生物多様性を育む生態系ネットワーク ~安定同位体分析を用いた評価手法の開発~
2009年8月19日
奥田 昇(おくだ のぼる):京都大学生態学研究センター准教授
1969年12月生まれ 1998年京都大学動物学専攻理学博士。
水域生態学を専門として、現在は、琵琶湖の生物多様性と生態系機能に関する研究に従事。琵琶湖の生物多様性保全を目的とした研究プロジェクトを数多く手がける。NPOなどの環境教育活動にも力を入れる。主な著書に、「生物の多様性ってなんだろう?-生命のジグソーパズル-」(分担執筆、京都大学学術出版会)、「流域環境評価と安定同位体」(分担執筆、京都大学学術出版会)など。
共著:柴田 淳也(愛媛大学沿岸環境科学研究センター グローバルCOE研究員)
2010年、愛知県名古屋市にて生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が開催される。本会議は、2002年にオランダのハーグ(COP6)で採択された「締約国は現在の生物多様性の損失速度を2010年までに顕著に減少させる」という「2010年目標」の達成状況を検証し、新たな目標を策定することを主要議題に据える。開催国として、生物多様性保全への取り組みとその成果が問われることになろう。
我が国では、COP10に先立ち、2007年に第三次生物多様性国家戦略が策定された。この戦略の中で、生物多様性の損失をもたらす3つの危機が指摘されている。すなわち、「人間活動に起因する生息地の縮小・消失」「里地里山の放棄による生息環境の劣化」「外来種の人為的移入による生態系攪乱」である。
本稿では、琵琶湖に生息する在来魚を例として、上述の人為的要因がいかに近年の生物多様性の損失をもたらしてきたかを概観し、筆者らが実施した在来魚保全に資する流域生態系評価手法に関する研究事例を紹介する。最後に、我が国をはじめとするモンスーン・アジアの国々が共有する伝統的文化に根ざした生物多様性保全の在り方について論考したい。
モンスーン・アジアにおけるコイ科魚類の繁栄
コイ科魚類は世界の陸水域から2,400種以上が記載されている脊椎動物の中で最も種の多様性が高いグループである(Nelson 2006)。その多様性は、特にアジアにおいて顕著である。また、その現存量の豊富さから、内陸の国々では貴重なタンパク源として利用されている。本科魚類には、降雨によって出現する一時水域を産卵場として好む種が多い。これらは、自然界では水生植物帯であったり氾濫原であったりするが、人間により創出された二次的自然である農業用水路や水田などもしばしば産卵場として利用される。
モンスーン・アジアでコイ科魚類が繁栄した背景には、温暖多雨な気候を利用して発達した水稲耕作が、結果として、これらの魚類に適した生存基盤を提供したことと関係あるかもしれない。このように、モンスーン・アジアでは、稲作文化を通じたヒトとコイ科の共存・共生社会が成立していたと考えられている(中島 2001)。
変貌する琵琶湖 失われゆく生物多様性
琵琶湖は我が国で最大の湖である。その貯水量は日本全体の淡水資源のじつに3分の1を占め、近畿4府県1400万人の生活を支えている。その大きさ故、いにしえより琵琶湖は「淡海(あふみ)」と呼ばれてきた。滋賀県を近江(おうみ)の国と呼ぶのも、この「淡海」に由来する。琵琶湖の幸に恵まれた近江の地では、鮒寿司、ハス田楽、本諸子の塩焼などコイ科を食する独自の湖魚食文化が発達している。
さらに、琵琶湖は日本一大きいというだけでなく、生物多様性の高さで世界にその名を轟かせている。最新の報告によると、2800種以上の生物がこの湖に生息する。その内、61種は琵琶湖にしか生息しない固有種である。琵琶湖は約400万年の歴史をもつ古代湖である。その悠久の歴史の中で多様な生物が独自の進化を遂げた。
世界的に稀有な生物多様性を誇る琵琶湖だが、この半世紀ほどの間に様相は一変した。まず、1960年代の後半から富栄養化の兆候が現れ、赤潮やアオコなど水質悪化の問題が顕在化した。富栄養化は水道水のカビ臭として流域住民の関心事となるが、その一方で、水質汚染に弱い生き物たちは人知れずその姿を消していった。また、1972年に始まった琵琶湖総合開発による湖岸造成は、埋め立てられたヨシ帯を餌場や産卵場として利用する生き物を湖岸から追いやることとなった。さらに、近年では、オオクチバスやブルーギルなどの肉食性の高い魚類の人為放流によって、在来生物に対する食害が懸念されている。
これらの人為撹乱が在来生物の多様性を減少させる主要因であることは明白だが、どの生物がどのような要因によって減少したかを解明する生態学的研究は残念ながら遅々として進んでいない。
途絶する水辺のつながり
このような現状を踏まえ、筆者らは生態系ネットワークを遮断する生息地の物理的改変が在来魚に与える影響を評価するプロジェクト研究を実施した。前述の人為撹乱要因に較べると若干なじみの薄い環境問題であるが、その生態影響は看過できないほど甚大であることを憂慮した。
琵琶湖には、大小合わせて500本余りの河川が流入する。その集水面積は滋賀県の面積にも匹敵する巨大な水循環ネットワークである。河川を水循環の大動脈に喩えるなら、網の目のように張り巡らされた小水路はいわば毛細血管であり、それと水田が連結することによって1つのネットワークシステムが形成される。仮に、琵琶湖岸の生息地の一部が損なわれたとしても、この生態系ネットワークが十分に機能しているなら、琵琶湖よりはるかに大きな面積を誇る代替生息地を多くの在来魚が利用できるはずである。
しかし、この淡い期待は脆くも崩れ去ることとなる。琵琶湖総合開発の一環として、農業用水の安定供給を目的に実施された土地改良事業により琵琶湖に隣接する多くの圃場で逆水灌漑が整備された(写真1)。この灌漑は、琵琶湖の水を動力ポンプによって直接水田に汲み上げ、排水を塩ビ管からコンクリート水路に垂れ流す方式を取る。産卵のために琵琶湖から遡上してきた魚類は入り口からも出口からも水田に入ることができず路頭に迷うしかない。
この灌漑システムを従来の方式に戻すのは、在来魚の保全上、非常に有効であると考えられる。しかし、現代社会において、これを実現するのは容易いことではない。この点については、本稿の最後であらためて考察したい。
写真1 逆水灌漑方式の水田
水田に設置された蛇口から引水し(a)、排水は塩ビ管を伝ってコンクリート水路に流される(b)
生態系ネットワークのサブシステムとしての内湖
現在、琵琶湖流域では、コイ科魚類が産卵場として好むヨシ帯の大半は「内湖」と呼ばれる小水塊に存在する。内湖とは、もともと琵琶湖沿岸の一部であった内湾や入り江の湾口部に砂嘴が形成されることによって本湖から隔離された水塊を指す。形状的には農業用ため池に似るが、琵琶湖と水位連動した生態系ネットワークのサブシステムであるという点で機能的には大きく異なる。
昔の内湖には多様な生態系機能が備わっていた。例えば、集落から出た生活排水や農業排水は直接琵琶湖に流れ込むことなく、内湖に貯留されることによって浄化されていた。いわば、天然の浄化装置である。また、内湖は、琵琶湖から産卵に訪れるコイ・フナ類を効率的に捕獲できる好漁場として、相当量の水揚げが古文書にも記録されている。
明治時代には琵琶湖周辺に数多く点在していた内湖だが、戦後の食糧増産の必要性から農地としての埋め立てが進み、その面積の7分の6が消失した(西野 & 浜端 2005)。現在は23内湖が残存するのみである。また、湖岸道路の整備や水位調節を目的とした樋門の設置によって、琵琶湖とのつながりが物理的に遮断された内湖も少なくない。
安定同位体を用いた魚類の生息履歴推定
このような生態系ネットワークの断裂が、琵琶湖から内湖に産卵回遊する魚類にどのような影響を及ぼすか評価するのが本研究プロジェクトの目的である。魚類の回遊行動を追跡するには幾つかの方法がある。例えば、魚体に標識を施した個体を放流・再捕獲する方法、電波や音波発信機を装着した個体の位置情報を受信機で捕捉する音響手法などである。しかし、これらの従来的な方法には、データ回収率が悪い、一度に多数の個体を追跡できない、長距離の移動を捕捉できないなどの欠点があった。そこで、我々は、炭素・窒素安定同位体分析を用いて、魚類による琵琶湖から内湖への回遊実態を定量化する方法論の導入を試みた。
炭素・窒素安定同位体分析は、近年、生態学研究の分野で幅広く活用されている(永田 & 宮島 2008)。特に、動物の食性解析や生態系の構造解析でその威力を発揮する。この解析の原理は、動物が摂食の際に取り込んだ有機炭素や窒素を同化する過程で生じる同位体分別によって炭素および窒素の安定同位体比が規則的に上昇することを利用したものである。特に、炭素同位体比は生態系の生産基盤に固有の値を示し、その生態系に生息する生物は必ずその炭素同位体比の範囲内に含まれるという特徴をもつ。いわば、生物の居住区域を標すZIPコードのようなものである。この特徴を活かして、最近では、農産物の産地偽装を検査するトレーサビリティとして安定同位体が用いられている。
この手法を応用すると、ある場所で捕獲された魚がどの生息地で暮らしていたかを推定することができる(図1)。例えば、内湖で捕獲された個体の中には、もともと内湖に生息していたものと産卵のために琵琶湖から内湖に一時的に回遊してきたものが含まれる。内湖に固有の安定同位体比を示す個体は内湖産と判断され、琵琶湖に固有の同位体比を示す個体は琵琶湖産と判断することができるというわけだ。
図1 安定同位体分析を用いた魚類の生息履歴推定の概念図
琵琶湖と内湖の生態系は固有の炭素・窒素同位体比を示す(それぞれ、白とグレーで囲まれた領域)。
○と△印は生態系の基盤をなす一次生産者。内湖で捕獲した個体が琵琶湖に固有の安定同位体比を示すなら、
その個体(図中の個体B)は琵琶湖から内湖に最近移動してきたものと推定される。
コイ科魚類の回遊実態
実際に、各内湖で捕獲された魚類の安定同位体分析を行い、どの程度の割合の個体が琵琶湖から回遊してきたものであるか見積もった。さらに、各内湖における回遊頻度と琵琶湖に連絡する水路の物理構造特性との関係を解析することによって、魚類の産卵回遊に適した水路の諸特性を抽出することを試みた。調査対象として、3種の在来フナ類(ニゴロブナ・ゲンゴロウブナ・ギンブナ)を用いた。ニゴロブナとゲンゴロウブナは琵琶湖の固有種である。
安定同位体分析による生息履歴推定の結果、産卵シーズンに琵琶湖から内湖に回遊してきたフナ類の割合は内湖全体で30.9%であった(Shibata et al. 準備中)。内湖間で比較してみると、琵琶湖からの産卵回遊が全く見られない内湖も存在することから、生態系ネットワーク機能としての連絡水路に何らかの構造上の違いがあるものと推察された(写真2)。回遊頻度の高い水路の物理的構造特性を多変量解析によって検討してみたところ、幅の広い水路よりむしろ狭い水路にフナ類が頻繁に回遊することが明らかとなった。その一方で、樋門や堰などの人工構造物や水路一面に繁茂する水生植物など魚類の往来を妨げる物理的障壁が存在すると、回遊が阻害される要因となりうることも浮彫りとなった。
写真2 琵琶湖と内湖を連絡するさまざまな水路
(a)樋門(水路奥側)によって魚の移動が妨げられる水路。(b)フナ類が好んで産卵遡上する幅の狭い手掘り水路。
(c)整備されたコンクリート水路。 (d) 水生植物が繁茂した未手入れの水路
生態系ネットワークと在来魚保全
琵琶湖に生息する在来魚の多くは、湖岸や内湖などの一時水域を餌場や産卵場として利用する。かれらがその生活環を全うするには岸辺の生息地が必要不可欠である。したがって、生態系ネットワークが失われることは、これらの魚の再生産が損なわれる、すなわち、個体群の絶滅確率が増加することを意味する。生息地のつながりを修復・再生することが琵琶湖の生物多様性を保全する上でいかに重要であるかご理解いただけただろうか。
我々の提案する安定同位体を用いた生態系ネットワークの評価手法は、今後の生態系管理施策において効力を発揮すると期待される。これまで、内湖では、排水機能を向上させるための連絡水路の改修工事や水位操作のための樋門設置などが実施されてきた。これらの管理施策は、あくまでも治水・利水機能を最適化するようにデザインされたものであり、必ずしも在来魚の産卵回遊を促進するためのものではない。時として、悪影響さえ及ぼしうる。これらの人工構造物を撤廃することは現実的でないが、在来魚の産卵遡上時期に合わせて樋門の開閉を調節するなど柔軟な管理を実施するだけでも何らかの改善効果が見込めるかもしれない。また、そのような順応的管理の効能は、同様に安定同位体手法によって評価可能である。
現在、生態系管理の現場では生態系や生物に関する生態学的知見が圧倒的に不足している。生態学者がさらなる努力を費やさねばならぬことは言うまでもなく、これらの生態学的知見を政策決定者や土木工学者と共有し、順応的管理の現場にフィードバックさせるための組織間ネットワークの構築も求められるだろう。
自然との共生社会を目指して
本稿では、モンスーン・アジアで発達した稲作文化とコイ科魚類の関わりについて、琵琶湖流域社会を例に挙げながら紹介した。伝統的な灌漑によって維持されてきた生態系ネットワークシステムが在来魚の多様性保全に有効であることは先に述べた通りである。生物多様性国家戦略にも謳われるように、「里地里山の放棄による生息環境の劣化」は生物多様性にとって大きな脅威となりうる。しかし、残念ながら、そのような農業活動を維持することは現在の日本の社会システムにおいて極めて困難と言わざるを得ない。安価な農作物の国外輸入に頼る流通経済システムが大量の兼業農家を生み出し、農家にとって負担の少ない逆水灌漑の普及を後押ししたからだ。
このような現状にあって、内湖は琵琶湖の生態系ネットワークを維持する最後の砦と位置づけられる。我々の研究は、昔ながらの小さな水路が琵琶湖から内湖へ産卵回遊する魚を導引するのに効果的であることを実証した。このような水路を再生することは土木工学的には容易であるが、それを行政的に管理するのは一筋縄でない。なぜなら、このような水路にはひと夏で水生植物が繁茂してしまうからだ(写真2d)。そのような水路は、逆に魚の産卵遡上を阻害しかねない。昔ながらの手掘り水路の管理には、人による不断の手入れが必要なのである。
私有地である水田と異なり、内湖はコモンズとしての性格をもつ。稲作文化の発展したアジアの国々では、水路などの共有地を地域共同体で管理する仕組みが備わっている。残念ながら、現代社会において、地域共同体における人と人のつながりは希薄化しつつある。生態系ネットワークシステムの維持と生物多様性の保全を実践するには、地域社会のネットワークシステムを修復することが不可欠となるだろう。
参考文献:
- 中島経夫 (2001) 日本の基層文化における西と東―歴史の中での琵琶湖の役割―. In: 知ってますかこの琵琶湖を:琵琶湖を語る50章 (琵琶湖百科編集委員会編), p153-158、 彦根市、 サンライズ出版
- 永田俊 & 宮島利宏 (2008) 流域環境評価と安定同位体:水循環から生態系まで. pp 476, 京都市, 京都大学学術出版会
- 西野麻知子 & 浜端悦治 (2005) 内湖からのメッセージ:琵琶湖周辺の湿地再生と生物多様性保全. pp 253, 彦根市, サンライズ出版
- Nelson JS (2006). Fishes of the world (4th ed). pp601, New Jersey, John Wiley & Sons, Inc.