから、自給率が下がったと整理したほうがわかりやすい。
日本の自給率は40→50%でなく40→30→12%か?
WTOの農業保護削減交渉は、ゼロ関税に向けての単純な国際分業では、食料需給の逼迫で「輸出規制」等が行われる事態に対応できないという問題とともに、輸出国は自らの攻撃的保護は温存したまま輸入国には関税撤廃を迫るという理不尽な要求を突きつけているという問題の二つをかかえている。国益に反するならインドのようにNOという勇気も必要だ。米国は自国の利益に反するなら常にNOを貫いている。いつも最後は押し込まれるだけの日本では国際社会で軽んじられる。
結局、現行のWTOルールは次第にゼロ関税を実現する流れを止める機能を持っていない。それに加えて、二国ないし数カ国間のFTA(自由貿易協定)も、日豪に続いて、日米、日EUの準備が進められている。今回の「食料危機」や、いくつもの安全性の問題の浮上により、国産食料の重要性への認識が高まっているといわれていながら、さらなる貿易自由化以前の問題として、生産資材コストの高騰にもかかわらず、十分上がらない生産物価格の下で、酪農の苦境に象徴されるような我が国の食料生産の縮小が進んでいる。それに加えて、ダブルパンチで、貿易自由化の流れが止められないとすれば、世論が追い風だといわれるのは表面だけの話で、それとは裏腹に、我が国の食料生産の縮小は止まらない。
日豪のFTAの成立だけでも、40%の自給率が30%まで下がり、日米、日EUが続くとなると、WTOベースで自由化したのと変わらなくなり、自給率は12%に向けて下がるとの試算がある。かりに輸出産業がさらに発展できたとしても、地域社会が崩壊し、国土が荒れ果てる中、食料は安く買えることを前提にして突き進むのが、日本の将来のあるべき姿なのかどうかが今問われている。これは、農業関係者が決めることでも、経済界が決めることでもなく、消費者を含む国民全体で決定すべき、我が国の国家のあり方に対する重大な選択である。
「農の価値」を共有し、国民が支えてくれるか
スイスの卵は一個60~80円もするが、20円の輸入物に負けていない。ケージ飼いが禁止され、野原で伸び伸び育った鶏の価値を評価する国民が、ケージ飼いの輸入卵は安くても「本物」ではないという気持ちで支えている。また、「これを買うことで農家の皆さんの生活が支えられ、それによって自分たちの生活が支えられているのだから当たり前でしょ」と小学生の女の子が答えたという意識の高さにも驚く。さらに、農産物の価格に反映できない部分は、環境や景観の維持などの多様な側面でお世話になっている対価として市民がお金を集めて別途支払うべきという認識の下に、具体的かつ詳細に理由づけして直接支払いが充実しているのが欧州である。
我が国での従来の、漠然とした「多面的機能」論は保護の言い訳としか認識されなかったきらいがある。我が国でも、例えば、生物多様性(オタマジャクシ、カブトエビの数など)、水田の洪水防止機能・水質浄化機能、バーチャル・ウォーター(輸入農産物をかりに日本で生産したとしたら、どれだけの水が必要か)、カーボン・フットプリント(原料調達・生産・流通・消費・再利用までの全行程でのCO2排出量の表示)、窒素負荷、農村景観といった具体的な指標を共有して、食料の確保と付随して国内の食料生産が果たしている価値を一緒に認識していく必要がある。
価格に反映されない食料生産の様々な価値を理解してもらうために、生産サイドは説明しないといけない。我が国の農業に対する支援がけっして「過保護」なのではないという事実を理解してもらうとともに、「農家が困る」ということではなく、国民全体の失うものを具体的な指標で提示し、支援の根拠を明確にし、生産者と消費者の支え合う信頼関係を強化し、それを国際的な貿易ルールにも反映していく努力を急がなくてはならない。
日本の消費者も、狭い金銭的な側面だけでなく、そうした価値に納得して、バラマキではない支援に理解が深まればと思う。そうすれば、生産者も、自らの社会的使命(ミッション)に誇りを持って、生産に取り組める。そして、生産者と消費者の双方をしっかりつなぐために、政府が直接支払い等の必要な支援システムを確立し、生産者と消費者の支え合いをサポートしていくことが求められよう。
農政改革の方向性
農村現場が活気に満ち、できるかぎり安価に、国民に安全・安心な食料を安定的に提供できるようにするには何が必要か。
まず、農業経営者が自らの判断でのびのびと創意工夫し、経営能力を十分に発揮できる環境整備が必要である。政策が農家を縛ってはいけない。農家が自分に必要な施策を選べるようになっていることが理想であろう。
その場合、規模拡大によるコストダウンというのは有力な戦略の一つであることは間違いないが、経営戦略は多様であり、意欲ある経営というのを、一つの指標のみ、例えば、規模のみで判断することは難しいことも認識する必要があろう。
さらには、現在、多くの大規模稲作経営から、米価の下落に歯止めがかからないため将来的な経営計画が立てられないという深刻な悩みが聞かれるように、日本の土地条件の不利性等により努力で埋められない生産性格差等を踏まえて、意欲ある担い手が最低限の所得を得られるセーフティネットをいかに構築するかが問われている。
さらには、担い手を支える産業政策とは別の視点から、中山間地域等を含めて、農業・農村の持つ多様な価値に基づいて、我が国に農業・農村が存続することを国民として支えることに合意が得られれば、こうした社会政策的な支援が真に「車の両輪」といえるような大きな柱になるように、大幅に拡充することが欠かせない。
つまり、経営の自由な創意工夫を高めつつも、しっかりとした下支えをセットにして、農業・農村が全体として活気を保ち、持続的に発展するようにしなければならない。
また、それが消費者、国民全体から見てもメリットがあることなのだということを、明確な根拠と、可能なかぎりの具体的数字に基づいて示し、議論し、納得を得る必要がある。
コメの生産調整については、水田のフル活用というのは、生産で調整せず、販売で調整することにより、まさに、現場の自由度を高めようとする流れであることを認識する必要がある。これが進めば、主食用米の過剰圧力が弱まり、結果的には、割当てが必要なくなり、主食用米、米粉用米、飼料米、バイオ燃料米、麦・大豆等、水田に何の用途のコメをつくるか、その他の作物をつくるかで異なる補填体系から、自らの地域や経営に合うものを選び、適地適作が誘導される体系が生まれる。生産調整に関する様々な議論は、対立の構図ではなく、共通の目的を達成するために収斂させることが可能だと思われる。
最後に、政策決定に当たっては、政策を創るのは農村現場であり、消費者であるという視点に立ち、本当に現場で必要なものは何なのか、どうすれば消費者が支持してくれるか、という視点から、シンプルだがポイントを押さえた効率的な対策を早急に詰める必要があろう。また、関係団体・組織は、「組織が組織のために働いたら組織は潰れ、拠って立つ人々のために働いてこそ組織は持続できる」という視点を持つ必要があろう。