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ゲノム創薬の研究現状および展望

2010年 9月10日

辻本豪三

辻本豪三(つじもとごうぞう):
京都大学大学院薬学研究科 薬理ゲノミクス・ゲノム創薬科学分野 教授

1953年2月奈良県生まれ。1978年北海道大学医学部卒業、 医学博士。
医薬研究とは、本来いかに効果的な薬を作り出すかという実学のはずが、いつの間にか理論が重視されるようになってしまいました。しかし、私たち医薬科学研究者が社会に直接貢献していくためには、実際に効果のある薬を作り出すことが一番ではないかと考えています。京都大学薬学部を始め、大学発の薬はまだ未完成ですが、将来、京大といえばあの薬と言われるような臨床薬の開発に取り組んでいきたいと考えています。同じような志の学徒が増える事を期待しています。URL: http://gdds.pharm.kyoto-u.ac.jp/

はじめに

 創薬研究は、先端的な科学と技術の融合の上に成り立っている。したがって、創薬研究のアブロ−チの歴史を振り返ってみると、それぞれの時代における先端的な科学と技術に基づき、研究コンセプトや開発手法の技術が大きく推移している。近年、各学問領域の中で、生化学、分子生物学、細胞生物学の著しい進展は目を瞠るものがあるが、中でも最大の収穫の一つは、ヒトゲノムの全解読とそれに基づく生命科学研究の変貌、また併行して発展してきたコンピュータサイエンスの進展に伴うIn Silico生命科学、システム生命科学の誕生であろう。ヒトゲノムの構造が明かとなり、更に次世代高速シークエンサーの登場などで近未来に迅速、安価に各個人のゲノムが解析され、ヒトのゲノムから個のゲノム(personalized genomics)へ、またその個のゲノム情報の応用が急展開する兆しにある。この加速化する個のゲノムの成果の影響を最も受けるものは、病気の原因解明、診断、治療といった医療分野である。個のゲノムの成果により、個々の患者の遺伝的体質に合わせた処方、治療計画がなされる、いわゆるテーラーメイド医療が現実となりつつある。遺伝子情報を基に患者各人に個別至適化された薬物治療を実現するため、従来から臨床薬物動態に関連する遺伝学として発展してきた薬理遺伝学は、ヒトゲノムの解読を受け更に薬理ゲノミクス(ファーマコゲノミクス)という新たなコンセプトの登場とともに、医療への応用に加速されつつある。また、この個別至適化した薬物治療を実用的にするための『ゲノム創薬』により、遺伝子情報に合わせた薬の品揃えの戦略も拍車がかかり、新たな分子標的医薬、抗体医薬の広がりは更に個の疾患治療を加速化しつつある。ここでは、この加速現実化しつつある薬理ゲノミクスを基盤とする個の医療についての取り組みの現状と更にそれを発展させる方法論、また近未来の「個の医療」について俯瞰する。

薬理ゲノミクス(ファーマコゲノミクス Pharmacogenomics)とゲノム創薬

 ヒトゲノム構造が明かとなり、その弾みを受けて現在、世界の研究者の関心は構造(塩基配列)からゲノムに記されている情報(遺伝子の機能)の読解(機能ゲノム科学functional genomics)へと既にポスト・ゲノム(シークエンス)時代へ突入しつつある。このヒトゲノム計画の影響を最も受けるものは、ヒトの病気の原因解明、診断、治療といった医療分野である。ヒトゲノム計画の成果により、病気の診断から治療に使用する薬の製造までのすべての過程は大きく影響を受け、近い将来には“ありふれた病気”に対しても個々の患者の遺伝的体質に合わせた処方、治療計画がなされる、いわゆる個別至適化医療(personalized medicine; わが国ではテーラーメイド医療、オーダーメイド医療などと称される)が提供されるであろう。このゲノム情報、技術を活用する患者各人に個別至適化された“テーラーメイド医療”を現実化するため、薬理ゲノミクス(ファーマコゲノミクス Pharmacogenomics)という新しい方法論が登場した。テーラーメイド医療-個別至適化した薬物治療-を実用的にするには、遺伝子情報に合わせた薬の品揃えが必要となるが、いわゆるゲノム情報から薬を理論的に創る『ゲノム創薬』の戦略が、やはりヒトゲノム情報解読により多くの製薬企業でますます加速化されつつある。このように、ヒトゲノム構造解読の波及効果として、ゲノム情報、ゲノムテクノロジーの進展は大きなうねりとして基礎、臨床研究、更には医療、創薬産業を大きく変えつつある。

 21世紀医療はテーラーメイド医療を軸として進化するであろう。そのテーラーメイド医療を完成させるためには多くの”仕組み”が必要となる。すなわち、各個人の"体質"(病気になり易さ、薬に対する応答性など)を正確に診断し、更にその”体質”にあった治療、予防がデザインされる。きめ細かな予防、治療のためには、いろいろなバイオマーカーも必要とされる。また、ゲノム科学による影響は、このような臨床医療の現場だけではなく、広く医療関連領域全般に波及効果が考えられる。例えば、治療薬開発の臨床治験も従来の各個人の"体質"を同一と考える集団統計に基づくものではなく、ゲノム解析により層別化された集団(responder,non-responderと呼ばれる効果群、非効果群、また副作用発現リスク群など)を対象として事前にハイリスクな被験者を除いておくことにより小規模で、迅速、低価格化が可能となろう。このように層別化されたある特定の患者集団を対象とするテーラーメイド医療は広範囲な医療、医学革命をもたらす。

 このような医療の個別化を完成させ、また推進するものとして、層別化された患者集団に最も至適化された治療薬を創成し提供する方法論が"ゲノム創薬“"薬理ゲノミクス”である。ゲノム科学に基づき網羅的に疾患関連遺伝子、治療関連遺伝子を探索し、科学的根拠に基づく創薬を行うプロセスが"ゲノム創薬”であり、一方そのようにして創られた薬物を各患者個々の遺伝的背景を元に治療薬選択、投与設計を行う方法論が"薬理ゲノミクス”(Phramacogenomicsファーマコゲノミクス とも言われる)である。既にゲノム創薬や薬理ゲノミクスの戦略はかなり確立されつつあるが、創薬プロセス各層の迅速かつ高高率なシステムが求められている。その最右翼の方法論がバイオインフォマティクスを活用するIT創薬である。

IT創薬:これからのゲノム創薬の鍵

 わが国でもゲノム創薬の必要性は、産官学界いずれにも強く認識されているものの、現在、必ずしも要請に十分対応出来ていない。その主たる要因は、ゲノム生命科学と化学が融合した新たな学際領域の人材不足、またその背景には専門教育の欠如にあると考えられる。特に、ゲノム創薬プロセスは、創薬ターゲット探索から創薬リード探索を経て臨床段階に至る広範で高度に専門化した領域からなる融合学際領域であるため、現状のオーソドックス創薬のための単一学科のみで纏った専門教育体制ではその修得が困難で、横断的な教育システムが必要とされる。すなわち、急速に進展しつつある「ゲノム生命科学(特にゲノム情報とゲノムテクノロジーからなる機能ゲノム科学)」、「医薬品化学(特にケミカルゲノミクス)」、そして両者を連関させ革新的な創薬へと昇華する「情報科学(特にバイオインフォマティクス)」の融合領域を基盤とするゲノム創薬科学の包括的教育とその実践的人材の輩出が、今後のゲノム創薬の発展には急務である。

 このような現況を克服する目的で、京都大学大学院薬学研究科ではゲノム創薬科学の礎となる新たな学際領域「創薬バイオインフォマティクス(IT創薬)」の体系化、およびその基盤知識に基づくゲノム創薬の包括的かつ実践的な指導を行い、今後の我が国における先端的創薬の推進と確立を担う人材輩出を目指す新たな専攻科を計画し、平成19年度より文部科学省の支援を受けわが国初のIT創薬専攻 "医薬創成情報科学専攻”を設立した。IT創薬(医薬創成情報科学)専攻は次の3点の大きな特色を有している。

  1. 新しい学際領域「創薬バイオインフォマティクス」の体系化とその研究教育
  2. ゲノム創薬プロセスにそった横断的な研究教育体制の確立
  3. 新学際領域のための教育カリキュラム作成と実践的ゲノム創薬人材養成コース

である。

 新しい学際領域「創薬バイオインフォマティクス」の体系化とその研究教育部門の新設:ここではゲノム創薬科学の基盤となる新たな融合学際領域「創薬バイオインフォマティクス」の体系化と教育に取り組む。創薬バイオインフォマティクスは、ゲノム科学時代の生命科学を医薬品化学と連携させる新たな創薬情報学分野であり、従来型のオーソドックス創薬からゲノム創薬への橋渡しを実現するゲノム創薬科学の基盤的専門領域と位置づけられる。創薬バイオインフォマティクスには、創薬のためのゲノム生命科学を担う「機能ゲノミクス」、ゲノム科学時代の先端的医薬品化学を担う「ケミカルゲノミクス」、および両者を連関させ革新的な創薬へと昇華する「創薬インフォマティクス」の新たな融合領域の大きく3領域に対応する部門が必要となろう。

 いずれにしろ、このインターネットによる情報グローバル化の今日、如何に効率良く、また迅速に、また網羅的に必要な情報を抽出し、更に其の情報に基づき具体的な創薬研究を効率良く推進する、いわばWET BIOLOGYとDRY BIOLOGYを適宜使うことが要諦である。そのためには、其の両者(WET BIOLOGYとDRY BIOLOGY)に精通した研究者が必要とされるが、未だわが国の現状はお粗末な状況である。

 国内外を問わず、基礎的なバイオインフォマティクスの研究教育が普及・定着しつつありその応用の可能性に機運が高まっているが、創薬に特化したバイオインフォマティクスやゲノム創薬科学の体系的教育システムは国内外ともに構築されていなかった。しかし、近年、米国ではポスト・ゲノムの戦略的ロードマップに基づきゲノム情報の創薬への展開が産官学で囲い込まれようとしており、我が国のこの分野での遅れは致命的になりつつある。これら米国におけるゲノム創薬の産学官連携体制に対当し先行するには、我が国の国家戦略としてのゲノム創薬の推進、とりわけその基盤となる独自の効率的なゲノム創薬教育システムの構築とその人材養成が急務である。特に欧米先進国の創薬戦略のみならず、IT領域ではインド、中国といった経済成長著しい新興国が、特にインドや東欧は従来より化学合成に実績が高く、またやはりインド、中国などは天然物の宝庫である。今後、これらの国で其のIT力と天然物化学、化学合成が合体すれば、其の創薬力は飛躍的に伸びるであろう。少子高齢化とゆとり教育で出遅れるわが国はこれらの国の後塵を拝する危険が極めて高いことを危惧する。

 2010年時点では医薬製造業の研究者のかなりの部分がITのスキルを有するとみられ、現在の医薬品製造の研究者の約1~2割に相当する2000人程度の人材が必要と試算されている(三菱総合研究所)。また、バイオ関連の情報サービスの雇用も2010年には30万人以上に急増すると予想され、創薬とITの両方のスキルを有する人材に限定したとしても数万人レベルの雇用が想定される。さらに同アンケート調査によれば、医薬製造業、情報処理業いずれにおいても、創薬インフォマティクスのスキルを有する人材採用は、即戦力として採用したいとの回答が2割以上を占め、自社での育成や外部人材の利用を希望する比率を大きく上回っている。このように、企業における実践的なゲノム創薬研究開発者の人材が不足している現状において、ゲノム創薬研究・開発の実践的人材の需要は高まる一方である。IT創薬という学際領域の基盤知識・技術に裏打ちされた実践的なゲノム創薬を推進できる人材は、医薬製造業、情報処理業をはじめとした多くの企業でのゲノム創薬の即戦力、あるいはベンチャー企業の創出を促し、経済の発展と社会の福祉に貢献できると期待される。また、IT創薬を通じて世界を先導するゲノム創薬科学を確立することにより、創薬立国としての我が国の世界競争における優位性が獲得できよう。国家戦略としての取り組みを早急に期待したい。

主要参考文献:

  1. 新しい薬をどう創るか(創薬研究の最前線)、京都大学大学院薬学研究科編、2007年、講談社ブルーバックス
  2. インシリコ創薬科学(ゲノム情報から創薬へ)、藤井信孝・辻本豪三・奥野恭史 編、2008年、京都廣川書店

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