2015年04月27日-04月30日
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唐の皇太子・李承乾の近衛兵の墓が発見 政変の歴史が記録

2015年04月30日

 今から1000年以上前の唐の時代、宮廷では絶えず政変が起こっていた。李世民は「玄武門の変」で、兄であり皇太子であった李建成を殺害し、第2代皇帝(太宗)になった。その長男の李承乾もこれに倣おうとしたが、計画は失敗、廃位され庶人に落とされた。陝西省考古研究院が28日に発表した情報によると、考古学者はこのほど陝西省戸県で、李承乾の「高級近衛兵」を務めていた人物の墓を発見した。その墓誌には、この政変の歴史が記されている。
 この墓主の名は馮孝約。貞観13年(西暦639年)に「太子千牛備身」に、貞観18年(西暦644年)に光州司戸(下・中級の官吏)になり、間もなく簡州司戸として任地を離れ、西暦659年に洛州密県令として47年の生涯を終えた。
 墓誌にあった「太子千牛備身」とは、どのような職務だろうか?発掘作業を担当した陝西省考古研究院の田亜岐研究員によると、「千牛備身」は、皇帝もしくは皇太子の安全を守る宮廷の高級武官。つまり、馮孝約は太子の「高級近衛兵」だったはずだ。
 馮孝約は出世が約束されていたはずだが、なぜ光州司戸に落とされたのだろうか?田研究員は、「馮孝約の位が落とされたのは、おそらく皇太子・李承乾が貞観17年(西暦643年)に計画した政変と関連している。歴史書によると、唐太宗の時代、皇太子の位を巡り激しい争いが繰り広げられた。馮孝約が仕える李承乾は唐太宗の長男で、8歳の時に皇太子に立てられた。その後、唐太宗の四男の李泰处が、父の若かりし頃の手法をまね、父に取り入り気に入られた。李承乾は皇太子の位を維持できないと焦り、貞観17年に謀反を企てた。事の次第が明らかになると、庶人に落とされ黔州に流された」と分析した。
 田研究員によると、馮孝約の墓誌には「主辱于前、臣黜于后」と記されているが、これはこの事件を暗示している可能性がある。ゆえに墓誌の内容は、この宮廷の争いが官吏の運命に及ぼした影響を、側面から反映していると言える。

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