【16-04】大谷探検隊:日本の敦煌学に灯をともす
2016年 4月22日
安琪(AN Qi):上海交通大学人文学院 講師
2001.9--2005.6 四川大学中文系 学士
2005.9--2007.6 ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)歴史系 東洋歴史専攻 修士課程修了
2008.9--2011.6 四川大学文学・メディア学院 中文系 文化人類学専攻 博士コース
2010.9--2011.8 ケンブリッジ大学モンゴル中央アジア研究所(MIASU, University of Cambridge) 中英博士共同育成プログラム 博士号取得
2011.8--2013.11 復旦大学中文系 ポスドク
現在 上海交通大学人文学院の講師として勤務
20世紀前半はシルクロード探検の黄金時代であり、特に最初の20年間は多くの国際探検隊が中国西北地区の奥地に入り、考古学研究、宝探し、冒険を繰り広げた。スウェーデン人のスヴェン・ヘディン(Sven Hedin,1865-1952年)、ハンガリー人のオーレル・スタイン(Aurel Stein,1862-1943年)、ドイツ人のアルベルト・グリュンヴェーデル(Albert Grunwedel,1856-1935年)、アルベルト・フォン・ル・コック(Albert von LeCoq,1860-1930年)、ロシア人のセルゲイ・オルデンブルク(Sergei Oldenburg,1863-1934年)らは相次いで探検隊を引き連れアジア大陸部の奥地に分け入った。世界地図に残された最後の空白地帯は、世界中の地理学者、考古学者の注目を集めた。
1902年のロンドンでも、故郷を離れて遊学していた日本の少年が「中央アジア行き」を夢見始めた。この痩せこけた少年の名は大谷光瑞(1876-1948年)といい、京都西本願寺の第22世法主、浄土真宗の継承者であった。彼の父親である大谷光尊(1850-1903年)が法主であった期間、皇室が神道を推進したことから、日本仏教は未曽有の危機に直面していた。西本願寺はこの状況を打開しようと、一連の措置を講じた。これには、内部関係者からの議員輩出や全面的な教育改革が含まれるが、中でも重要だったのが僧侶の海外派遣だった。欧米諸国の宗教制度を学び、他国の仏教機関と関係を結ぼうとしたのだ。
写真1 大谷光瑞
(出典:敦煌研究院:敦煌莫高窟数字展示中心,http://blog.sina.com.cn/s/blog_14898a1190102w7n2.html)
当時まだ若者だった大谷光瑞伯爵は、すでに英国で2年余り学んでいた。彼は欧州各地から東方学(オリエンタリズム)を紹介する雑誌を購入し、暇さえあればパリのエドゥアール・シャヴァンヌ(Edouard Chavannes)、ブダペストのヴァーンベーリ・アールミン(Arminius Vambery)など、欧州の東洋学者や仏教学者の元を訪れた。爵位継承者であり、西本願寺の次期法主であった大谷光瑞は、仏教の発揚という目標を片時も忘れなかった。スヴェン・ヘディンやスタインの中央アジア探検に啓発を受け、大谷は中国の新疆―甘粛ラインが、仏教が東へと伝わり、アジア東部に入った主要ルートである可能性が高いと判断した。20世紀の日本仏教の良き発展の道を計画するためには、教派の起源、変化の軌跡、歴代の高僧が求法のため西に向かったルートなど、仏教史における難問を解決しなければならない。中でも最も急務だったのは、アジア奥地の古代宗教遺跡の調査だった。
彼自身も思いがけないことに、京都の西本願寺はその後数年間で、日本の敦煌学と西域研究の新時代を切り開くこととなった。1902年8月、大谷光瑞は学業を修了し、従者と共にロンドンから日本へ戻る途中でユーラシア大陸を横断する探検を行った。一行は列車でベルリンからモスクワに移動し、パミール高原を越え、カシュガル、ヤルカンド、タシュクルガンを巡り歩いた。その目的は、古代の仏教大国・カルガリク(Karghalik)を見つけることだった。タシュクルガンに到着後、大谷光瑞と井上弘円、本多恵隆の3人はカシミールとパキスタンを南下し、列車でインドに向かい、仏教遺跡を巡礼し、今度は航路で日本に戻った。渡辺哲信と崛賢雄の2人は中国新疆に残った。2人は1903年1月に最初の目的地であるホータンに到着すると、アクスへと北上、3月にはクチャに到着、キジル、クムトラ千仏洞、通古斯巴什、スバシ遺跡で4カ月余り滞在した。同年9月にトルファンに到着し、小規模の発掘作業後に今度はウルムチ、さらにハミ、蘭州、西安を経て、1904年5月に日本に帰国した。この西域調査(1902-1904年)は、大谷光瑞の初めての中央アジア探検となったが、世間を驚かせるようなニュースにはならず、中央アジアの秘宝との出会いもなかった。
写真2 大谷探検隊の主な旅のルート
(出典:東京国立博物館東洋館ギャラリー)
20世紀の最初の10年間の考古学は、まだ文化財を奪い取ることを最高の褒美とみなしていた。この10年間、アジア奥地で最も魅力的な獲物はまさに敦煌であった。1900年、敦煌・莫高窟を管理していた王道士が偶然にも数世紀にわたって埋もれていた蔵経洞を発見、精巧な唐・五代の写巻や絵画の存在が徐々に明らかになり、欧米の探検家や考古学者が次々と訪れるようになった。1907年、長年にわたり新疆で考古学調査を行っていたスタインが甘粛を訪れ、銀200両で写本24箱と芸術品5箱を購入し、帰国した。その翌年には、フランス人のポール・ペリオが莫高窟で古代の写本が見つかったことを知り、直ちに迪化から敦煌に駆け付けた。ペリオは蔵経洞で3週間をかけて全ての経典にくまなく目を通し、一万件あまりの貴重な石室の秘宝を銀600両という低価格で手に入れた。
敦煌石室遺書の発見は、20世紀初頭の中国学術界の節目となる大事件となった。まもなく蔵経洞の文化財が大量に購入されたという情報が、日本の書店主の耳にも入った。鋭い嗅覚を持つこの男は名を田中慶太郎といい、東京の文求堂書店の北京支店を経営していた。ポール・ペリオが帰国する直前に、田中はペリオの泊まっていた北京六国飯店を訪れ、敦煌から持ち帰った貴重な写本を目にしている。日本人として初めて敦煌写本を目にした田中慶太郎は1909年11月1日に「敦煌石室中の典籍」なる文章を北京の日本語雑誌「燕塵」[1]で発表し、敦煌の遺物について、いち早く日本の学界に紹介した。
その10日後、大阪と東京の「朝日新聞」に、「敦煌石室の発見物」という文章が同時に掲載された。作者は田中家と関係の深かった内藤湖南(1866-1934年)[2]。このとき、内藤を代表とする「京都学派」は新たな実証主義に基づく中国学の確立にいそしんでおり、敦煌文書の発見は、彼らが東アジア文明の全体像を再構築する絶好の機会を提供した。1909年11月末、京都大学史学研究会は敦煌遺書に関するテーマ討論会を開き、蔵経洞の写本の写真47枚、参考書300種類以上を出展した。内藤湖南、狩野直喜、小川琢治、羽田亨の各氏がそれぞれ敦煌の地理、写本残巻、壁画に関する演説を行った。この研究会は空前の盛況となり、「京都、大阪の名士がひっきりなしに訪れた」[3]という。一年後、内藤湖南は浜田耕作、富岡謙蔵ら学者と共に「清国訪書団」を結成して北京に赴き、甘粛から北京に運ばれた敦煌写巻を調査した。この訪書活動は約2カ月にわたって行われた。帰国後、京都大学で「清国派遣員報告展覧会」[4]が催され、各界に向けて訪書の成果が発表され、敦煌文化財の日本における伝播および学術研究を推進し、「敦煌ブーム」を巻き起こした。
ポール・ペリオとスタインが東アジア学術圏における名声をますます高めているころ、大谷探検隊はまだ新疆の黄砂の中を黙々と進んでいた。1908年、西本願寺の出資により、第二次西域探検が始まった。若き僧侶・橘瑞超(1890~1968年)と野村栄三郎(1880~1936年)は1908年6月16日に北京を出発し、張家口を経て、ゴビ砂漠を超えて外モンゴル・コブドに入り、オルホン川沿岸のチュルク、カイコツ、モンゴル族遺跡を調査した後、クールン(現在のウランバートル)から南下してオルドスに至り、天山北麓の唐北庭大都護府遺跡を調査した。10月26日、調査隊はウルムチに入り、11月にトルファン盆地に到着、交河故城、木頭溝、ベゼクリク、吐峪溝千仏洞を調査し、多くの宝物を手に入れた。1909年2月、2人はクルレで二手に分かれ、橘瑞超は南のロプノールに向かい、伝説の仏教国・楼蘭遺跡を探しに出かけた。現在は魏晋西域長史府と確定されている「三間房」遺跡で、重要な史料「李柏文書」を発見した後、西に向かい、ニヤなどを経てカシュガルに到着した。野村栄三郎は北へ向かい、クチャ、アクスを経て、7月にカシュガルに到着し、橘瑞超と合流した。2人は葉城と莎車で小規模な発掘作業を行った後、9月30日に莎車を離れ、インドへと向かった。10月18日、彼らはカラコルム山を越え、10月27日にレーに到着、11月5日にカシミールのスリナガルで大谷光瑞と合流し、第二次調査(1908-1909年)を終えた。この調査では、大谷探検隊の3回にわたる西域探検のうち最も大きな収穫が得られた。
写真3 文化財を載せて敦煌から蘭州へ戻る一行
(出典:臺信祐爾著、国立文化財機構監修『大谷光瑞と西域美術』至文堂,2002年)
写真4、写真5 新疆ベゼクリク千仏洞壁画(1908年の大谷探検隊第二次調査で取得した文化財。現在は東京国立博物館所蔵)
1910年2月、野村栄三郎は日本に帰国した。彼が持ち帰った「李柏文書」、西晋元康六年写本「諸仏要集経」などの貴重な文献は、西域文化財の現物を初めて目にする京都の学者たちを大いに興奮させた。1910年8月3日から6日にかけ、内藤湖南は「朝日新聞」に「西本願寺の発掘物」を連載、大谷探検隊と彼らの収穫について日本国内に紹介し、西本願寺の探検活動は日本で一躍有名になった。
大谷光瑞は勢いに乗って第三次中央アジア探検(1910-1914年)を組織した。1910年8月、橘瑞超はサンクトペテルブルグとシベリアから新疆に入り、まずトルファンで1カ月間にわたる発掘作業を実施した後、前回多くの収穫が得られた楼蘭遺跡を訪れた。時は「辛亥革命」の前夜であったため、各地の情勢が緊迫しており、橘瑞超は于闐(ホータン)に到着後、西本願寺との連絡を絶った。橘瑞超との連絡が途絶えたため、大谷光瑞は同年10月に吉川小一郎を中国に派遣し、橘瑞超の捜索にあたらせた。吉川は上海、漢口、蘭州を経て敦煌に到着し、ここで敦煌文書を購入し、橘瑞超が戻るのを待った。1912年初旬、2人は合流し、再び敦煌で8週間滞在して多くの調査写真を撮影した。莫高窟第428窟と第444窟の外壁には今も彼らが1912年に刻んだ文字が残っている。2月6日、吉川は調査のためトルファンに向かい、橘瑞超は安西に北上し、そこからトルファンへと向かった。2人はそれぞれアスターナ、ハラホジョ古墓群を発掘し、1千件以上に上る墓葬文書を取得した。その後龍谷大学に所蔵された7千点以上の「大谷文書」はこのときの調査で得られたものだ。4月10日、2人はトルファンを離れてウルムチに向かい、橘瑞超はシベリア経由で日本に帰国した。吉川は引き続き新疆のクチャ、カシュガル、于闐の調査を行い、1914年1月になって、敦煌、酒泉、民勤、アルシャー、陰山、包頭、フフホトを経て北京に向かい、5月に日本に帰国、第3次探検を終えた。
大谷探検隊が3回の調査で持ち帰った敦煌文書と中央アジア文化財は、最初、神戸郊外の六甲山にある二楽荘に収蔵されていた。これは大谷光瑞伯爵が、探検隊が持ち帰った西域文化財を展示するために巨額を投じて建設した豪華な別邸だった(1908-1914年)。1915 年、大谷光瑞は内藤湖南、狩野直喜と協力し、探検隊が収集した多くの文化財から696 点を選び、大型図録「西域考古図譜」(国華社)を出版した。上巻には絵画・彫刻・染色刺繍・古銭・雑品などが、下巻には仏典および仏典付録・史料・経籍・印本などの文字史料がおさめられている。
1911年の「辛亥革命」後、大谷光瑞は羅振玉と王国維の2人を日本に避難させ、これをきっかけに中日学者の協力による敦煌学研究の歴史が始まった。羅振玉は後に、次のように回顧している。
「武昌で革命が勃発し、都の人々の心は乱れていた......。ある日、本願寺の大谷光瑞法主が派遣した本願寺の僧侶が訪ねてきて、法主が私に日本へ渡り、家族と共に二楽荘で暮らすよう勧めているという。大谷氏とは面識がなかったが、その厚意に感謝し、ためらうことなく応じた。旧友の京都大学教授内藤虎次郎、狩野直喜、富岡謙蔵の各氏も書簡をよこし、西京へ来るよう勧めてくれた」[5]
羅振玉・王国維の両氏と共に、彼らが長年にわたって収集した西域に関する資料も日本に渡った。その後の数年間にわたり、西本願寺は彼らの膨大な資料の輸送を支援した。これをきっかけに、真の意味での中日学術共同体が形成された。羅振玉は中国敦煌学の開祖であり、1909年にはポール・ペリオが購入した残巻を編集し、「敦煌石室遺書」を出版している。羅振玉は日本に滞在した8年間(1911-1919年)に、京都大学と協力して探検隊が持ち帰った中央アジア文化財の整理を行った。膨大な数の敦煌の宝を見て、中国人である羅振玉の心情は複雑なものだったに違いない。日本にいる間、羅振玉は絶えず著作を発表した。時には一年に十数冊、1カ月に2~3冊を出版(例えば1916年3月には「古器物範図録」、「金泥石屑」、「歴代符牌後録」を出版している)し、大谷探検隊の3回の調査で持ち帰った文化財材料を十分に活用した。1914年8月1日から11月30日にかけ、二楽荘で「中央アジア探検発掘物展覧会」が催された。参観に訪れた羅振玉は、橘瑞超から同氏が編纂した「敦煌将来蔵経目録」の抄本を手に入れ、「日本橘氏敦煌将来蔵経目録」と題し、「国学叢刊」第9巻[6]にて発表した。大谷探検隊がトルファンで発掘した高昌国磚刻も羅振玉により「西陲石刻後録」として編纂され、出版された[7]。「高昌壁画菁華」(1916年)、「鳴沙石室古籍叢残」(1917年)、「流沙墜簡」などの著作の中でも、羅振玉は大谷探検隊の探検と考古発掘の成果を大量に使用した。
西本願寺の3回の西域探検活動で、最も重要視されたのは、仏教の東漸の歴史と仏教遺跡だ。大谷光瑞はその中で、「新たな時代を切り開くが、人の師とならず」という態度を貫き、日本の敦煌学の最初の灯をともした。探検隊メンバーと京都学派が中心となった日本の敦煌学は、わずか10年間で徐々に自らの陣地と隊伍を築き上げ、大量の敦煌文化財を収蔵する二楽荘は、20世紀初頭における東アジア敦煌学研究のメッカとなった。1914年4月、大谷光瑞は寺院の負債整理などにより法主を辞任し、学界を退き、仏教政治活動に傾倒するようになった。二楽荘の敦煌文化財は各地に散逸し、現在は龍谷大学図書館、大連旅順博物館(元関東庁博物館)、ソウル博物館、東京国立博物館に収蔵されている。しかしながら、大谷光瑞が作った敦煌学の火種が消えることはなかった。第二次世界大戦以降、日本が中国古代社会経済の研究面で独特の地位を築くことができたのも、第一世代の敦煌学者の功労と無関係ではない。戦後日本の「敦煌学の金字塔」とも呼ばれる六巻からなる書籍『西域文化研究』も、大谷文化財を基礎に編集されたものだ。大谷光瑞の名は、今では仏教政治活動家としての方がよく知られているが、彼の日本敦煌学への貢献、および中央アジア探検事業への努力は、賛否両論はあるものの、銘記されるべき価値のあるものだ。
[1] 田中慶太郎「敦煌石室中の典籍」『燕塵』1909 年第11 期掲載。
[2] 「敦煌石室の発見物:千年前の古書巻十余箱、悉く仏国人に持ち去らる」、「朝日新聞」1909年11月12日。
[3] 京都史学研究会第二回総会「敦煌発掘書画写真の展覧」『史学雑誌』第20編第12号、1909年12月10日、第114-117ページ。
[4] 内藤湖南「清国派遣教授学術視察報告」、「大阪朝日新聞」1911年2月5日。
[5] 羅振玉『集蓼編」、『羅雪堂先生全集』続編の2冊に掲載、台湾文華出版社、1969年、751ページ。
[6] 羅振玉『日本橘氏敦煌将来蔵経目録』、「羅雪堂先生全集」第三編20冊掲載、台湾文華出版社、1969年、8321-8322ページ。
[7] 羅振玉「西陲石刻後録」序、「羅雪堂先生全集」第三編20冊掲載、台湾文華出版社、1969年、8341-8342ページ。