【11-04】日中文化交流におけるもう一つのすばらしい風景―星空に輝く玉の文化
朱 新林(浙江大学哲学学部) 2011年 4月22日
中国は以前から「玉石の王国」の誉れが高く、歴代の玉工芸の職人は繊細に彫り刻んで、ずば抜けて精巧で美しい玉細工を数多く作り出した。これらの玉細工は礼学家に解釈、美化されることにより、だんだん超自然的な品物になった。さらに玉に霊性、礼法と教化、道徳などの精神的な内包を与えて、玉に高尚な霊魂を持たせて、人生の精神を託すための不可欠な存在になったようである。このすべては中国の輝かしい玉文化の長い歴史のおかげである。中国では勿論、日本でも同じである。日本の「古事記」、「日本書紀」などの文献からこのような文化の痕跡が見られる。考古の発掘から、玉細工の発展過程において、日中文化にさまざまな要素が絡み合って、また7,000年以上も昔まで遡ることができると分かっている。
一、中国の玉細工の起源及び玉文化の形成
紅山文化時代の玉細工
早くも7,000年前に、中国南方河姆渡文化の先祖達は石を選んで器具を作るに当って、入手したきれいな石を意識的に飾りものに作って、自分自身を身ごしらえして、生活を美化していた。そこから中国の玉文化の幕が切って落とされた。
現在中国の玉細工は良渚文化と紅山文化に遡ることができる。良渚文化時代、玉細工の種類は比較的多く、玉琮、玉璧、玉鉞、三叉形玉細工及び繋がっているネックレスなどがある。良渚文化時代の玉細工は深みがあり、緻密で、対称バランスを充分に重視し、特に浅い浮き彫りの装飾手法が得意である。特に線刻の技芸は後世が及びもつかないほどであった。良渚琢玉のレベルを最も反映できるのは玉琮と獣面羽人紋の浮き彫りで、模様がさまざまであるほか、数量も非常に多かった。良渚玉細工と比べて、紅山文化では平板な四角い玉細工がめったになく、例えば、玉龍、玉獣の飾り、玉輪のものなど動物柄の玉細工や丸い形の玉細工が特色であった。紅山文化の玉の彫琢技芸の最大の特徴は、玉細工の職人が巧みに玉材を使って、物体造形の特徴を把握して、少し彫り削りすることで、器物の形を生き生きとして真に迫るようにすることができることである。要するに、「表情が極めて似ている」というのは紅山古玉の最大の特徴である。紅山古玉は、大きさで勝ちを収めるのではなく、精巧な細工が得意である。良渚、紅山古玉の大多数が大中型の古墳から出土したことから見れば、新石器時代の玉細工は天地を祭り、死者と一緒に葬られるなどの役割のほかに、魔除けや、権力や身分を表すなどの用途もあると分かる。中国の玉細工は生み出された日から、多くの神秘な色彩を帯びている。
商代の玉細工
現在見かける玉細工から言えば、夏代の玉細工の風格は良渚文化、龍山文化、紅山文化時代の玉細工から殷商の玉細工への移行形態だと言える。これは河南偃師二里頭遺跡に出土した玉細工から伺える。商代早期の玉細工は余り多く発見されていない。製造工芸も比較的雑である。商代晩期の玉細工は安陽殷墟婦好墓から出土した玉細工が代表的なものである。商代の玉職人は和田玉を使い始めて、数量も比較的多かった。この時期青銅を模倣する碧玉簋、青玉簋などの実用容器が現われた。動物、人物の玉細工は幾何形の玉細工を遥かに超えて、玉龍、玉鳳凰、玉インコ、表情や態度がそれぞれ異なり、形も表情もそっくり似ている。商代ではわが国で最も早い俏色の玉細工である玉スッポンがすでにあった。もっとも感服させられるのは、商代に丸彫り作品が大量にあったことである。
西周代の玉細工は殷商代の玉細工の複線で輪郭を描く技芸を継承したと同時に、一面坂太線或いは細い暗線で透かし彫りした玉彫琢技芸を独創した。これは鳥形玉刀と獣面紋玉飾に異彩を放った。然し、全体からみれば、西周玉細工は商代の玉細工ほど生き生きとして多様化しておらず、少し平板に見える。これは西周の厳しい同族支配体系、礼儀風俗制度と直接のかかわりがある。
漢代の玉細工
春秋戦国時代、政治では諸侯が覇権を争い、学術では各学派が論争し、玉彫り芸術も盛んに発展を遂げた。東周時代の王室と各地の諸侯はそれぞれの利益のために、玉を自分自身(君子)の化身と見なした。例えば有名な愛国詩人の屈原は玉細工をつけることで、自分が浮世の波に追随しない決心を表した。彼らは玉の飾り品をつけるのは、自分が「徳」を持つ思いやりのある君子であることをアピールし、「君子は特別な理由さえなければ、玉を身から外さない」ため、当時飾り玉が非常に発達していた。当時、時代の精神を表すことができるのは大量の龍、鳳凰、虎の形の飾り玉で、造形が動態の美しさに富んでいるS形をしており、濃厚たる中国の気概と民族の特色を持っている。人首蛇身玉飾り、インコ首ドーム形玉飾りは、春秋諸侯国の玉彫琢のレベルとつけ玉の状況を反映した。湖北曾侯乙墓から出土した多節玉飾りも、河南輝県固囲村から出土した大玉璜飾りも複数の玉スライスから構成した完璧な玉飾りで、戦国時代の玉飾りの内、工芸が一番難しいものである。この時期、和田玉は中原で大量に現われ始めた。王室諸侯は競い合って和田玉を選び使っていた。この時、儒生達は礼学と和田玉を結び付けて研究し、和田玉で礼学の思想を表していた。和田玉を好む統治者の心理に迎合するために、儒家の仁、智、義、礼、楽、忠、信、天、地、德などの伝統的な観念で、和田玉に付いている物理化学性能上の各特長を喩えた。それにつれて、「君子は德を玉に喩える」、玉に5德、9德、11德あるなどの学説が機運に応じて現われた。これはだんだん中国の玉彫刻芸術が末永く衰えないということの理論的な根拠になり、中国人が7,000年もの間、玉を愛する気風の精神的な支柱にもなった。
秦代の出土した秦玉は数が非常に少ない。従って、秦代玉の芸術風貌は今後の地下考古学の新しい発見に頼らなければならない。漢代の玉細工は戦国玉彫りの精華を承継し、中国の玉文化の基本的構成に基礎を打った。漢代玉の細工は礼玉、葬玉、身飾り玉、飾り付け玉の4大類に分類された。最も漢代の玉細工の特色と彫琢工芸水準を反映できるのは葬玉と飾り付け玉である。二者を比較すれば、葬玉の工芸レベルは高くないが、飾り付け玉は漢代玉細工の工芸レベルを反映している。これら写実主義の飾り付け玉は玉の奔馬、玉熊、玉鷹、玉魔よけなどがあり、丸彫り或いは高い浮彫り作品が多く、漢代の雄渾で豪放な芸術スタイルが凝集されている。漢代皇室の飾り玉は衰える傾向にあり、小型のハート形の玉飾り、玉剛卯、玉觿等が多々見かけられる。東漢時代、暗線刻紋様がまたよみがえって、流行し、画的趣向が少し強まった。
唐代の八弁花紋玉杯
三国魏晋南北朝時代の出土した玉細工は極めて少なく、みな漢代の遺風がある。少し刷新したのは玉リングと玉盃である。その原因を突き詰めれば、当時は玉を磨くのを好むのではなく、玉を食べるのが流行っていたためである。神仙思想と道教煉丹術に影響され、玉を見つけて、玉を食べるなど狂気じみていた。早期の玉細工の美術価値の礼儀観念はこの時もうほとんど消えてしまった。
隋代の著名な玉細工に李静訓墓から出土した金釦白玉盃がある。琢磨が精細で、質が温和で潤い感があり、光沢がやさしく、金と玉は互いに引き立てあって、華麗で高雅である。唐代の玉細工は数量が多くないが、見られる玉細工はどれも珍品で、ひき琢工芸が非常にすばらしい。唐代の玉職人は絵画、彫塑及び西域芸術から栄養を吸い込み、例えば八弁花紋玉杯と獣首形メノウ杯など、唐代繁栄期の風格のある玉細工を琢磨した。
宋、遼、金の3朝代は互いに戦争し合い、互いに貿易も行っていた。経済、文化における付き合いが非常に密で、玉細工工芸がそれと共に栄えていた。宋徽宗である趙佶が癖といわれるほど玉が好きだったこと、金石学の興起、密画の発展、都市経済の繁栄、写実主義と世俗化の傾向、これらはみな直接或いは間接的に宋、遼、金の玉細工のそれまでにない発展を促進した。宋、遼、金の玉細工の実用飾り玉は重要な位置を占めていた。「礼」の意味合いが大きく減り、「遊び」の意味合いが大きく増えた。玉細工はさらに現実生活に接近した。南宋時代の玉蓮の葉杯、北宋時代の花形透かし彫りの玉飾り、女真族の「春水玉」、「秋山玉」はこの時期の玉琢レベルを代表する佳作である。
南宋の玉蓮の葉杯
元代の玉細工は宋、金時代の芸術風格を承継し、生地を削り、突起させる手法を採用している。その典型的な器物は涜山大玉海で、自然の形に従い工芸で加工を施し、海神獣が逆巻く大波を思う存分に泳いでおり、元代人の雄健で豪胆な気概が表れている。
明清時代は中国の玉細工の全盛期である。その玉質の美しさ、琢磨工芸の繊細さ、器物形の豊かさ、作品の多さ、使用の広さはどれもそれまでなかったほどである。この時期の職人は絵画、彫刻、工芸の表現手法を参考し、伝統的な明線、暗線、平凸、隠し突起、突起、透かし彫り、立体、俏色、焼古など多岐のわたる琢玉工芸を吸い込み、徹底的に理解し、作品を最高の域に達させた。明清代の皇室は玉を愛する風潮が流行っており、乾隆皇帝はさらに全力を傾けて提唱した。定陵から出土した明代の御璽、清代の菊花弁形の玉皿、桐蔭仕女図玉彫りは、全部皇室用の玉である。その時代民間の玉店が非常に興隆であり、蘇州専諸巷は明代の琢玉センターである。「良き玉は首都に集まっているが、工芸の精巧は蘇郡が一番」。
清代桐蔭仕女図玉彫り
玉細工の紋様飾りから言えば、新石器時代の玉細工は無地が大半で、簡単に暗線で紋様を刻むのが少数ある。玉琮などの器物にある神人獣面紋様は、線が複雑で密集し、ずば抜けて精細である。商周時代の玉細工の飾り付けの風格特徴は緻密で簡潔で、概括的で、写実と抽象が結び付けられていることである。紋様図柄は主に蟠螭紋、龍紋と雲龍紋などがある。春秋戦国時代の玉細工の紋様は器物全体に施され、繊細で緻密で、整然としている。紋様の図柄に龍紋、乳釘紋、蒲紋、穀紋等がある。漢代は雲紋を描くのが最も多く見られ、穀紋も多い。蒲紋、蟠螭紋、乳釘紋、龍鳳凰紋なども良く見かける。唐代の玉細工の紋様は主に枝纏花紋、人物天女と非常に念入りな鳥獣紋がある。宋代は古代玉を模造する玉細工が大量に現われたことにより、古代模造の紋様がよみがえって流行った。また、現実生活を重んじる題材が大量に現われて、動植物が大きな比率を占めた。特に牡丹や巻き草のような植物花卉が重要な飾り図柄になった。元代の玉細工で流行った紋様は龍紋と蟠螭紋のほかに、よく見られるのは亀鶴瑞雲、サイの月眺め、胡人の獅子戯れなどがある。明代の玉細工の紋様の内、最も流行っていたのは縁起の良い図柄である。例えば松竹梅紋、雲鶴紋、麒麟紋などがあり、鮮明な時代の特徴がある。清代の玉細工は古代を模倣する紋様のほかに、百子図、九老図、耕織図、竹林七賢、鳳凰伝牡丹、歳寒三友など新しく作り出され、紋様は豊富で多彩で、さらに皇帝専用の詩及びいろいろな銘文が現われた。
とにかく、中国の玉細工は7,000年もの絶え間ない発展を通じて、数え切れない腕利きの名匠による精細な彫琢及び歴代の統治者と鑑賞者の使用と賞玩を通じて、だんだん精彩あふれる玉文化に形成した。絶え間なく中国伝統的な文化と礼儀風俗の中に溶け込んで、その他工芸美術品が代替できない役割を発揮し、また政治、宗教、道徳などの社会文化のしるしを打たれて、中国の最も代表的な伝統的文化の記号の一つになった。この上、さらに新疆和田玉、河南独山玉、遼寧岫岩玉、湖北緑松石という四大玉石と称される独特の文化景観に形成した。これらは中国古代の芸術宝庫で重要な位置を占めている。
二、中国の玉文化の日本に対する影響及び日本人の玉細工の審美観
玉は中国人のイメージでは美の化身である。中国人は昔から玉を崇拝し、玉をあがめ尊び、玉をつけ、玉を楽しみ、玉を収蔵し、自然の美・精神の美を玉石に注ぎ、造形が多彩で、紋様が豊富で、ずば抜けて精緻な玉細工を作り出した。玉質の美しさ、玉色の美しさと彫琢の美しさが互いに引き立て合って趣をなす。このように玉細工にほれ込んでいる感情は、地理的位置が近いことから、自然に日本の玉文化の形成と発展に影響を与えた。
日本で出土した玉細工は比較的少なく、文献にある記載も少ないため、普通の学界では日本古代の硬玉大珠が縄文時代の中期(紀元前2900年----紀元前2300年)に現われ、碧玉管が弥生時代(紀元前300年----紀元300年)に現われ、古墳時代(紀元300年----440年)になると玉細工の工芸が衰えて、消えてしまったと考えられている。
上記の原因により、学者が日本の玉細工の起源について、熱烈な学術論議を行った。また日本周辺国家と地区から出土した玉細工で日本の玉細工の起源を証明している。玉の日本での起源について、樋口清之の「日本列島自生説」、山内清男の「大陸起源説」、藤田富士夫の「江南起源説」及び最近数年の「北方起源説」がある。但し、現有の出土した玉細工から見れば、「北方起源説」がますます学者に重視されるようになった。日本海沿岸、京都等で発見した玉細工は中国東北で出土した玉細工と著しい内在的な関連がある。従って、日中間の玉文化の繋がりは7,000年前まで遡ることができる。特に京都で発見した耳玦は中国東北査海で出土した耳玦によく似ていたが、査海の数量に遥かに及ばない。このような類似は実物の形で日中玉文化の密な交流を明かしている。従って、中国の玉文化、特に東北の玉文化が日本の玉文化に多大な影響を与えていると日中の一部の学者は考えている。
川崎保「玦状耳飾系統•起源論概観」2004年3月より
川崎保「玦状耳飾系統•起源論概観」2004年3月より
20世紀80年代初めに(それからずっと絶え間なく発掘している)、中国内蒙古興隆窪文化遺跡で出土した玉細工は100個余りある。玉玦、細長い形或いは曲がった長い形の玉下げ飾と玉管などは、中国で今まで知られている玉細工の内一番早いものである。この遺跡の発見は中国の玉文化の歴史を8000年前まで遡らせただけではなく、8000年余り前の中国内蒙古の興隆窪遺跡と日本列島の7000余り前の縄文時代の遺跡とは同じ玉文化の要素があり、玉細工の造形と組み合わせがよく似ていることを証明している。これで日中史前の文化交流の直接の証明になった。またこれから中国大陸、ベトナムで出土した玉玦とロシアシベリア中東部、日本列島及びフィリピンから「東北アジア――東南アジア史前の玉玦形飾文化圏」に構成された。
興隆窪遺跡で出土した玉細工、下記リンクより
http://bbs.sssc.cn/viewthread.php?tid=1049355
上記出土した玉細工について、当代中国学者が次々と関連研究を行った。中国社会科学院考古研究所副所長の王巍が提示したが、中国史前文化が日本列島に与えた影響は7000年以上前まで遡られる。その伝播の路線はすでに知られている揚子江下流から日本九州、本州地区への経路のほかに、もう一つの経路がある可能性がある。即ち、中国東北地区から現在のロシア沿海に沿って日本北海道と本州へ伝わった可能性である。縄文時代で日本は孤立した島として外界と交流がないため、そこで現われた史前玉玦が中国から伝わったのではなく、それぞれ独自で生み出されたと、たくさんの日本の学者が信じていると、香港中文大学の著名な玉文化研究専門家の鄧聡氏は考えている。しかし、中国北方興隆窪文化地区で8000年以上前に玉玦が現われた後、日本は1000年以上経った後同様の器物が現われた。中国の揚子江流域も1000年以上経った後に同様の玉玦が現われた。ロシア北緯50°付近にも玉玦が現われた。こう見れば、異なる地方に質も形も彫刻工芸も同じ器物が現われることはないため、玉玦の起源の「一本化論」という言い方、即ち、中国東北興隆窪に玉玦が現われた後、だんだん東アジア大陸のその他地区へ伝わっていったという補佐的な証明になった。
この面でより深く研究したのは日本で著名な古玉専門家の藤田富士夫氏である。世界で一番古いイヤリング----玉玦が内蒙古興隆窪に現われた1000年後に、日本列島も同じようなリング状玉飾が現われた。それが日本列島で誕生し成熟した玉飾であると考える学者がいるが、そこに興隆窪文化と同じであるほかの2種類の玉飾が現われた。複数の玉細工が同時によその1箇所に偶然に生まれた可能性は極少ない。従って、興隆窪文化が日本列島に影響を与えたと推測できると彼は考えている。彼は1916年に出土した、日本の玉玦と興隆窪で出土した玉細工を比較すると、形状、色、製造工芸、使用時代及びつける文化は中国の遼西興隆窪文化と似ている所がたくさんある。これら特殊の類似は類似する文化の上で発生したに違いない。日中玉文化の間に深い絡み合いがあることも証明された。彼は主に下記の2つの理由に基づき判断した。第一、玉の形状から言えば、日本北海道から九州まで出土したリング形の玉が遼西興隆窪118号坑に出土した玉玦に非常に似ていて、玉の中心の穴が大きいという特徴がある。また、2箇所とも柱形の玉が見つかった。これらの古いタイプの玉の類似は当時の玉文化の発展の特色を表明したし、日本古玉と遼西興隆窪遺跡の間の繋がりも示した。第二、玉の色から見れば日本で出土した玉細工の内、青、白などの色があるが、白が比較的少ない。日本にも2、3箇所しか出土していない。興隆窪遺跡で出土する白色の玉細工の色艶と数量から、日本の白玉が興隆窪遺跡から伝わっただろうと推測される。また指摘すべきは、二箇所の玉細工とも穿孔技術を採用したことである。
上記のこれらの文化形式上の同じ点から、当時2箇所の間にきっと密な文化交流・浸透があるに違いないと表明された。また、つける文化にも類似点があるのは興隆窪の玉文化が日本の玉文化に大きく影響を与え、中国玉文化の伝播は日本の玉文化を拡大させ、流行と発展に影響を与えたと判断できると表明した。
玉細工の日本での絶え間ない拡大と流行に従い、日本人は欧州人や中国人と異なる玉細工観を形成した。玉が装飾の機能のほかに、「咒い、宝器、祭祀」の機能もあると考えられている。これは伝統的巫術が中国伝統的儒教の影響を受けた上形成したものであろう。製作工芸から言えば日本学者が現行の攻玉法から推測して、日本古代の玉細工も回転式工具で引いて琢磨したと考えているが、これ以外、その他論証の材料が見当たらず、古くから伝わってきた文献も出土文物による補佐的な証明もない。製作形状と紋様から言えば、日本古代の玉細工は珠、管、V形、櫛形及び抽象化した動物しかなく、入れ物がめったにない。滑らかな無地状或いは装飾が簡単な幾何形図柄がほとんどだが、その他装飾がめったにない。
勾玉
特に指摘すべきなのは、日本の古代にとても著名な玉製装身具があり、勾玉と呼ばれて、曲玉と別称され、三日月の形をしている。首尾の区分けがあり、首端に広く丸く、開孔があり、紐を結ぶことができ、尾端に尖って細い。よくある材質は大体翡翠、メノウ、水晶、滑石等である。たまに陶土製品もあるが、今まで伝わってきたのは多くない。陶土の材質に耐久性がないことが主な原因である。現在の考古証拠から見れば、勾玉は日本での起源は遅くても縄文時代(紀元前14000~紀元前400年)まで遡ることができる。その後の古墳時代(紀元250年から紀元538年)で権勢の象徴の一つになり始めた。勾玉は日本語の中で「MANA TAMA」と呼ばれ、その内、「MA」の発音は名声が高く、世俗的なことで争わず超然としていると考えられ、NA(GA)は気運が良くて神様に守られているという意味で、一緒にすれば、偉大、輝くという意味(天照大神もちょうどこういうイメージである)である。天皇の三種の神器(八坂瓊曲玉、八咫鏡、天叢雲剣)の内の八坂瓊曲玉は勾玉である。八尺瓊勾玉は「八坂瓊勾玉」とも書く。日本が独自で作り上げた祭祀と装飾品で、英文字のCのように、上に小さい穴を開けて、紐で結びやすい。八尺瓊曲玉は縄文、弥生時代に現われ、古墳時代で最も流行っていた。最初は玉石で作ったわけではない。当時動物、イノシシの歯で材料にしていたが、その後、金、石、玉を使うようになった。その内硬質玉例えばメノウ、水晶が最も理想的である。1つか2つの有名で貴重な材料で作った曲玉を主体として、円形、管状の曲玉を繋げたら、ネックレス或いは服装、衿などの装飾品を作ることができる。日本語の中の「玉」の発音は霊魂の「霊」と同じため、日本人は八尺瓊勾玉を貴重なものとして三種の神器の一つに挙げられている。
現在日本では、玉文化は次第に勢いが弱くなっている。主に装身具としての社会機能を果たしているが、日本社会全体で主導の地位にない。抹茶、壷器などと比べたら、影響がずっと小さい。但し、中国では玉細工がこの時代の寵児になっていて、玉細工のファンが大勢いるほか、大量の玉細工の生産メーカーも育てられた。同じ物事が日中両国で異なる歴史境遇に置かれていることから、日中文化の歴史的な繋がりも感じられ、日中文化の時空上の差異も体感させられた。日本の街で子供の装身具に玉が入っていることに偶然に気づいた時、再度日中文化交流の歴史にあるこの重要な頁を開いたら、また異なる情緒が湧いてくるだろうか。それは我々に星空を眺めさせ、時空を通り抜けて、改めて日本できれいに輝いていた玉の文化を体得させる。
朱新林(ZHU Xinlin):浙江大学哲学部 助理研究員
中国山東省聊城市生まれ。
2003.9~2006.6 山東大学文史哲研究院 修士
2007.9~2010.9 浙江大学古籍研究所 博士
(2009.9~2010.9) 早稲田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11~現在 浙江大学哲学部 助理研究員