第107号
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中国における産学研連携の概況(その1)

2015年 8月 4日 孫福全(中国科学技術発展戦略研究院院務委員)

 産学研連携とは、企業と大学、研究開発機関が各自の価値目標を実現するために一定の組織形成や仕組みを通じて構築する研究や開発などでの協力関係のことである。産学研の協力は、中国ではしばしば産学研の「結合」と呼ばれる。両者の内容は異なると指摘する学者もいるが、本稿においては両者を区別せず、同一概念として扱う。

1.背景と発展過程

 1978年の改革開放前まで、中国は計画経済体制を実行しており、産学研の連携は主に計画と行政手段に頼り、産学研連携の推進においては政府が主要な役割を果たしていた。多くの高等教育機関の教師が党と政府による呼びかけに応え、実践的な生産現場で働いた。当時の企業は単純な生産現場に過ぎず、新技術の研究開発には携わっていなかった。大学と研究機関は計画に基づいて新技術を開発し、新技術を無償で企業に提供していた。このため、企業、大学と研究開発機関の間の連携は、主に政治の力と計画に頼っており、自発的なものではなかった。当時の産学研連携はいくつかの重大なプロジェクトを促進したものの、行政システムに従った産学研連携は、良好な循環を構築することはできず、持続的な発展ができなかった。

 1978年の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議の開催後、中国は市場化に向けた改革と対外開放の政策を打ち出した。こうして、産学研連携は徐々に市場の仕組みに基づき推進される時期に突入したのである。この時期を大きく4つに区分することができる。

1.1 改革初期段階(1978年~1992年)

 計画経済体制を改革しようとするニーズに呼応するように、科学技術体制の見直しも行われた。政府は科学技術と経済との乖離をなくすため、産学研連携の強化を提案し、新たな道筋を模索していた。1985年、「科学技術体制改革に関する中共中央の決定」においては、「企業の技術吸収と開発能力を高め、技術成果を生産能力に移転する中間プロセスを強化し、研究機関・設計機関・高等教育機関・企業の間の連携を促進し、各方面の科学技術力を合理的に深化させる」[1]との方針が打ち出された。経済体制と科学技術体制の改革の推進に伴い、企業と大学、研究開発機関は次第に産学研連携の必要性を感じるようになってきた。企業はただの生産現場ではなくなり、自身の利益を追求する経済的な実体へと徐々に転換した。

 この時期、中国は西洋から大量の先進的科学技術を導入、固有の大中規模企業は技術改良を進め、郷鎮企業や個人の民間企業が次々と起業したこともあり、先進技術に対する需要は大きく増加した。

 一方、大学は当時、活用されていない技術を大量に保有しており、また、科学研究費の深刻な不足に直面していた。そのため大学は、技術譲渡の形で収入を確保し、科学研究費を補った。また、大学が企業を設立し、科学技術成果の転化、産学研の一体化を図ろうとした。さらに、キャンパスを出て企業に技術コンサルティングを行う大学教師も少なくなかった。週末を利用して企業にサービスを提供することが多かったことから、これらの教師は「日曜エンジニア」とも呼ばれた。さらに、市場化の波に押され、北京大学は自発的にキャンパスの南側の壁を壊して企業を立ち上げ、積極的に市場経済へと参画していった。

 20世紀の80年代に一世を風靡した中関村(北京郊外の地名)の電気街にあった企業の多くは大学教員がリーダシップを取り立ち上げたものである。

1.2 メカニズムの形成期(1992年~1999年)

 1990年代、社会主義市場経済の構築と整備に伴い、産学研連携の市場メカニズムは強化され、企業の研究開発力と技術革新能力はさらに高まった。企業は、大学が譲渡する技術を受け入れるだけでなく、自らの技術的ニーズに基づく大学への委託研究や大学との共同研究、共同企業等を設立するケースもあった。この時期、大学と企業の協力には多様な形式が現れ、従来は緩やかだった協力関係が緊密な連携へと転換していった。

 1992年4月、当時の国家経済貿易委員会と国家教育委員会、中国科学院は共同で「産学研連携開発プロジェクト」を全国的に展開した。その目的は「社会主義市場経済体制の不断の整備の過程において、産学研の有機的な結合を通じて国有の大中規模企業と研究機関、高等教育機関の間での密接で安定した交流、協力体系をうち立てる。これにより、産学研が共同で発展する良好な仕組みを形成し、産学研が緊密に連携し革新を実現する中国の国情に適した道を模索する。このことを通じて、科学技術成果の産業化とハイテク技術による産業改良の歩みを加速させ、国有大中規模企業の市場競争力における優位性を高める」というものであった。

 当該プロジェクトにより、産学研連携が促進され、著しい経済的効果と社会的効果が得られた。

 統計によると、1992年から1999年までに当該プロジェクトは合計340件の国家級重点産学研ハイテク産業化プロジェクトを実施し、販売収入約510億元、売上総利益約120億元を獲得、外貨収入および外貨の節約は約22億ドルに達した。産学研プロジェクトの設立に関与した産学研共同研究開発機関と企業数は5800以上に及び、長所を相互に補完しリスクを共同で負担、利益の共有し共同で発展するという、産学研連携のモデルが構築できた。2008年だけで、産学研連携への参加機関は全国で33万6千に達し、参加人数は360万人、協力開発プロジェクトは12万件に及んだ[2]

1.3 体制確立の段階(1999年~2006年)

 1999年に開催された全国技術革新大会と同時に発表された「技術革新の強化とハイテクの発展、産業化の実現に関する決定」(以下、「決定」と略す)では、研究開発機関の改革方向を示すと同時に高等教育体制改革を促進し、大学の科学技術と知的能力を国民経済の建設と社会の発展に積極的に活かす措置が講じられた。「決定」においては科学技術体制、教育体制及び経済体制を一体的に改革し、科学技術、教育及び経済の間の不整合を根本的に解決するよう方針が示された。たとえば、大中規模企業が高等教育機関、研究開発機関との連携協力を強化すること、相互補完と協働利益の原則に基づき二者間ならびに他社間の技術協力の仕組みを構築すること、兼任や研修などの方法を通じ各主体間の科学技術者の交流を強化することを求めた。

 また、企業の科学研究費は一定の比率で産学研連携に充当することと義務づけられた。さらに、高等教育機関の知識と知力が結集したサイエンスパークの発展をサポートし、これにより市場競争力のあるハイテク技術企業を育成し、産学研のさらなる緊密な連携を推進した。この「決定」を受け、1999年には中央レベルの技術開発関連の研究開発機関が株式会社へ転換する政策を活用し、また2003年には、同じく中央レベルの社会公益関連の研究開発機関は非営利機関として実証実験を行い、社会全体の機能向上のためそのサポート力を増した。これら研究開発機関の改革が体制的な障壁を乗り越えたことで、産学研連携を力強く後押しすることにつながった。

 企業と高等教育機関、研究開発機関による開放的で安定した連携関係を構築し、研究成果の譲渡、委託開発、共同開発、技術開発機関や科学技術型企業の共同設立など、多様な形式の産学研連携を展開、企業を中心として大学や研究機関が幅広く参加した、利益を共有しリスクを分担する産学研の連携の仕組みが形成されたのである。

1.4 国家戦略の優先事項とされた段階(2006年~現在)

 2006年に開かれた全国科学技術大会では、イノベーションの国家を建設するため、その突破口として企業を中心とした産学研連携による技術イノベーション体系の形成が打ち出された。産学研連携は技術イノベーション体系の重要な構成要素とされ、これまでにはない優先的な国家戦略事項となった。

 大会で公布された「科学技術規画綱要の実施と自主革新能力の増強に関する中共中央と国務院の決定」では、企業が中心となり、市場のニーズを踏まえた産学研連携による技術イノベーションの体系形成を加速化し、企業が研究開発機関や大学と研究開発機関や産業技術連盟などの技術革新組織を共同設立することを支援することを求めた。

 「国家中長期科学技術発展規画綱要」(以下「規画綱要」と略す)は、科学技術リソースを有効に配分し研究開発機関の活力を引き出し、企業に持続革新の能力を持たせるためには、産学研の連携が必要不可欠であるとの認識を示した。すなわち、企業自身の技術開発能力を大幅に向上させるとともに、そのためには研究開発機関や高等教育機関が積極的に企業の技術革新ニーズに貢献し、産学研が多様な形式で連携する仕組みを構築する必要があるとした。

 全国科学技術大会の開催を機に、産学研連携に対する政府による施策は新たな段階に入った。2005年と2009年には、科学技術部、国務院国有資産監督管理委員会、及び全国総工会など行政の関連部門が協力して、技術革新誘導プロジェクトと技術革新プロジェクトを実施し、産学研が共同で申請したプロジェクトに対して国家と地方の科学技術計画が優先的な支援を行うこととなった。こうして、産学研連携はさらなる発展のため新たな局面を迎えたのである。

その2へつづく)


[1] 「科学技術体制改革に関する中共中央の決定」、1985年3月中国共産党中央委員会公布[1985]6号。

[2] 「産学研、経済科学技術教育の発展の道を歩む」、人民日報、1999年9月8日第4版