第128号
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ノーベル賞と日本人(1) 21世紀になって受賞者が急増した秘密を探る

2017年 5月24日

馬場錬成

馬場錬成:特定非営利活動法人21世紀構想研究会理事長、科学ジャーナリスト

略歴

東京理科大学理学部卒。読売新聞社入社。1994年から論説委員。2000年11月退社。東京理科大学知財専門職大学院教授、内閣府総合科学技術会議、文部科学省、経済産業省、農水省などの各種専門委員、国 立研究開発法人・科学技術振興機構(JST)・中国総合研究交流センター長、文部科学省・小学生用食育学習教材作成委員、JST中国総合研究交流センター(CRCC)上席フェローなどを歴任。
現在、特定非営利活動法人21世紀構想研究会理事長、全国学校給食甲子園大会実行委員長として学校給食と食育の普及活動に取り組んでいる。
著書に、「大丈夫か 日本のもの作り」(プレジデント社)、「大丈夫か 日本の特許戦略」(同)、「大丈夫か 日本の産業競争力」(同)「知的財産権入門」(法学書院)、「中国ニセモノ商品」( 中公新書ラクレ)、「ノーベル賞の100年」(中公新書)、「物理学校」(同)、「変貌する中国知財現場」(日刊工業新聞社)、「大村智2億人を病魔から守った化学者」(中央公論新社)、「『スイカ』の 原理を創った男 特許をめぐる松下昭の闘いの軌跡」(日本評論社)、「知財立国が危ない」(日本経済新聞出版社)、「大村智物語」(中央公論新社)ほか多数。

 ノーベル賞は、学術の世界で最高の栄誉とされている。これはアメリカでもヨーロッパ諸国・地域でも同じであり、特に日本では外国の例にないほどの最高の位置づけである。ノーベル賞を受賞すると、日 本で最高の叙勲である文化勲章を政府が自動的に授与することになっている。このような国はほかにない。日本人のノーベル賞は、21世紀になって急増している。なぜ増えたのか。その秘密をこのシリーズで探ってみる。 

科学分野では世界5位になった日本

 日本人のノーベル賞受賞者第1号が誕生したのは、戦後からである。戦前も有力な候補がいたが、あと一歩で受賞に届かなかった。特に医学の研究では、日 本人は戦前から世界的にレベルの高い研究成果を出していた。

 戦前の日本は発展途上国であり、世界の文化と科学研究の流れから大きく遅れていた。しかし途上国にあっても医学の研究では日本人の能力が発揮された。そこには日本人特有の秘密があった。2000年にノーベル化学賞を受賞した白川英樹が、その秘密を解き明かして発表しており、近年、注目を集めている。その秘密については、このシリーズでも書いてみる。間違いなく秘密があったのだ。

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ノーベル財団の玄関の内部。扉を開けて入ると真正面にアルフレッド・ノーベルのブロンズ像が見える。
(1992年に取材でノーベル財団を訪問した際に撮影) 

 別表は、2017年までのノーベル賞受賞者の科学分野のランキングである。ノーベル賞は、物理、化学、生理学・医学(医学)の自然科学3分野、このほかに文学、平和、経済学の各賞がある。

 しかし文学賞は地域や言語のバランスを取って授与することが慣例になっている。文学に対する感性も絶対的な尺度はない。毎回、文学賞受賞作品に対して、様々な議論が出るのはこのためだ。

 平和賞はすぐれて政治的な色合いで授与している。スウェーデンは有名な反共国家であり、平和賞の選考は反共と人権問題がキーワードになっている。

 経済学賞は、1968年にスウェーデン国立銀行が資金を出して作ったものあり、アルフレッド・ノーベルの遺言でできた賞ではない。

 ノーベル財団の理事は筆者に対し、「経済学賞はノーベル賞ではない」と明確に語っている。ノーベル財団も正式にはノーベル経済学賞とは呼ばず「アルフレッド・ノーベル記念経済学賞」と呼んで差別している。 

 これに対し、自然科学の3分野は、厳格に評価された業績に対して授与するものであり、公正で絶対的な評価である。それだけに価値が高い。と同時に業績評価に間違いは許されない。ノ ーベル賞の選考委員会が選考にかける資金は、分野ごとにノーベル賞受賞賞金と同額と発表している。つまり、それだけ高額の資金を投与して評価をしているということになる。

 ダイナマイトの発明で巨額の富を得たアルフレッド・ノーベルの莫大な遺産と遺言をもとに創設されたノーベル賞の賞金は、2017年に1分野800万スウェーデン・クローナである。日本円で約1億円だ。こ れだけ高額の叙勲は世界にない。ノーベル賞の授与式が初めて行われた1901年当時から、桁違いの賞金額として世界中で話題になった。それは今も変わっていない。

 ノーベル賞は1分野3人までであり、複数人が受賞した場合はこれを分け合う。分け合う比率もノーベル財団が決めており、貢献度によって比率が違う。

国・地域別の自然科学3分野のノーベル賞受賞者数(1901年〜2016年)
(注)日本人ノーベル賞受賞者の中には、米国籍の2人も含まれている。これは生まれも教育も日本でされており、後年、米国に帰化した人であるからだ。ノーベル財団は、国籍別の統計は出していない。国によっては、二重国籍を認めており、国が勝手にカウントしているからだ。
順位 物理 化学 医学 合計
1 アメリカ 85 65 99 249
2 イギリス 25 27 30 82
3 ドイツ 24 29 16 69
4 フランス 13 9 10 32
5 日本 11 7 4 22
6 スウェーデン 4 5 8 17
7 スイス 3 6 6 15
7 オランダ 9 4 2 15
9 ロシア 11 1 2 14
10 カナダ 4 4 2 10
11 オーストリア 3 2 4 9
12 デンマーク 3   5 8
13 イタリア 3 1 3 7
14 ベルギー 1 1 4 6
14 オーストラリア     6 6
16 イスラエル   5   5
17 ノルウェー   1 2 3
17 アルゼンチン   1 2 3
17 台湾 2 1   3
20 ハンガリー   1 1 2
21 南アフリカ     1 1
21 スペイン     1 1
21 アイルランド 1     1
21 インド 1     1
21 エジプト   1   1
21 フィンランド   1   1
21 中国     1 1
21 トルコ   1   1
21 チェコ   1   1
21 パキスタン 1     1
21 ポルトガル     1 1
21 ニュージーランド   1   1
21 ベネズエラ     1 1

戦前のノーベル賞受賞候補者

 次の表で見るように、日本のノーベル賞受賞者は、すべて戦後である。戦前はゼロであった。しかし戦前にも有力な受賞候補者がいた。その中でもあと一歩で受賞しなかった4人について触れておきたい。 

戦前の有力なノーベル賞受賞候補者

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 北里柴三郎は、現在の免役療法を開発した研究者であり、ドイツのロベルト・コッホ研究室で業績を上げた。1901年の第1回ノーベル賞の生理学・医学賞には、ドイツのエミール・ベーリングが輝いた。しかしベーリングの業績の重要な部分は北里との共同研究の成果だった。今だったら間違いなく共同受賞だったと言われている。

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  最もノーベル賞に近かったのは、野口英世である。野口は、高等小学校(現在の中学校)卒の学歴しかなかったが、独学でドイツ語、英語など外国語の医学書を読んで勉強し、2 1歳のときに医師免許状を取得した。当時としても画期的なことだった。

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野口英世博士

 野口は、研究者になりたかったが、当時、日本では東大医学部が主流であるため研究者の道は開かれず、アメリカのペンシルバニア大学に留学する。アメリカは、野 口の才能を認めてアメリカの資金で野口に細菌学を再教育するためにオランダに1年間留学させる。

 野口は1年後にアメリカに戻り、東洋人としては初めてロックフェラー研究所の正研究員となる。数々の業績をあげ、1913年から27年にかけて世界の24人の研究者から9回、ノ ーベル賞受賞候補として推薦を受ける。この9回は最多記録である。

 しかし1928年、アフリカの黄熱病を研究するためにガーナに渡り、その地で黄熱病に感染して死去する。戦前の日本人の中で、ノーベル賞に最も近い位置にいた研究者だった。

 山極勝三郎と鈴木梅太郎は、いずれも外国に留学した後に日本で業績をあげた研究者である。世界から認められる業績を残したが受賞までは至らなかった。