【14-10】日本の仏教と遣唐使
2014年10月30日
李 暁亮(LI Xiaoliang):
淄博職業学院図書館 講師
中国山東省淄博市生まれ。
1999.9-2003.6 山東理工大学文学院 学士
2003.7-2008.8 淄博職業学院音楽表現系 助教
2008.9- 淄博職業学院図書館 講師
『入唐求法巡礼行記』は、天台宗三祖のひとりである円仁が著した旅行記で、『入唐巡礼記』『巡礼記』『五台山巡礼記』『巡礼行記』『求法行記』『入唐記』とも呼ばれる。これは円仁が唐に渡り、仏教教義を求めて巡礼した9年間(838~847年)の日々を記した日記であり、唐朝の文宗、武宗、宣宗の三皇帝の時代に自らが体験したこと、現在の江蘇、安徽、山東、河北、山西、陝西、河南の7省を訪ね見聞したことが詳細に記されている。
またこの書には、日本の遣唐使の組織構成や遣唐使船の構造、中国大陸沿岸部の地誌、在唐新羅人社会の相互連携の様子、唐代の都市と地方の政治、制度、交通、生活や風習(年中行事)、五台山の巡礼、長安(現在の西安市)への求法、会昌(唐代の年号)の廃仏の記録、節度使(唐代の軍職)の反乱など様々なことが記されている。
この旅行記は、唐代の仏教を研究する上で重要な史料であるばかりでなく、中日交流や唐代の社会、風習、地誌などについての記述も多く、歴史研究においても第一級の貴重な史料として高く評価されている。
さらにこの書には、武宗の宦官(去勢を施された官吏)に対する考え方や、宦官勢力を抑制しようと努めたがそれに失敗した経緯、会昌2年(842年)10月9日に武宗が僧侶に下した還俗(戒律を堅持する僧侶であることを捨て俗人に戻ること)勅令など、「正統」と認められた歴史書には記載されていないことも記述されている。
本書の写本が明治(1868年~1912年)中期に発見されると、本書は次第に歴史家たちに高く評価されるようになり、玄奘の『大唐西域記』、マルコポーロの『東方見聞録』にも匹敵する大旅行記であると絶賛された。
ここまで紹介しただけでも、日本の仏教が中国と密接に関わっていることが十分感じ取れる。
隋・唐の2つの時代が、中日両国の交流史上、最も輝かしい時代であったことは特に知られている。
619年に隋が滅び唐が建つと、日本は20回近くの遣唐使(このうち13回は長安へ赴いている)を派遣しており、各回に派遣される人数は数百名にも及んだ。この中で最も有名なのは、吉備真備(695年~775年)と阿部仲麻呂(701年~770年)である。
その他、「入唐八家」(最澄、空海、常暁、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡)と呼ばれる僧侶らも密教の経巻などを持ち帰り、布教に務めた。彼らが持ち帰った書物の中には、文学本も多数含まれていたとされ、吉備真備、阿倍仲麻呂などの留学生、「入唐八家」と呼ばれる僧侶達は、唐代の仏教は言うに及ばず、多くの文化・風習などを日本に伝えることでも大きく貢献したのである。
仏教史では、日本への仏教公伝は欽明天皇13年(西暦552年)に、百済の聖明王が朝廷に釈迦像と経典を献上した時とされている。百済から仏教が伝えられると、朝廷内の豪族同士で布教を許すか許さないかの激しい論争が巻き起こった。
その状況に苦慮した欽明天皇は、いち早く仏教を取り入れ、大臣蘇我稲目に朝廷の祭祀を任せた。稲目は百済の聖明王から献上された仏像を小墾田の家に安置し、その後「向原の家」を寺とした。
ところが、国内に疫病が流行し死者が続出するようになると、物部尾輿はこれを外国の神である仏教を祀ったことに対する日本の神の怒りであるとして、仏像を難波(現在の大阪)の堀江に捨て、伽藍を焼き払ってしまった。蘇我氏と物部氏との間の崇仏論争は、実際には皇室や蘇我氏をはじめとする大陸の政治制度や仏教文化を受け入れようとする容認派と、物部氏や大伴氏をはじめとする非容認派との政治論争を反映したものであった。そこに天皇の後継者問題も加わり、その論争は激しさを増していったのである。
百済から日本に仏教が伝わってから40年後、聖徳太子は摂政として豪族や大臣らに仏教を厚く信仰しその興隆につとめるよう詔令を出したことで、各地に仏教を広めるための寺院が次々と建てられた。こうして仏教は広く日本に浸透したのである。
聖徳太子の没後25年、大化の改新が発布された。唐代の律令制度を真似、中央集権体制と法治主義をうち立て、政治制度や社会制度などの改革を行い、強力な社会システムを構築した。
この改革を中心になって推進したのは、隋に渡り 学んだ高向玄理や学僧の旻などである。高向玄理と旻の両名はともに新政府の国博士として任命され、「大化の改新の詔」をはじめとする諸詔勅、法令、制度等の制定に大きく関わった。こうして仏教は新しい段階を迎えたのである。
大化元年(645年)、百済大寺に僧や尼が召集され、仏教信仰を伝える詔書が発布された。さらに僧尼統制のために「十師」という10名の代表者を僧の中から任命する一方、仏教が国家鎮護の道具となると考えた天皇は、皇族や貴族が住職を務める寺院にも土地を与え、時には資金援助をして寺院を建立させた。
奈良時代(710年~784年)、聖武天皇が世を治めた天平年間、奈良仏教は国の保護下に置かれますます発展し、5つの大寺院が建立された。そしてこの時期、中日双方で戒律の僧として高名だった唐代の高僧・鑑真が日本を訪れるという歴史的出来事があった。日本では戒律を授けるという行いがなかなか確立されず、戒律の授け方を学ぶため入唐した僧侶・栄叡らが鑑真を、朝廷の「伝戒の師」として招請したのである。
鑑真は5回もの渡海に失敗し、12年に及ぶ苦心の末ようやく日本に到着したが、栄叡は その間に唐で病死した。
日本に到着した鑑真は、東大寺に招かれると戒壇を設け、上皇から僧侶まで悪をとどめ善を修め人々のために尽くすという菩薩戒を授けている。この時、戒を授かった者は400余名に昇る。そして、聖武天皇は翌年、日本初の正式な授戒の場として東大寺内に戒壇院を建立し、随行する比丘(僧)たちに羯磨(作法)など新たな戒を授けた。
鑑真は後に唐招提寺にてその生涯を閉じたが、その死去を惜しんだ弟子が造った鑑真の彫像は今も唐招提寺に伝わっており、国宝とされている。
仏教が全盛期を迎えた飛鳥時代から奈良時代にかけては、中国から三論宗、法相宗、倶舎学派、成実学派、華厳宗、律宗の6つの仏教の宗派が伝わり、奈良六宗と呼ばれ、後に平城京に遷都すると南都六宗と呼ばれた。
このうち華厳宗は、新羅の僧・審祥が日本で「華厳経」に基づく講義を行い伝えたもので、審祥が日本華厳宗の初祖と言われる。その審祥に講話を要請したのが第二祖と言われる良弁であり、彼によって日本の華厳宗は確立された。
良弁ははじめ大安寺にいたが、後に東大寺の初代別当となり寺務と法務を担当した。後に弟子がこれを引き継ぎ、東大寺を華厳宗の本山とした。
日本で華厳宗が信仰されるきっかけを作った審祥の師匠は、中国華厳宗の第三祖である法蔵であることから、その教えも間接的に中国に由来していることがわかる。
平安時代(784年~1192年)になっても、日本は次々と使節や留学生を唐朝に派遣し、唐の政治や文化、宗教、民俗、音楽などを学ばせ、その後の日本国の発展に大きな影響を与えた。この頃、日本では天台宗と真言宗の二派が相次いで興隆している。
平安時代の日本の仏教界には、同時期に2つの現象が起きた。
1つは、日本古来の神の信仰と外来宗教である仏教とを融合・調和するために唱えられた「神仏習合」の信仰である。神社のご神体に仏像が据えられ、僧侶が神前で読経し、寺が神社を管理するようなことまで許され、神道の神と仏教の尊格を同列の神として認識した。このような信仰は、「神仏分離」政策が打ち出されるまで続いた。
もう1つは、仏教哲学を学ぶことが天皇や貴族など上流階級の特権とされ、庶民を仏教から遠ざけていたことへの不満から、天台宗や真言宗、さらには浄土信仰が普及し、後に浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗など新たな宗派が作られたことである。
中国の晩唐期、禅を説く教えの数々の宗派が確立されていたが、当時の日本にはまだ正式に伝わっていなかった。この時期の日本の仏教はと言うと、名高い山に寺院を構える山岳仏教が急速に一般化の道を歩んでいる。この思想は、宗教の本義に立ち戻り、これまでの仏教諸宗派が政治との結びつきを強めていたのに対し、それらに対する批判的な意味合いも含め、政教分離という考え方を持ち、国家の安泰を祈願するものであった。
これより以降は、日本の仏教の諸宗派は、中国本土の仏教とは異なる形で独自の変化を遂げていくのである。
鎌倉時代から安土桃山時代(1192年~1603年)にかけては(その間、南北朝時代(1333年~1392年)、室町時代(1392年~1573年)を経る)、それまでの諸宗派に加え、浄土宗、禅宗、日本仏教の教えの中心となる浄土真宗、時宗、並びに日蓮宗などの新しい宗派が作られた。
このうち禅宗は、鎌倉時代に日本に伝わり、吉野時代(別名:南北朝時代)から室町時代が終わるまでの200余年の間に、幕府の庇護のもと発展し、武士や庶民などを中心に広まった。
禅の宗派のひとつである臨済宗の14派の本山は、そのほとんどが京都と鎌倉に置かれている。当時の中国宋代の五山十刹制度にならい、鎌倉幕府は「五山」の寺格を制定し、鎌倉五山と京都五山を選定した。そして日本が明に派遣した正副使節の多くは五山僧侶たちであった。また、これらの寺院の僧侶たちは、幕府の外交文書を起草するという必要性も伴い、法語や漢詩を作る才が重視されたことで、五山文学が栄えるきっかけともなった。中でも五山文学の主な担い手として有名な者には、了庵桂悟や策彦周良らがいる。
この時の禅宗の思想、文学、美術、風俗、習慣などが後の日本国民の生活に与えた影響は計り知れず、茶道、華道、香道、書道なども禅宗の発展とともに広まった。
日本の禅宗は、鎌倉時代以降、臨済・曹洞両派に二分された。
徳川時代になると長崎一港だけが外国との貿易を許されたことで、当時は中日貿易商船が頻繁に往来した。そうしたことが背景となり、長崎に移住した華僑により興福寺、福済寺、崇福寺の3つの唐寺が創建され、唐三か寺と称された。そして、住持に相応しい中国僧がいなければ寺院を開山できなかったことから、住持は中国より招聘され、真円、覚海、超然、逸然等の僧が名を成した。
後に、黄檗宗大本山の萬福寺が建立され、日本の禅宗は臨済、曹洞に加えて黄檗宗が開宗し、三宗派となった。
明治22年、日本政府は日本国憲法を施行し、信教の自由を保障している。その結果、各宗は競って大学や専門学校を設立し、多くの仏教関連の書物を出版、仏教の講座も設けた。仏教は再び勢いを取り戻すかのように見えたが、それ程の影響力は持ち得なかった。明治維新以降の60年間で、日本の伝統仏教宗派として13宗56派が公認されただけだった。
第二次世界大戦後の1945年、信教の自由と政教分離の原則について規定され、かつて(1940年)施行された宗教団体法はこの年の12月28日に廃止となり、同日に宗教法人令が施行された。これにより、宗教団体は認可制から届出制に変更となり、神社を含むすべての宗教団体を対象として、法人格を取得することが認められた。そして、このことにより新宗教が次々と創始されたのである。
伝統的な仏教はこの世に偶然に起こることは何もない、生き方が重要だと説いている。一方、新宗教では最大の幸福を獲得することを重視していることが少なくない。このような思想は、昨今のトレンドや日本国内の社会情勢の中では比較的違和感なく受け入れられるため、新宗教は発展を続けている。
その一方で、仏教は依然として日本の宗教の中では主流を占めており、各地に各宗派の大学が20余箇所存在する。たとえば、京都の佛教大学では、仏教の精神が建学の理念となっている。その中には鎌倉時代に「念仏を唱えれば、死後は誰でも平等に往生できる」という教えを説いた浄土宗の開祖・法然上人(1132年~1212年)から受け継いだ理念も含まれる。「現世での過ごし方は、念仏申しやすいように過ごしなさい」念仏によって世を導く、人々のためになる僧侶となりなさい、と発信している。
日本の仏教を全体的にみると、その教理の多くは中国の各宗派に由来するものであるが、その修行や行いは庶民には受け入れやすく実践しやすい傾向にある。20世紀以後、日本仏教の比較的大きな組織を持つ各宗派は、それぞれ法会や祭り、学校教育、慈善運動、学術研究などを展開し、仏教研究や仏教事業を盛んに行ってきた。
その一方で、日本の仏教は出家せずに仏道に帰依する在家の傾向にあり、今でも各宗派では戒律は受け継がれているものの、戒律を厳守しているのは一部の寺院や道場に過ぎず、三壇大戒(初めは本当に戒・中極戒・天人大戒)はあまり見られない。寺院の僧侶の多くは結婚し家庭を築き、伝統的仏教の厳格な戒律とはかけ離れている。
日本の各宗派における現状は決してよいものではなく、ここで改め、戒律を守る清らかな仏教観を取り戻して欲しいと考える。