第44号:ゲノムおよび機能分子解析の進展
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ゲノム解析新時代における国際がんゲノム共同研究

2010年 5月25日

柴田 龍弘

柴田 龍弘(しばた たつひろ):国立がん研究センター ゲノム構造解析プロジェクト プロジェクトリーダー

1965年8月生まれ。
1994年 東京大学医学部 大学院卒業 専攻:病理学 医学博士
1995年 米国 カリフォルニア大学アーバイン校 博士研究員
2003年 国立がんセンター研究所病理部 実験病理室長
2005年より 現職

主な研究

肝臓がん・肺がん・膵がん等におけるゲノム異常解明とその臨床応用が研究テーマ。国際がんゲノムコンソーシアムに参加している国立がん研究センターグループの研究リーダー。

1.がんはゲノムの病気であり、その克服にはゲノムの理解が重要である。

 がんは、先進国だけでなく発展途上国でも急速に患者数が増加しており、その克服は世界共通の目的となっています。2007年には、全世界で約760万人以上ががんで死亡し、1,200万人以上が新たにがんと診断されました。がんの解明と克服に何らかの進歩が見られなければ、2050年には2,700万人ものがん罹患と1,750万人ものがん死亡にまで増加するものと予測されています (1)。日本においても、1990年にがんは虚血性心疾患や脳血管疾患を抜いて死亡原因の第1位となり (2)、年間30万人以上の方が亡くなっています。しかし、多くのがんではまだまだ有効な治療法は少なく、新しい診断法・治療法や予防法が強く求められています。

 一方で、がんはゲノムの異常が原因で起こる疾患であることがすでに明らかになっています。すなわち正常の細胞の遺伝子(ゲノム)に、何らかの原因(発がん物質等)によって後天的に傷が入り(体細胞異常)、特定の遺伝子が活性化(がん遺伝子)あるいは不活性化される(がん抑制遺伝子)ことによって、無秩序な増殖や転移を起こすものががん細胞となるのです。ゲノム異常ががんの発生の根本的な原因であり、がんの発生過程や浸潤転移の獲得において重要であることがわかると、がんにおける遺伝子異常の解析ががんの本態解明の重要な柱となりました。しかも、近年の分子標的治療の開発とその成功によって、がんの遺伝子異常解析はがんの治療においても大事な役割を果たすことになりました。分子標的治療とは、正常細胞とは異なるゲノム異常を持ったがん細胞にある特異的な分子を標的として治療するもので (3)、例えば慢性白血病におけるBCR-ABL染色体転座に対するグリベックやEGFR変異肺がんに対するイレッサ等が有名な例です。この治療法によって、1.正常細胞への障害、すなわち副作用、が従来の抗がん剤に比べて少なく、2.特異的な異常分子を標的とするために、より正確な治療反応性を予測することが可能になりました。これまで成功している分子標的の多くは遺伝子増幅 (HER2等)、遺伝子変異 (EGFR, c-KIT, BRAF等)、染色体転座 (BCR-ABL等)といったゲノム異常であり、がんのゲノムを詳細に知る事で新たな治療法を生み出すための基盤となる情報を手に入れる事ができると思われます。

2.新しいゲノム解析技術によって大きく変わるがんゲノム研究

 今世紀初頭にヒトゲノム全解読が終了し、我々はようやく自分のゲノムがどういったものであるかについて研究を始めることができるようになりました。にもかかわらず、数年前まではがんゲノムを完全に解読することは、費用や時間の面から非常に困難と考えられていました。ところが、新しい大量シークエンス技術が登場したことによって、こうした状況が大きく変わることになりました。いわゆる次世代シークエンサーと呼ばれる技術によって、ヒトゲノムのような巨大なゲノム(約30億塩基対)全体を直接解読することが可能になり (4)、がんゲノムも同様に全解読が可能な時代が幕を開けました (5, 6)。更にペアーエンド解析という方法の開発によって、配列情報に加えて、両者の配列の距離や方向も一緒に解析に加えることができるようになり、これまでのゲノム解析では同定が困難であった染色体の再構成までも網羅的に検出することができるようになりました(図1A)。

図1

図1

 こうした技術進歩によって、従来型の個別解析型がんゲノム解析から、ゲノム解読型がんゲノム解析への大きなパラダイムシフトが起こっています。従来型の解析では、がん家系の連鎖解析やLOH解析等からがん関連遺伝子が存在すると思われる領域を絞り込み、そこから標的遺伝子を単離していくという戦略が主体でしたが、これからの研究は、まずがんゲノム全体を解読してしまい、その中で見つかった体細胞ゲノム異常の中から重要ながん関連遺伝子を見つけるという逆向きの方向に大きく変わっていくと思われます(図1B)。こうした新たなパラダイムでは、1.まず全体を解読してしまうので、個別遺伝子研究と比較してより効率的にがん遺伝子の同定が可能になる、2.理論上全ての変異を同定できるので、個々の遺伝子変異の関係性についてもより包括的な議論ができる、といった長所がある一方で、3.がんで起こっている遺伝子変異には、直接的に発がんに寄与しているのではなくゲノム不安定性の結果として偶然起こった変異も含まれていることから、機能的にがんの発生や進展に寄与している真のがん遺伝子を同定していくための最適な方法論の確立、などといった問題点を解決していく必要があります。

2.ネットワーク型のがんゲノム研究

 更に次世代シークエンサーの整備やそこから生まれる大量のデータ解析を扱うためには、大規模なゲノムセンターが中心となって、こうしたプロジェクトを進行して行く必要があり、そのため新たなネットワーク型のがんゲノム研究プロジェクトの動きが各国で始まっています。その先駆けとして、2005年から米国でNIHのパイロットプロジェクトとして始まった大規模ながんゲノムプロジェクト(The Cancer Genome Atlas (TCGA) プロジェクト: http://cancergenome.nih.gov )は、全米の主要ながん研究機関をネットワークで結び、3つのがん(肺がん、脳腫瘍、卵巣がん)について、多施設からサンプルを集積し、いくつかの基幹研究施設で網羅的なゲノム解析を体系的に進めるというものです (7) 。2009年には、パイロットプロジェクトの結果から、NIHが本格的にこのプロジェクトを支援していくことが正式に決まりました。このように、がん組織と正常組織や血液といった臨床サンプルを収集する部門と、大量のサンプルについて新型シークエンサーを含めた包括的なゲノム解析を効率よく進める部門を合わせた大型プロジェクトが、がんゲノム研究の一つの形になってゆくものと思われます。

 またこうした国ごとのがん研究機関のネットワークを更に国際的に結んだがんゲノム解析プロジェクトが開始されています。前述したようにゲノム解析技術の革新的な進歩によって、多数のがん検体における遺伝子異常を包括的に明らかにすることが可能になりましたが、それをより効率よく進め、また世界中のがん研究者が速やかにその成果を利用し、更なるがん研究を推進するためには、国際的な分担とデータ品質やデータベース構築の標準化が必須であると考えられます。というのも、それぞれの研究プロジェクトが異なった基準で個別にデータを発表してしまうと、それを比較し、統合的な解析を行う場合には、病理診断や臨床情報などに関する用語の統一等、非常に困難が生じるからです。そこで、あらかじめ病理診断・臨床情報・がんゲノム解析に関する国際的な基準を提唱し、それに則った形でデータベースを構築することで、異なるがん、あるいは同じがん種でも人種間における相違などといった解析を容易にすることができると考えられます。これまでのヒトゲノムプロジェクトやハップマッププロジェクトといった大型ゲノムプロジェクトにおいて、欧米・日本などの複数の国が共同参加した結果、品質が保証され、多くの研究者にとって有用なデータベースを構築できたという経験に基づき、がんゲノムについての国際標準データベースを構築するという、国際がんゲノムコンソーシアム (International Cancer Genome Consortium: ICGC, www.icgc.org) が提唱されました (8)。

3.国際がんゲノムコンソーシアム (ICGC)とは

 国際がんゲノムコンソーシアムでは、50種類のがん(亜型を含む)についてそれぞれ500症例のゲノム異常(体細胞異常)を、広く(3%以上の頻度で起こる変異まで同定することを目指す)、高精度に(シークエンスレベルで)解読し、病理診断や解析技術については共通した基準に従い、そのデータを速やかに研究者共同体に公開すること、並びに、がんゲノム解析の方法論やサンプルやデータの品質・データベース構築・個人情報保護といった様々な問題点について国際標準的なルールを提唱し、世界中の研究者と共有することを目的としています。このプロジェクトを国際的な共同研究で行なうことにより、対象となるがん種の重複を解消し、解析技術の共有でコストを下げ、解析結果を共通のデータベースで公開することで他の研究者も迅速に再解析・評価を行なえるようにし、プロジェクト外の研究者も含めて世界のがん研究全体に貢献することがコンソーシアムの基本的な方針となっています。2008年4月に10カ国(カナダ、中国、フランス、インド、日本、イギリス、米国、オーストラリア、欧州委員会、シンガポール)が参加表明して、正式にコンソーシアムの発足の運びとなりました。日本からは、国立がんセンターと理化学研究所が創立メンバーとして参加しています。その後も参加表明国は増加し、現在12カ国(欧州連合を含む)のがん研究機関が共同してこの国際コンソーシアムを運営しています (8)。それぞれの研究機関では1つないしは2つのがん種に関して、上に述べたような解析を行うことになっています。日本のグループは、日本人に特徴的ながんの一つであるウイルス関連肝臓がんについて、現在解析を進めています。

4.国際がんゲノム共同研究の目指すところ

 この国際プロジェクトによって、多くのがんにおけるゲノム異常のカタログが作成されれば、新しいゲノム異常の発見やそれに基づくがんの予防・診断・治療の革新が大いに期待されます。と同時に、今回の試みから、新しい国際協調型のがん研究の枠組みができ上がることも重要だと考えられます。現在コンソーシアムでは、サンプルの品質・解析技術・情報解析・データベース構築並びにデータアクセス・ゲノム倫理の5分野について、コンソーシアム参加国のみならず世界中から各分野における専門家に参加してもらい、それぞれ小委員会を組織し、具体的な標準ルールの策定を進めています(図2)。日本からも何人かの専門家の方に参加をお願いしておりますが、こうした標準化の手順は、今後がんエピゲノム解析やがんプロテオーム解析など、同様の国際共同研究を行う際にも基準となる重要なものと考えられます。今回のコンソーシアムの中でも、できるだけゲノム解析を行った同じ検体での発現解析やメチル化異常解析について推奨されており、将来的にはゲノム情報にエピゲノム情報、RNAやタンパク質の発現を組み合わせたがんのOMICS解析データベースの構築へ進むことが予想されます。その場合でもゲノム情報は様々な分子の動きや異常を考える上で必須となる重要な情報基盤であり、その点からも今回のコンソーシアムの設立の意義は大変大きいと思います。また小児腫瘍や肉腫といった、比較的稀ながんについての研究の推進についても、コンソーシアムでは注目されています。1つの研究機関では十分な症例数を集積することは困難であることから、複数の国を結んだ国際共同研究を促進し、稀少ではあるが臨床的に重要ながんの解明も支援していくことも、コンソーシアムの使命の一つと考えられ、現在その枠組みについての議論が始まっています。

図2

図2

 ICGCはがんゲノムの全貌解明に向けた大きな国際プロジェクトですが、最も重要な使命は全てのがん研究者にとって有用な情報基盤を提供するという点だと考えられます。ヒトゲノムプロジェクトの終了によって、個々の遺伝子のクローニングや塩基配列決定、あるいはその類縁遺伝子群の同定といった作業は極めて簡便になり、その分機能解析やゲノム全体の制御機構といった研究が飛躍的に進歩しました。がんゲノム解読とそのデータベースの公開によって、おそらくがん遺伝子の同定という作業は簡便になり、むしろゲノムの全体像からがんという生命現象を新たに問い直すといった試みや、その結果をどのように臨床へ応用していくかという研究が加速されることになるでしょう。がんゲノム解読研究はもちろんそれ自体これまでにはない新しい研究成果を生み出すと同時に、がんの臨床研究を推進する基盤構築という点でも将来大いに評価されるのではないかと考えられます。

参考文献:

  1. http://www.cancer.org/docroot/STT/content/STT_1x_Global_Cancer_Facts_and_Figures_2007.asp
  2. http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suikei09/index.html
  3. Bernstein I. B.: Science, 297, 63-64, 2002.
  4. Bentley DR et al.: Nature, 456, 53-59, 2008.
  5. Ley TJ, et al.: Nature, 456, 66-72, 2008.
  6. Shah SP, et al.: Nature, 461, 809-813, 2009.
  7. Cancer Genome Atlas Network.: Nature, 455, 1061-1068, 2009.
  8. The International Cancer Genome Consortium: Nature, 464, 993-998, 2010.