第108号
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中国の大学サイエンスパークについて(その1)

2015年 9月17日  康琪(中国科学技術発展戦略研究院体制管理研究所 シニア研究員)

 大学サイエンスパークは、中国のイノベーション体系の重要な構成要素であり、自主イノベーションの重要な拠点である。20年余りの発展を経て、大学サイエンスパークは、中 国のイノベーション体系において最も活発で、関連性の最も高いイノベーション主体の一つとなった。大学が産学研の結合と社会奉仕の役割を実現するための重要なプラットフォームであり、ハ イテクの産業化や地域の経済発展、産業技術の進歩を促すイノベーションの源であり、中国の特色ある高等教育体系の構成要素でもある。

1 大学サイエンスパークの発展プロセス

 中国の大学サイエンスパークは、科学技術体制と教育体制との相次ぐ改革によって育まれた時代の産物であり、中国の高等教育機関の社会奉仕という役割を実現する方式の一つとなった。その発展プロセスは、大 学の科学技術産業の発展とハイテク産業開発区の建設という2つの要素に後押しされ、中国の改革・転換の各段階の特徴を反映したものとなった。1980年代末から、科技部と教育部の推進により、大 学サイエンスパークは、「探索初動段階」(1986--1994年)、「初期成長段階」(1995--2000年)、「急速発展段階」(2001--2010年)、「安定上昇段階」(2011年--現在)の 4つの時期を経てきた。これら各段階は次のような特徴を示している。

1.1 探索初動段階(1986--1994年):下から上への分散型成長

 中国では1978年、改革開放の幕が開き、経済・科学技術・教育などの分野を手はじめとして体制改革の波が訪れた。1986年に鄧小平氏が「ハイテクを発展させ、産業化を実現しよう」と呼びかけると、「 863計画」の実施が始まり、大学研究人員によるハイテク産業の発展が本格的にスタートした。国内のサイエンスパークが成功を収め始めていたことも、一部の理工重点大学の注目を集めた。東南大学では、ハ イテクパーク建設にいかに参加するかが議論された。現地のハイテク産業開発区の環境と条件、大学自身の技術と人材の強みを生かし、産業によって国に報いるための新たな道を模索しようとする大学も現れた。こ うした状況にあった1988年、東北大学の学長だった陸鐘武教授ら4人によって、大学サイエンスパーク創設の案が遼寧省に提出された。東北大学は翌1989年、中国初の大学サイエンスパークとなる「 東大サイエンスパーク」を設立し、ソフトウェアとオートメーション技術の開発・応用を中心にサイエンスパークの発展を進めていった。

 1990年代に入っても中国の改革の波は衰えなかった。1992年、鄧小平氏が南巡講話を行うと、中国の経済・科学技術・教育の体制改革の歩みはさらに加速され、科 学技術の研究成果の転化とハイテクの産業化にも大きな動力が注ぎ込まれた。中国国内の多くの大学は、国外の大学がサイエンスパークを作った成功例を参考に、従来の発展モデルとは異なる試みに踏み出し、北 京大学サイエンスパークや清華サイエンスパーク、東南大学サイエンスパーク、ハルビン工業大学サイエンスパークなどが次々と生まれ、中国の大学サイエンスパークの初動段階のパーク建設のラッシュが訪れた。& amp; amp; amp; amp; lt; /p>

 大学サイエンスパークの探索・初動段階においては、その萌芽と発展は、中国の改革開放の歴史と密接に関係している。大学サイエンスパークは、科 学技術体制と教育体制の改革の深化と相互のぶつかり合いの中で生まれた新たな力であり、大学の科技産業の発展を土台とし、またハイテク産業開発区の建設に促され、徐々に誕生し、発展していった。こ の段階においては、大学サイエンスパークの発展は、大学が自らの価値を表し、時代の呼びかけに応えた結果だった。この段階では、大学自らの探索が建設の主体となったことが特徴となっている。そ の設立は大学自らの自発的な行為であり、その発展動力は大学自らの要請であり、下から上への力によって成し遂げられたものと言える。

1.2 初期成長段階(1995--2000年):定義の確立と政策の打ち出し

 この段階の大学サイエンスパークの発展の主な特徴としては次の2つが挙げられる。第一に、政府・大学・社会などの各方面が共通認識を形成し、大学サイエンスパークを発展させる動力の土台を築いた。当 時の中国にとっては、大学サイエンスパークは新しい現象であり、大学サイエンスパークの建設は、「象牙の塔」という従来の大学のイメージを覆し、「教える人」という教員の位置付けにも変化をもたらした。大 学サイエンスパークの設立やハイテク企業の育成、教授による起業には、社会各方面で多様な認識や見方があり、その発展の将来や役割に疑いの目を向ける人もいた。だが「清華同方」「北大方正」「東大アルパイン」「 同済科技」などのハイテク企業がつぎつぎと頭角を現すと、大学サイエンスパークの発展に対する社会各方面の態度は、これを疑うものから受け入れるものへと変化し、さらにはこれを評価・支 援するものへと移っていった。大学サイエンスパークを支援する力は、大学から徐々に政府などへと拡張していった。

 第二に、政策が打ち出されるようになった点が挙げられる。政府は、大学サイエンスパークの発展を重視しはじめ、マクロ的な調整管理や科学技術計画などから、大学サイエンスパークの建設を規範化・支 援する方式を模索し始めた。国家レベルから試行が奨励されるようになったことで、大学によるサイエンスパークの自主的な建設の試みに対する強力な下支えが形成された。マクロ戦略の面では、1999年8月、中 共中央と国務院が「技術革新の強化とハイテクの発展、産業化の実現に関する決定」の中で初めて大学サイエンスパークについて触れ、次の2つの根本的な問題を解決した。まず、大 学サイエンスパークの発展に対する政府の態度・立場が明確化され、評価と支援に値する新たな現象であることが確認された。次に、その発展の方向と目的とが明確化された。支援方式の面では、1995年、当 時の国家科学技術委員会と国家教育委員会が開いた「中国大学サイエンスパーク工作座談会」で、大学サイエンスパークを「国家たいまつ計画」の対象とすることが確定された。1999年までに、国 家レベルから試行の奨励がはじまり、科技部と教育部の打ち出した「国家大学サイエンスパークの建設試行事業遂行に関する通知」では、清 華サイエンスパークなど15カ所の大学サイエンスパークが建設試行対象として確定された。統一管理の面では、組織体制の構築が始められ、科技部と教育部は1999年9月に「 全国大学サイエンスパーク事業指導委員会」を共同で設立し、両部の主管部長が責任者となり、一般業務を担当する事務所も設けられた。

その2へつづく)