【11-11】唐の都・長安の面影残す京都の美
李 建(中国科学院南海海洋研究所) 2011年11月30日
京都には、日本が世界に誇る名庭園がある。これらの庭園は西暦794年に中国の唐の都・長安を模して造られた。規模は長安城の比ではないものの、西安城(長安城)の研究において今もなくてはならない参照物である。京都と西安のこうした密接なつながりは、都城の構造や制度の類似だけにとどまらず、両国の長期的な友好交流の歴史を裏付ける最高の証である。京都と西安は歴史学界、考古学界の研究の重点であり、両国国民が今も昔も興味を寄せている話題である。
1.長安城の成立と歴史
唐の都・長安は今の陝西省西安市に相当する。唐の大詩人・杜甫は「秦中(しんちゅう)は古(いにしえ)より帝王の州」と長安を賛美する詩を詠んだ。西周から、秦、西漢、前趙、前秦、後秦、西魏、北周および隋、唐に至る約1千年の間で、10の王朝がここに建都し、中国史に深い影響を与えた歴史的ドラマの多くがこの地で演じられた。ここの山水や都市・農村のいたるところに美しい文化財や旧跡が残っており、歴史ロマンを感じさせる物語を今に伝えている。そのうち最も有名なのが漢の長安城と唐の長安城である。
隋・唐の長安に建てられた青龍寺の遺跡
隋開皇2年(582年)、漢の長安城の東南に新都・大興が造られた。唐の時代には長安と改名され、なおも都城とされたが、修繕と拡張が一部行われたのみだった。盛唐に入ると、長安は当時最も栄えた最大規模の国際都市となった。天佑元年(904年)、皇帝・朱温が洛陽への遷都を昭宗に迫り、長安の宮殿・民家は破壊され、長安の都は次第に廃墟となった。同遺跡は現在の西安市街地およびその近郊にある。1920年代初め、学者・足立喜六が視察を行い、1957年から本格的に実地調査と発掘が始まった。
古代都城の構造からみると、唐の長安城は、中国古代の里坊制の都城としては形態が最も完全なものである。中軸対象の配置を採用しており、綿密に計画され、街並みは整然としている。閉鎖型の皇居に役所を設け、閉鎖型の里坊で住民を管理した。住民区は都城総面積の8分の7を占め、人口の集中と商工業の発展を促す土台となった。唐の長安城の計画配置は、東アジアの一部の国の都城に大きな影響を与えた。その最たるものが京都である。このほか、琉球、韓国、朝鮮、ベトナムなどの都市配置にも唐の長安城の影がうかがえる。
唐の長安城は大きく分けて廓城、宮城、皇城の3つの部分からなる。廓城は長方形で、東西約9721メートル、南北約8651.7メートル、周囲約36.7キロメートル。四方には各3つの城門があり、門道は、5つの門道を持つ南側の正門・明徳門を除き、その他はすべて3つだった。廓城の北部中央に位置する長方形の宮城は、南北1492メートル、東西2820メートル、中央部には太極宮(隋大興宮)、正殿には太極殿(隋大興殿)がある。東には皇太子の東宮、西には宮人が住む「掖庭宮(えきていきゅう)」があった。皇城は宮城の南に接しており、東西に走る大通りが7本、南北に走る大通り5本、左には宗廟、右には社稷(しゃしょく、土地神を祭る祭壇)があり、中央政府機関とその付属機関が設けられた。
李世民(唐太宗)の後、唐人は長安の宮殿を増築した。貞観8年(634年)、太極宮の北東にある龍首原の高台に永安宮を建て、翌年に大明宮と改名。龍朔3年(663年)以降は、大臣などが皇帝に謁見する場となった。玄宗の時代には藩邸であった興慶坊に興慶宮が建てられた。このほか、唐の長安城の南東隅には、風景遊覧区・曲江池もあり、風景と都城を組み合わせる試みが行われた。これは中国古代都市計画の快挙であり、京都の庭園建築に重要な示唆をもたらした。
曲江唐代芸術博物館/唐の長安城の見取り図
当時全国の政治・文化の中心であった唐の長安は、城内に坊と市を持つ。坊は住宅区、市は商業区で、坊と市は区画されている。市は東市と西市の2つがあり、東市は220の区画があり、四方に立派な邸宅が並び、ありとあらゆるものが集まっていた。
西安青龍寺の雲峰閣
唐の長安城は明・清の北京城よりも24平方キロメートル大きく、当時世界最大の都市。最も広い大通りは幅220メートル、東市の大通りは幅約15メートル。西市の東西と南北には各2本の大通りが走り、市内を9つの区に分割している。各区の四方にはいずれも大通りがあり、各業種の店舗が道沿いに軒を連ねていた。一般的な店舗の面積は2小間、大きくても3小間だった。出土した遺物をみると、西市には飲食店や宝石店などのほか、加工用の工場(手工業)もあった。
唐の末年に長安城が廃墟となると、佑国軍の節度使・韓建は長安の廓城、宮城をあきらめ、皇城を修築して役所や民家を設けた。
西安市の東部・南鉄炉廟村の北高台にある青龍寺が、入唐八家のうち空海、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡の6人が修法を授かった地であることは、特筆すべきである。とりわけ空海(諡号は弘法大師。俗名は佐伯眞魚。讃岐国<今の香川県>人)は15歳で中国の経典『論語』、『孝経』などを学んだ。その後長安を訪れ、大学で明経科を専攻し、中国の古典文学を学んだ。仏教にとりわけ興味を抱き、中国密教の中心人物・恵果の弟子となって密宗の真諦を学んだ。帰国後日本で真言宗を開き、東密の開祖となった。ゆえに青龍寺は日本人にとって聖なる寺院であり、日本真言宗の祖庭である。ここから当時の長安文化の勢いが見て取れる。また空海は中国の漢字の部首をもとに日本語のひらがなを生み出し、日本の言語文化の発展にも寄与した。(訳注:ひらがなは漢字の部首ではなく草書体をもとに生み出された。)
2.「京都」の誕生と唐長安城の模倣
西暦7世紀初めから9世紀末の約2半世紀において、日本は中国文化を学ぶため、遣唐使を十数回にわたって派遣した。唐の文化の吸収が目的であったため、使節団のメンバー、特に大使、副使、判官、書記など役人の選抜は非常に重要視された。例えば、高向玄理、吉備真備はかつて中国に長期留学したことがあった。山上憶良、小野篁、菅原道真など著名な文学者(最後の2人は最終的に渡航ならず)も含まれていた。こうした遣唐使らが持ち帰った知識によって、日本は社会改革を成し遂げ、名立たる日本の国風文化を生み出した。「京都」の成立は、唐文化が日本に伝わったことを裏付ける物証である。それは当時の長安城の繁栄のみならず、唐の時代に両国の文化交流がかつてない盛り上がりをみせたことを物語っている。
京都は、西京ともいい、古くは平安京と呼ばれた。日本の古都で、本州の中西部、京都盆地の北部に位置する。794年、日本の首都は今の京都府南西部にある長岡京から、地勢が険しく敵を防ぐのに都合がよい京都盆地に移された。7世紀の唐の長安と洛陽の建築様式を模して建てられ、平安京と命名された。平安京には平和と安寧の意味が込められており、長安城の由来と相通ずるところがある。1467年、応仁の乱で破壊されるが、安土桃山時代に修築され、人口は20万に増えた。1075年もの長きにわたり首都が置かれた京都は千年の古都として知られる。1869年に東京に遷都した後も宗教・文化の中心であった。1889年に京都市が置かれ、1994年、世界遺産に登録される。その中には東寺、上賀茂神社、清水寺、醍醐寺、仁和寺、西芳寺、天龍寺、金閣寺、銀閣寺、龍安寺、本願寺、高山寺および二条城(江戸幕府が建てた)が含まれる。
金閣寺/本願寺
清水寺/金閣寺
以降19世紀中ごろに至るまで、京都は日本の都城および文化の中心であった。京都の民家や寺院、庭園は最も特徴的である。京都市内の道路は碁盤の目のように規則正しく走り、南北を貫く朱雀通りが京都を左京と右京に二分している。名所旧跡が多く、市の内外には古色蒼然とした寺院や神社が点在し、現代的な建築物と織り成すコントラストが美しい都市景観を生み出している。ここには日本で最も豊富な歴史文化遺産が集まる。名所旧跡には京都御所、二条城、平安神宮、桃山城、修学院離宮、鹿苑寺、慈照寺などがある。京都は宗教の影響を強く受けた地域でもある。市内には西本願寺、東本願寺をはじめとする仏教寺院が1500カ所以上、平安神宮など神社が200カ所以上あり、経書・典籍や文化財が所蔵されている。また仏教寺院と神社計2千棟のほか、多くの宮殿や庭園、状態の良い建築物を有しており、これも京都が日本の文化を最も完全な状態で今に伝えている要因である。このうち清水寺は日本最古の寺で、切り立った崖の上に建てられた架構式構造の寺院である。金閣寺、銀閣寺、龍安寺の石庭も京都の名建築である。1895年に建てられた平安神宮は皇族と京都に住んでいた歴代天皇を祭っている。京都御所と仙洞御所は数世紀にわたって天皇の住まいだった。桂離宮と修学院離宮はいずれも日本庭園建築の傑作である。
庭園都市とも呼ばれる京都には、日本で傑作とされる庭園の約半数が集まっている。京都の寺院の多くはそれ自体が古式ゆかしい庭園である。京都市の北西端に位置する鹿苑寺は金箔装飾が施された舎利殿「金閣」で知られる。450平方メートルの敷地に建てられた龍安寺の石庭は、一面に敷き詰められた白砂に15個の石が歴史上の説話に沿って配置され、独特の世界を形づくっており、山水庭園の代表作である。京都の各建築はいずれも中国の隋・唐の時代の特徴と仏教の色彩を帯びている。室町時代の北山文化の代表作、鹿苑寺金閣は、同じく北山文化の結晶である慈照寺銀閣と並んで名を馳せている。金銀両閣はそれぞれ京都の西と東に位置し、呼応関係にある。金閣は3階建ての楼閣で、1、2階の大きさは等しく日本様式だが、3階は中国様式で禅宗の特徴がはっきりと見て取れる。
本願寺は日本最大の仏教宗派の一つ浄土真宗の本山である。石山本願寺は、浄土真宗本願寺派第8代門主・蓮如が1483年に京都の山科に建てた寺で、もとは山科本願寺と呼ばれていた。その後第10代門主・証如によって摂津国石山(今の大阪市中央区)に移された後、石山本願寺と呼ばれ、本願寺派の本山となった。京都堀川大通りの東西両側に位置する西本願寺(浄土真宗本願寺派の本山)と東本願寺(真宗大谷派の本山)は信徒が多く、建築規模が大きく、所蔵品も豊富であることから、今日の日本で最も広く知られる寺となっており、国宝にも指定されている。西本願寺の門前には唐様式の獅子があり、側面には、儒家より神聖視された中国の名君・尭(ぎょう)と舜(しゅん)が禅譲(帝位を世襲せずに有徳者に譲った)という説話や、尭(帝が位を譲ろうと言うと、汚れたことを聞いたと、潁水(えいすい)で耳を洗い、箕山(きざん)に隠れた許由の話が刻まれ、唐文化の色彩があふれている。
京都は遷都から19世紀に至るまでの1千年余りの間、文化の中心としての役割を果たしてきた。宗教建築を中心とした木造建築、庭園芸術の発展という洗礼を受け、世界各国の庭園設計に影響をもたらした。それだけでなく、多くの歴史建築や庭園を持つこうした都市は、日本の各紀元の歴史を記録した。
第2次世界大戦時、京都は悠久の歴史と文化的価値を持つことから、米軍の空襲を免れた。そのため町屋造りをはじめとする日本の戦前建築を豊富に有する数少ない都市の一つである。しかし現代化の波は京都市にも押し寄せ、京都駅に代表される現代建築も出現している。現在の京都は日本の伝統的な建築様式を保つ一方で、現代的な特徴も併せ持ち、伝統と現代の融合を実現している。これも古都として世界に名を馳せる京都のもう一つの魅力である。
3.現代における京都と西安の交流
近現代に入って、両国の都市レベルの交流がすます盛んになった。京都と西安も長年の交流を続けている。日中友好協会の寥承志会長は1973年に訪日した際、京都を訪れ、友好提携を結ぶ意向を示した。同年、中国外交部と対外友好協会は西安と京都の友好提携を承認し、1974年5月10日、両市は西安で友好都市協議書に署名した。長年、双方は政治、経済、文化、体育、教育、都市建設、学術交流などの分野で実り豊かな協力・交流を行ってきた。こうした全方位的な交流は、主に以下の3つの面に現れている。
(1)文化交流
陝西省外事弁公室の統計によれば、西安市はこれまで計8回にわたって代表団延べ112人を京都に派遣し、京都市も計21回、延べ201人を西安市に派遣している。1975年から1990年の間、両市は希少動物の相互寄贈を8回行ったほか、1980年からは書道や絵画、壁画、拓本、文化財の修復を主とした文化交流を始めた。
(2)教育研修
西安市はこれまで計25回にわたり延べ82人を京都に派遣し、京都市も計23回、延べ131人を派遣している。例えば1980年からは、京都芸術短期大学文化財研修団15人が西安を訪問。1985年には、西安市の三十中学と京都市の向島中学、西安市の六十中学と向島東中学がそれぞれ友好関係を結んだ。双方は相手側の都市が開催する国際マラソン大会に何度も代表団を派遣しているほか、太極拳や気功、サッカーなどの面でも友好交流を行った。
(3)政治交流
西安市は計4回、延べ24人を京都市に派遣、京都市も計9回、延べ191人を西安市に派遣している。両市の歴代市長は、相互訪問を何度も行っている。例えば1973年6月22日~24日、京都市の船橋求己市長一行6人が西安市を訪れ、京都と西安の友好提携について話し合った。1984年5月7日~17日、京都市の今川正彦市長率いる代表団102人が西安市を訪れ、友好都市締結10周年を記念する祝賀イベントに参加した。1987年11月16日~29日、西安市の袁正中市長ら4人が京都市で開催された第1回世界歴史都市会議に招待され、歴史都市の計画建設、文化遺産の保護、都市産業の発展などをめぐり意見交換を行った。1994年4月25日~28日、京都市の招待で崔林涛市長を団長とする代表団6人が、同じく京都市で開催された第4回世界歴史都市会議に出席した。1996年9月6日~14日、京都市の桝本頼兼市長ら19人が西安市を訪問し、第5回世界歴史都市会議に出席した。2004年9月12日、西安市の孫清雲市長率いる代表団8人が京都を訪問し、両市の友好都市締結30周年を記念する祝賀イベントに参加した。
2007年、西安高校の生徒3人が京都市で開催された世界青年環境保護大会に参加した。
喜ばしいことに、こうした交流・協力活動は現在も継続され、実り豊かな成果を挙げており、友好交流の伝統を今に引き継いでいる。京都市と西安市は今後も交流・往来をさらに拡大・深化し、両国の友好交流に引き続き貢献するに違いない。
李 健(Li Jian):中国科学院南海海洋研究所