第141号
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国有自動車メーカーの名門―東風汽車集団有限公司

2018年6月8日

陳選

陳 選(チン セン):フリーライター

略歴

 1982年、 吉林大学日本語科卒、1986年、中国社会科学院大学院日本研究所修士課程卒、中国国際信託投資公司( CITIC)勤務。1989年来日、北海道大学法学部大学院修士課程卒、大 手商社長年勤務。中国自動車メーカーのビジネスアドバイザーでもあった。

 東風汽車集団有限公司(以下、本文で「東風汽車」と称する)は中国六大国有自動車集団の一つで、中央政府傘下の国有自動車集団として販売台数が第一位であり、本社は華中地域の最大都市武漢にある。そ の前身は1969年に湖北省十堰で建設された「第二汽車製造廠」であった。設立して、半世紀近く経った現在、中・大型商用車、部品等などの製造を中心とする十堰、軽型商用車、乗用車などの製造を中心とする襄陽、乗 用車などの製造を中心とする武漢や広州という四つの生産基地を持っている。2017年11月30日、東風汽車は東風汽車集団有限公司に改称した。

東風汽車の沿革

一.毛沢東の新たな戦略方針の産物

 東風汽車は元々悪名の高い「文化大革命」の最中にあった1969年、中ソ関係の悪化を目の前に毛沢東が提唱した新たな戦略方針に基づき、ソ ビエト援助のもとでソビエトに近い吉林省長春に建設された第一汽車に続き、将来、ソビエトなどとの辺境衝突などに備えて中央政府傘下の企業として、あ えて交通の便が悪く敵が攻めにくい山奥の湖北省十堰に建設された「第二汽車製造廠(以下、第二汽車)」と呼ばれるものであった。経済原理が完全に無視された為、建 設場所の選定や工場のデザインなどを克服できない生まれつきの欠陥が多くあるものであった。70年代末、鋳造能力の不足が第二汽車の生産能力拡大のボトルネックになっていたので、文 化大革命の終結と経済分野での改革と開放を契機に未来への発展を図り、第二汽車は山奥から出て、襄樊で新たに工場を建設し、企業発展の新しいページを開いた。

二.早期の東風汽車(1969-1992年)

 1969年9月末、第二汽車の工場建設が始まり、1971年竣工しその年の6月に組立ラインで自動車の組み立てが出来るようになった。

 1975年11月に第二汽車が製造する自動車は「東風」ブランドを命名された。1987年l1月に第二汽車は国内で初めて年間生産量が10万台を超える自動車メーカーになった。

 1992年9月に「第二汽車製造廠」の名前を正式に「東風汽車」に変更。l999年7月に東風汽車は上海株式市場に上場した。

三.外資企業との合弁などが東風汽車発展の起爆剤に

 東風汽車の発展は、外資企業との合弁、合作無しでは語れない。

 1992年にフランスのPSA・プジョーシトロエン(現 グループPSA)と神龍汽車有限公司を設立し、9月に「富康」というブラントの乗用車がラインオフされた。同じ時期に東風は本田技研工業(以下、ホ ンダ)と共同で部品製造をする合作を始めた。その後、相次ぎ世界の一流自動車メーカーと合弁事業を展開した。

 東風汽車の合弁企業は主に下記の通りになる。

(1)日産自動車との合弁会社である東風汽車

(2)フランスPSAとの合弁会社である神龍汽車

(3)ホンダとの合弁会社である東風本田汽車

(4)ホンダとの合弁会社である東風本田発動機

(5)ホンダとの合弁会社である東風本田汽車零部件(部品製造)

(6)韓国KIAとの合弁会社である東風悦達起亜(KIA)汽車

(7)フランスルノーとの合弁会社である東風雷諾(ルノー)汽車

(8)台湾裕隆との合弁会社である東風裕隆汽車

 この中でも特筆すべきは2003年6月に日産自動車との合弁案件であった。

 2000年に東風汽車は漸く連続の赤字経営から抜け出した。ところが会社がいかに継続発展の道を歩むことが可能であるか、当時の苗圩総経理が臨む最大の課題であった。当時、中 国はまだWTOに加盟しておらず、国外の自動車メーカーの中国自動車市場への参入が厳しく制限されていた。資金が乏しく、技術も無く、管理が低水準といった中国自動車メーカーにとっては、国 際競争力を有する世界の一流自動車完成車メーカーとの合弁事業を新たにアップグレードさせることが急務であった。苗圩氏は固有観念に拘らず殻を破って斬新な合弁構想を提起した。つまり、フ ランスPSAと合弁した神龍汽車、並びに非自動車主要業務から切り離せる部分を除外したすべての資産をもって日産との合弁事業を展開する方針を決めた。多 くの疑問が投げかけられた嵐の中で中央政府の支持を取り付けた上、東風汽車は自動車製造の主業資産の70%を、日 産は同等な価値に相当する83.5億元のキャッシュを出資持分にして国内最大規模の合弁会社である東風汽車有限公司を誕生させた。そして2003年9月、東風汽車有限公司は本社を十堰から武漢に移した。

 日産との合弁を通じて東風汽車は資金、技術、管理などのノウハウを吸収できたばかりでなく、大きな波及効果を得た。東 風汽車と日産の合弁会社は単純な技術合作から自動車全体のバリューチェーンまで広がったことで、東風汽車の競争相手のみならず、合弁パートナーのフランスPSAも刺激され、東 風汽車と日産二社間の合弁契約を調印したわずか一か月後に直ちに合弁のパートナーをシトロエンからPSAグループに格上げした。東風汽車と日産の合弁会社が設立後の初年度、日 産は企業の基礎を固めるのに力を尽くし、自社の優れた管理方式を導入し、一連の改革を行った。

 日産との合弁は東風汽車にとっては画期的な大事件であり、東風汽車の発展に大きく寄与したことは言うまでもない。

東風汽車の特徴と業績

 他の大手自動車メーカーと比べて東風汽車のラインナップはバランスが良く、乗用車、SUV、MPV、軽自動車、小型、中型、大型トラックなど全て揃っており、各 車型の市場シェアはいずれも中国市場全体のおよそ10%から20%になっている。

 東風汽車の販売台数は2010年に中国市場の14.5%を占め、2016年は428万台に達し、ほ ぼ同じ市場シェアを保ってきていた中央政府傘下の中国最初の国有自動車企業である第一汽車より約100万台多く、上海汽車に次ぐ第二位の座に位置している。

 しかし、その他の中国民族系自動車メーカーと同様に自主ブランド乗用車の生産販売は振るわず東風汽車の更なる発展にとって依然として大きな課題になっている。

将来への展望

 約半世紀の発展を通じ、東風汽車は国内自動車業界では大きな発展を成し遂げているものの、克服すべき課題が多く残っている。更なる発展を図り、自主ブランド、海外事業、省エネ自動車、自 動車重要保安部品のモジュール化、自主開発イノベーションなどを柱として2025年、省エネ自動車、コ ネクティッドカー分野では世界の自動車業界において国際的に一流水準の自動車メーカーを目指すという広大な計画が立てられているが、その実現には並々ならぬ努力が必要であろう。

(本文に引用したデータなどは東風汽車のホームページによるものである。)

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