【12-03】禅の日本伝来に貢献した中国禅宗の第六祖を菩提樹の下で偲ぶ
張 雯(中華女子学院 児童発達教育学院 講師) 2012年 3月23日
(無準師範像 出典:http://zsm.sh1122.com)
中日両国は一衣帯水の隣国である。悠久の歴史を持つ中国文化は秦始皇帝の時代から日本に伝わり始め、両国民は政治、経済、文化等のさまざまな分野で密接な関係を保ち、互いに影響し合ってきた。長い封建時代を経て、両国は文化や芸術のさまざまな分野で密接な関係を築き、互いに学びあいながら自国の社会や文化を大きく進歩させてきた。なかでも禅宗は、文化交流の絆として両国文化の発展と交流に大きな役割を果たしてきた。
中国の仏教思想は、日本に対し非常に深い影響をもたらしている。仏教が日本に伝わったのは522年(継体天皇16年)と言われる。南梁出身の司馬達らが大和の国(現在の奈良県)の高市郡坂田原に草庵を築き、寺を建立し、仏像を安置して念仏を行ったのが日本の民間における仏教の始まりと言われている。国としての公式な仏教伝来は552年(欽明天皇13年)10月であり、百済の聖明王により釈迦仏の金銅像と経論、幡蓋等が献上されたのが始まりと言われている。しかし、仏教の普及は必ずしも順風満帆ではなかった。半世紀にわたる仏教崇拝と排仏のせめぎ合いを経て、最終的には596年に曾我氏の子、蘇我馬子による飛鳥寺(法興寺)創建を機に民間で流行し始めた。禅は中国化された仏教であり、インドの言葉が中国で「禅那(ゼンナ)」と音訳されたことに由来する。禅では「不立文字、以心伝心」(文字を立てず、心をもって心に伝う)として、宗派による繁雑な注釈を捨て去り、心から心に直接教えを伝える。禅宗は慧能によって開かれ、広められた。慧能以降、禅宗は他宗派に取って代わり仏教の別称となった。12世紀末から13世紀初にかけ、禅宗を代表とする中国仏教が盛んに日本に伝わった。
日本への禅宗伝来は両国の社会背景の影響による。北宋時代の100年余りにわたる文化の確立を基盤に、南宋文化は総じて成長期にあり、古い文化が復興を果たしただけでなく、仏教も大変繁栄し、なかでも禅宗が栄えた。鈴木大拙氏の言葉のとおり、中国禅宗は「唐代に発達し、宋代に栄えた」。確かに、中国禅宗は五代、北宋以降に徐々に栄え、南宋の頃には成熟期を迎えて仏教の主流となり、仏教の代名詞にもなったため、禅宗の会得が宋に渡った日本人僧侶が真っ先に選択する目標となったことは、必然的な時代の趨勢であった。長江北部が金によって占領され、五台巡礼の道が阻まれていたために日本人僧侶が長江南部に向かったことから、江南一帯が交流の主な拠点となり、南宋時代の日本人僧侶たちにとって径山寺が禅宗の聖地となった。一方、日本では、新興武士階級の源氏が権力を掌握する鎌倉時代に入ると、文化面で独自性を持つ源氏政権は積極的に中国禅宗を取り入れた。実力派の北条時頼や北条時宗らもみな帰依したばかりでなく、禅を武士階級の思想の柱とした。鎌倉幕府の実権を掌握した北条氏は径山寺を深く敬慕し、禅の教えを求めて同寺に僧侶を送り続けた。さらに、北条氏は伝法のため径山寺から中国の名僧を送るよう要請する手紙を自らしたためて僧侶に持たせた。つまり、鎌倉幕府の統治者たちは径山をして「道之所在」(道のある場所)と称したのだ。大まかな統計によれば、南宋から明末までに日本人僧侶443人が教えを求めて中国を訪れ、うち129人が史書に記録されている。当時の最も代表的な中国の禅僧は無準師範であり、彼が中国の禅文化に精通する仏門の弟子を多数育成したことによって、後に禅宗が日本で根を下ろし発展する確固たる基盤が築かれた。
無準師範は、名を師範、号を無準、俗姓を雍氏と言い、四川省梓潼の出身である。無準師範は南宋時代の仏教界の大家で、臨済宗楊岐派の中心であり、中日文化交流史を代表する人物でもある。彼は南宋における臨済宗楊岐派の繁栄及び日本禅宗の発展のいずれにも大きく貢献し、日本の臨済宗に属する相国寺派管長をして「日本の禅宗史上忘れてはならない人物」と言わしめた。布教のため渡日した無学祖元と兀庵普寧は無準師範の高弟であり、それぞれ日本で仏光派と宗覚派を創立した。就連は日本で大変名を馳せ、「日本画の大恩人」と呼ばれた牧谿(法常)も無準師範の弟子であった。実際、「古来の日本禅宗24派のうちの3分の1は無準の弟子」と言われるほどで、無準師範の門下の日本禅宗が最も栄えた。その法系は日本禅宗全体の中で最も栄え、影響も最も大きく、後に禅宗布教のため渡日した無準師範の法嗣、無学祖元が日本に到着した際、「老僧(自分)は大唐(宋)にいた時、日本の兄弟(ひんでい)で同住する者が多かった」と語ったほどであった。
深い哲学的思想を持つ宋代禅宗は、日本の伝統的な儒教思想に大きな影響をもたらしただけでなく、文学や芸術等、文化のさまざまなジャンルに融合され、「以心伝心」や「無中万有」の思想を拠り所にし、禅宗を代表とする中国仏教はその後の日本の文化思想の発展に大きな影響を及ぼした。影響は仏教そのものに留まらず、文学や芸術、美学、茶道等、生活のさまざまな面に浸透しており、その魅力は今なお輝きを失っていない。
厳密に言えば、禅は宗教という境界を越えて日本国民の深層心理に到達し、すでに宗教に近似する(亜宗教の)精神性を持つまでになっており、この精神は禅における沈思の活用や、経験を凌駕する思索の方法、不屈の自信に表れている。南宗で言う自力・自度も、日本文化において「自強不息」(たゆまず努力する)という民族精神となっている。禅の修練は日本の大衆文化から民俗に至るまで、人格修養のための修練や文化的修養における核心として体現されている。禅宗は日本に伝わると、宗教的意義のほかにも、主に2つの面で大衆の文化・生活に深い影響を及ぼした。一つ目はすでに日本人の魂に深く入り込んでいた中国儒教に対する補完である。この点は、中国文人による禅の昇華と非常に似ており、主に知識層が自らの精神と芸術の処世的な運用との間でバランスを取る際に体現された。二つ目には、芸術的創造と禅の交流であり、日本の和歌や物語、書画等の芸術様式の成熟に大きな役割を果たし、「五山文学」や「俳句」の繁栄を導いただけでなく、「芸術」的概念を開拓し、詩の方法により禅を民俗(または民俗芸術)にまで広めた。この民俗の概念には、茶道や生け花、武士道、剣術、庭園建築、生活の中のユーモア等のさまざまな大衆文化が含まれる。このため、中国の明清代以降の歴史では、禅宗の衰退により、禅の手法は庶民により熟知され受け入れられる方法でなくなった一方で、清代以降の日本人が実質上、中国人以上に禅を会得するようになった。このうえ、これら禅の精神の会得や外在化も中国人に比べはるかに普及し、日本では(知識階級のみならず)一般民衆の間でも、飲食文化や日常生活、礼儀、心理等の生活のさまざまな面で、意識するとしないと関わらず守られてきた。一方、これら会得の過程で最も重要なのは儒学と禅が相互補完された結果の東洋式の「和」、すなわち中国人の言うところの「天人合一」であると同時に、「悟り」に向け、絶えず救済と実際の運用を行うことにあった。
禅宗は修練と意守に重きを置くことから、中国の武術、気功、医学等にも大きな役割を果たしてきた。気は意念なくしては存在せず、意念も気や気場という客観的存在なしには存在しえない。いわゆる「気沈丹田」、「神遊丹田、在泥丸宮下」、「運気一周天」等はいずれも意守と関係する。一方、修練功夫では意守を強調するため、日本の武士文化の振興にも大きな指導的役割を果たした。武士文化が室町時代に最高潮に達したことと、当時の禅に対する崇拝との関係は必然である。日本の茶道も一貫して禅の精神を保っており、禅意なくして日本茶道を語ることはできない。珠光禅師以降、日本茶道は東洋趣味を独自に取り入れ、工夫は茶道の外で行われ、茶道は茶を借りて「道」を体現するスタイルとなり、非常に洗練された一連の礼儀を持つようになった。日本茶道は楽しみや休養のみを目的とせず、人格の修養や品行の育成、情緒と言った生活で重要な一連の教養となったのだ。その趣旨は茶を飲むことそのものでなく、生活の享受、自我の発見、勧善懲悪、雑念からの超越にあり、静寂の中で広い意味での「涅槃」に近づくことにあった。このほか、禅宗を代表とする中国の仏教思想は日本の作家、芸術家たちの文学・芸術作品の創作においても重要な影響をおよぼした。例えば、日本の詩歌の多くは中国の詩から学び、模倣することによっており、和歌も禅と密接な関係を持つが、禅の精神に溢れた中国古代の詩作に比べ、日本の和歌はより素朴かつ穏やかで、自然に即している。これは、和歌は禅詩の特徴だけでなく、中国古典詩のうち禅詩以外の要素をも吸収し、さらには道教や禅の中でも自然回帰、「返璞帰真」(原点に立ち返る)を重視したためである。また、川端康成や大画家の東山魁夷もこの薫陶を受けており、美は「無我」の境地に存在することが創作の中で強調され、芸術の神秘は「臨終的な眼」の中にあり、禅宗の思想の「閑寂」、「空寂」等の審美的情緒観が保たれている。
禅宗は中国文化の精華として、芸術様式から生活用品に至るまで、大量の創作芸術をももたらした。これら中国文化の伝来は当時の日本の都市の発展や新興勢力の代表としての市民の出現と呼応することによって、生活文化に深い影響をもたらした。例えば椅子や暖簾、布団等の生活用品から納豆、豆腐等の食品、さらには「普請」、「人事」、「単位」等の語彙に至るまで、いずれも禅宗と共に中国から日本に伝わった。これら数多くの文化的要素は、今日なお日本人の日常生活に広く浸透している。
張雯(ZHANG WEN):
中華女子学院児童発達教育学院 講師
中国山東省棗庄市生まれ
2001.9-2005.7 山東師範大学心理学院 学士
2005.9-2010.7 北京師範大学心理学院 博士
2008.9-2009.9 早稻田大学文学研究科 特别研究院
2010.7-現在 中華女子学院児童発達教育学院 講師