【16-03】敦煌と日本
2016年 3月 2日
朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院 副教授
中國山東省聊城市生まれ。
2003.09--2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09--2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09--2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11--2013.03 浙江大学哲学学部 補助研究員
2011.11--2013.03 浙江大学ポストドクター聯誼会 副理事長
2013.03--現在 山東大学(威海)文化伝播学院 副教授
世界の文化史において、1900年6月22日は永遠に歴史に刻まれる日だ。この日、敦煌の莫高窟蔵経洞が発見された。しかし、当時蔵経洞を発見した王圓籙道士は、目 の前に山積みにされた洞窟内の写本の価値を全く分かっていなかった。王圓籙は、知人や関係者を訪ねてこの発見を伝えたが、世間から高い注目を集めるには至らなかった。
その後、イギリスの探検家オーレル・スタインおよびフランスの東洋学者ポール・ペリオが蔵経洞から大量の写本を持ち去り、ペリオが1909年に一部の写本を北京に持ち込んで初めて、北 京の学者たちは敦煌写本の真の姿を目にし、中国に大きな反響が巻き起こったのである(張涌泉「敦煌文献整理百年行与思」、光明日報2009年2月19日)。これ以降、敦煌学は専門的な学問となり、一 躍世界的に有名な学問へと発展した。敦煌文献の収集と研究には、各国の学者が積極的に参加し、多くの代表的な研究成果が生まれた。
英国・フランスの探検隊に続き、20世紀の初めには日本の京都西本願寺第22世法主の大谷光瑞(1876-1948)が3回にわたり探検隊を中国北西部に派遣し、中 国から文化財を持ち去った(大谷光瑞本人は第一次探検にのみ参加)。第三次探検隊は甘粛省に到達し、一部の敦煌文書を持ち去った。大谷探検隊の第三次中央アジア探検は1910年に始まった。同年8月、大 谷光瑞によって派遣された橘瑞超は、ホッブスという英国人助手と共にロシアを経由して中国に入り、トルファン、楼蘭、クチャなどで文化財の盗掘を行った。1911年初めに、橘瑞超は一時音信不通になる。橘 瑞超を捜索するため、大谷光瑞は吉川小一郎を中国に派遣した。同年の10月5日、吉川小一郎は敦煌に到着し、莫高窟の一部の洞窟を撮影している。
1912年1月26日、橘瑞超が敦煌に駆け付け、吉川小一郎と合流、2月中旬に莫高窟を参観した。敦煌文書はスタインとペリオによって持ち去られた後、残りはすでに北京に移送されていたため、こ の時敦煌には収集できる文書が多くは残っていなかった。彼らが手に入れた敦煌文書は「スタイン博士が手に入れそびれたものと、寺の僧侶たちが隠しておいたもの」(橘瑞超『中亜探検』)であった。当 時中国は辛亥革命のただ中であったため、大谷光瑞は橘瑞超に日本への帰国を命じた。大谷光瑞の第三次中央アジア探検は1914年5月に終了した。大谷探検隊の第三次探検で得られた古文化財は、『西域考古図譜』、『 新西域記』などの書物にまとめられている。その他の著作は『大谷光瑞全集』に収められている。
大谷光瑞の中央アジア探検は個人的な活動であり、取得した古文化財の一部は転売され、中日韓の公的機関や個人コレクターの手に渡り、東京の国立博物館、京都の龍谷大学、韓 国のソウル博物館などに収蔵されている。かつて旅順博物館に収蔵されていた一部の古文化財は、第二次世界大戦後に中国に返還された。
日本各地に散らばった敦煌・トルファン文献は、上述の大谷探検隊の取得物だけにとどまらない。当時の清政府の腐敗・無能さと長年の戦乱により、一 部の文献資料が様々なルートから日本のコレクターの手中に収まった。一部はコレクターが收集、もしくは高値で購入したもので、一部は中国国内の人物が日本に持ち込んだものである。これらの文献は現在、龍 谷大学図書館以外の所蔵機関で保管されている。例えば国立博物館には、婆羅謎文の壁画題記残片、回鶻文の木簡一枚、漢文字の「高昌延昌二十九年(589)11月18日虎牙将軍郭恩子墓表」―録文は羅振玉が「 西陲石刻後録」(1915)と「高昌専録」(1932)で発表―のほか、日本の政府によって重要文化財に指定された「樹下人物図」、「劉子」残巻も収蔵されている(尹雁「日本敦煌学史」より)。
元をさかのぼれば、日本の敦煌学研究は1909年に始まった。1909年、ペリオが持ち帰った一部の敦煌巻子本を北京で展示した際、日本の書店主・田中慶太郎がペリオと会い、敦煌写本を目にしている。田 中はその後、北京の日僑誌『燕塵』第11期(1909年11月1日版)で、「敦煌石窟中の典籍」という題目でペリオの発見を紹介したほか、この情報を日本にも伝えている。
1950年代初め、石浜純太郎が京都で「西域文化研究会」を立ち上げ、各分野の専門家を集め、新たに見つかった大谷文書および各種の敦煌文献の詳細な研究を行った。その成果は、「第1.敦煌佛教資料」( 1958)、「第2-3. 敦煌吐魯番社會經濟資料(上、下)」(1959、1960)、「第4. 中央アジア古代語文獻」(1961)、「第5. 中央アジア佛教美術」(1962)、「第6. 歴史と美術の諸問題」(1963)の計6巻からなる『西域文化研究』にまとめられており、敦煌学を含む日本の中央アジア研究の頂点とたたえられている(尹雁「日本敦煌学史」より)。
1982年に出版された竺沙雅章著「中国仏教社会史研究」は作者の論文集であり、その中には「敦煌の僧官制度」、「敦煌の寺戸について」、「敦煌出土『社』文書の研究」と いう三編の論文の修訂本が含まれる。これら三編の論文は敦煌の僧官、寺院経済および社文書の研究にとって重要な価値を持つ。1983年に出版された田中良昭著「敦煌禅宗文献の研究」は、敦 煌文書のうち禅宗文献の全面的な校訂を行っている。1990年に出版された池田温著『中国古代写本識語集録』は、敦煌、トルファンなどで出土した写本文献中の跋文題記計2623条を集め、時代別に収録しており、敦 煌写本題記資料の集大成とも言われる。
1998年には、日本で作家・井上靖の小説『敦煌』を原作とした同名映画が製作された。
敦煌文献発見からの60年間、中国では敦煌文献整理(特に資料の印刷)面で多くの成果が得られたが、資料入手の困難さと、長期にわたる内乱・階級闘争により、中 国は敦煌学の多くの面で日本と欧洲に後れを取ることとなった。これにより、いわゆる「敦煌は中国にあるが、敦煌学は国外にある」という状態になり、中国人は大いに心を痛めた。
1980年代になって各国の敦煌文献が相次いで大量に公開されるに伴い、中国でも若く精力が旺盛な青年学者が立ち上がり、敦煌文献の整理や研究などで喜ばしい研究成果を上げた。王重民、姜亮夫、陳垣、施 萍婷、張涌泉、栄新江ら、世界的に有名な敦煌学者も誕生した。特に、浙江大学古籍所の張涌泉氏が中心となって編纂した『敦煌経部文献合集』は、文献の定名、解題、録文、校勘などを整理したもので、内 容が正確で査閲に便利な敦煌文献の組版印刷本を学術界に提供した。これは敦煌学研究史の一大ニュースとなり、21世紀の敦煌学研究の最高水準とされている。
2014年2月20日、敦煌研究院の樊錦詩院長と東京藝術大学の宮田亮平学長は東京藝術大学上野キャンパスで、「学術交流に関する協定」を締結した。この協定の締結は、双 方の協力が新たな段階に入ったことを意味する。双方は、引き続き人材育成を強化するほか、敦煌学、アジア仏教芸術、美術模写研究、石窟考古学、文化財保護などの分野における学術シンポジウムの開催、共 同研究と学術文化交流の促進、敦煌芸術の複製と模写、敦煌芸術展の開催といった協力分野の開拓を目指している。我々は、中日両国の学者が共に努力することによって、敦 煌学研究が必ずや素晴らしい花を咲かせることができると信じている。