【15-02】海岸から内陸へ:鳥居龍蔵の西遊記
2015年 2月23日
安琪(AN Qi):上海交通大学人文学院 講師
2001.9--2005.6 四川大学中文系 学士
2005.9--2007.6 ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)歴史系 東洋歴史専攻 修士課程修了
2008.9--2011.6 四川大学文学・メディア学院 中文系 文化人類学専攻 博士コース
2010.9--2011.8 ケンブリッジ大学モンゴル中央アジア研究所(MIASU, University of Cambridge) 中英博士共同育成プログラム 博士号取得
2011.8--2013.11 復旦大学中文系 ポスドク
現在 上海交通大学人文学院の講師として勤務
1902年7月、32歳の鳥居龍蔵は"博愛丸"に乗船し、横浜から中国へと向かった。目指すは西遊記の目的地、西南の辺境地である。未踏査の東アジアを駆け巡った人類学者 鳥居龍蔵は、その2年前に台湾での現地踏査を終えたあと、東京帝国大学より派遣され中国西南四川省の苗族(ミャオ族)の調査のため中国を訪れた。鳥居龍蔵は自由奔放な性格で、縛られることなく思うままに活動し、働き盛りのこの時期に何度も中国に渡っている。論語の「道行われず、筏に乗りて海に浮かばん」(この世の中は絶望だな。筏に乗って海へこぎ出そうか)の心境に至ったようである。異国の風土は彼の探求心を満足させたが、人類学者特有の孤独感も経験した。台湾の南東沖に位置する弧島 紅頭嶼(現在の蘭嶼)で調査を行っていた当時のことを思い浮かべ、東京地学協会が刊行する『地学雑誌』の中で次のように述べている。
紅頭嶼に渡らば最早小生の生活はロビンソンクルーソー的に御座候。朝に「カノー」に乗り番人とともにはるけき海原(ウナバラ)に出で、夕(ユーベ)には椰子樹下太平洋上の月をながむるものに御座候。 ...... 十月廿八日 鳥居龍蔵(鳥居龍蔵「台湾通信」『地学雑誌』第9集第107巻,1897年11月,521ページ)
ヤシの木の下で思いにふけっていた鳥居龍蔵は、まさか自分が前人未踏の東アジアに赴き、その地域の調査・研究を切り開く立場になるとは予想だにしなかったはずである。彼の功績は次世代の研究者たちに大きな影響を与えた。伊藤清司、鳥越憲三郎、佐々木高明など著名な人類学者や民族学者たちが次々と彼に倣い、アジアの東部海岸から中央部、福建省、広東省、雲南省、貴州省など南半島を訪れ調査し、新しい歴史の幕を開いていったのである。
鳥居龍蔵博士(1928年中国のハルビンで撮影)
写真提供:鳥居博士記念会提供『影印在老照片上的文化
-鳥居龍蔵博士的貴州人類学研究』貴州民族出版社、2000年、4ページ
鳥居龍蔵がアジア南方辺境地域で行った調査のスタート地点は台湾である。日本は1895年より台湾原住民族の人類学的調査を始めるが、鳥居龍蔵はこの調査の先駆者である。1896年10月、彼は台南地区花蓮港に上陸し、陸路に沿って西部山奥の泰雅族(タイヤル族)の集落に到着した。立霧渓や木瓜渓付近で生活する卑南族(プユマ族)と平埔族(ヘイホ族)の調査を行い、2か月後に花蓮港に戻っている。翌年10月には、鳥居は東京地学協会からの要請を受け"打狗号"に乗船し、台湾南東沖蘭嶼(紅頭嶼、Botel Tobago)へ向かった。蘭嶼には70日間滞在し、原住民である雅美族(ヤミ族)を調査している。その後、第三回となる台湾調査は1898年10月から12月までの期間で行われ、南部に位置する恒春半島に上陸し、排湾族(パイワン族)が居住する牡丹社(Parijarijao)、内文社(Chakubokubun)、大麻里社(Pakarukaru)を相次ぎ踏査していった。最後となる台湾調査は、1899年1月から10月までと最も長い期間行われ、台湾西部を巡り、卑南(プユマ)、排湾(パイワン)、澤利先(現・ルカイ)、彪馬(ヒュウマ)、阿美(アミ)の四部族の調査を完了している。さらにこの期間、鳥居は屏東の東港に出向き、高雄県旗山、甲仙の南部など4つの集落に分布する鄒族(ツォウ族)を調査、また中央山脈を越え東部玉里を訪れ、再び宜欄地区に住む泰雅族(タイヤル族)の調査を行い、淡欄古道を経由し北部の基隆へ戻っている。実に9カ月もの期間をかけ、台湾南部、中部、東北部の調査を成し遂げたのである。
調査活動時に阿美族と撮影(1896年台湾にて)
写真提供:『苗族調査報告』,台北:商務印書館,2000年,13ページ
4回の台湾踏査活動は合計504日間にも及び、大きな成果をあげた。しかし鳥居には終始気がかりなことがあった。台湾原住民の神話、伝説、風習、信仰、身体、言語、生活様式、親族制度、民族の移動経路などの詳細については理解することができたが、これらの情報は彼らの"ルーツ"を明らかにはしてくれなかったのである。台湾の原住民の民族的特徴を考えると必ずルーツがあるはずであり、それが隣国の日本、東南アジア、中国南方地区の文化とどのような関係があるのか?そのことが頭から離れなかった。
2年後、鳥居は中国西南地区の現地踏査を始める。1926年に彼が出版した『人類學上より見たる西南支那』の冒頭部分に、彼の今回の調査の動機が記されている。
余が西南支那を旅行した目的は、先年自ら台湾に行つて生蕃を調査した結果、彼等蕃族と現今西南に住する苗族の或者とが、人類学上密接なる関係を有つて居るのではないかといふ疑問を生じたので、実地苗族の境を踏んで其の状態を調査し、以て此の疑問を解かうといふのが主であつて、次手に雲南・四川等の各地に散在する猓玀族等をも調査して見たいといふのであつた。
1902年8月6日、上海から船で、江陰、鎮江、蕪湖、安慶、九江を経由し漢口へ行き、さらに長江を上り、岳州(現在の岳陽)、常徳、辰州(沅陵)を通り、10月5日貴州に到着した。貴州の鎮遠府、貴陽府、安順府に1カ月半滞在し、黔(貴州)東南部の苗族社会の調査を行っている。その後施平、関嶺、坡貢、八番、郎岱、安南(現在の晴隆)、晋安、沾益、馬龍などを経由し、11月23日に雲南府(現在の昆明)に到着。11月26日、鳥居は雲南省東部、呈貢、路何、弥勒、江川、通海などに点在する玀玀族(ロロ族、彝〔イ〕族)の調査を行い、12月30日、四川大涼山地の彝族の集落に入る。再び寧遠府(現在の西昌)、越嶲(現在の越西)、雅州(現在の雅安)、新津などを経由し、1903年1月23日に成都へ到着。1月31日には岷江へ向かい、眉州(現在の峨眉)、叙州(現在の宜賓)を経由し東へと進み、川(四川)東の都市重慶に到着した。2月12日には重慶を出発し、三峡、宜昌、荊州、漢口を経由し東へ向かい、上海へと戻ってきた。そして、3月13日に横浜に向かう船に乗り帰国している。
写真元:googleマップ 筆者が記した鳥居龍蔵の行程
このときの調査期間は7カ月と13日間に及び、9つの省を経由した。その行程は滞りなく進み、日本において20世紀40年代以前では唯一となる中国西南辺境地域に住む少数民族の調査報告書をまとめた。中国の南方民族と北アジア遊牧民族が接するこの地帯は東アジア大陸における南北の懸け橋となっており、東アジアの歴史を作り上げていると言っても過言ではない。また、地理的に調査が難しいうえに、漢文文献の中で"南蛮"に関する資料が分散しており、正確な情報を得ることが困難だという理由から、中国南方少数民族の研究は全てのアジア民俗史の中でも最も弱い部分とされてきた。人類学的観点からみれば、"文献が乏しい"状況下では、鳥居の行った現地踏査は極めて重要だったのである。
人類学における一つの難しい問題は、民族の分類である。鳥居龍蔵は台湾原住民に対して行った調査経験をもとに"生(外来勢力に服属せず自律性を維持)/熟(他民族による移住・開拓により社会を形成)"の分類方法を採用し、多様な集団から成る苗族を"純苗族"(狭義の苗族)、"非苗族"(広義の苗族)と分類した。時間的な制約があったため、彼が主に調査できたのは、貴州・湖南地区の"純苗族"系の青苗、白苗、黒苗、紅苗にとどまった。しかしながら、鳥居は広い視野と多角的な視点で考察した結果、華南から東南アジアに広く分布する苗族を"人種のルーツ"と定めたのである。
鳥居龍蔵の考察がこれまでの学者と大きく異なる点は、終始一貫して日本社会を基準とした人類学の研究を行っていたことにある。文化や地形を詳細に調査し報告するだけではなく、地域を超えての比較研究も手掛けていた。例えば、涼山彝族は葬送儀礼の際、「指路経」を唱え、死者の魂を(雲南省)昭通付近に送り届ける風習がある。鳥居はこの点に着目し、8世紀の日本最古の歴史書『古事記』に記されているイザナミが死後、黄泉(ヨミ)国(妣国)に向かう情景と似ていると報告している。また、川滇(四川・雲南)地区の彝族と湘黔(湖南・貴州)一帯で生活する苗族の家屋の屋根の先端にはⅩ形に交わる2本の木があり、鳥居はこれを、日本で出土した銅鉾に記されている"千木"の記号と関連があると報告している。一貫したこれらの手がかりをたどると、東アジア大陸南部の弧形地帯と日本における文化の共通点が見えてくる。西はヒマラヤ山脈南の麓から始まり、雲南西部に至り、インドシナ半島、インドネシア、フィリピンの島々を経由して、東端の台湾と日本へ民族的特徴が伝わったと考えられる。例えば刺青、農耕での雨乞い儀式、巨石崇拝、銅鼓と木鼓の使用、横穴式の墓、高床式建築などがあげられる。
かくして、鳥居が調査のため中国の各地を転々と移動していた1902年は、中国社会が混乱していた時期である。当時の西南辺境地域も清朝の体制崩壊と時代の移り変わりの影響を受けていたはずであるが、"前近代"(地縁・血縁に基づく社会)の社会文化を守り続けていた。山と谷に隔てられていたことで、雲南では20世紀初頭でも依然として、狩猟と農耕が生計の手段となっていたのである。ところが、離れていた母国の現代文明に触れた途端、この稀有な農耕社会は「礼失而求諸野(礼失われて諸を野に求む)」の精神を育くむことが難しくなっていった。
一方、日本社会では今日に至るまで稲作文化の風習や儀式が継承されており、その起源は縄文時代、弥生時代にまで遡る。このことは、とてつもなく距離が離れているヒマラヤ山脈南の麓の稲作文化と果たして関係があるのだろうか? 関係があるとしたら、民族学的な確たる証拠があるのだろうか? これらの解明のために、今後も鳥居龍蔵の仮説は慎重に調査・研究する必要がある。
より緻密な論証が後輩の学者(例えば、佐々木高明)らにより、既に十数年間続けられている。鳥居が残した研究的思考、つまり東アジア民族を広範な視野で捉えようとする考え方は、日本民族学界と人類学界を導く思想の一助となっており、今後とも後世に恩恵をもたらすことであろう。