【16-05】古代中国の祭祀文化をめぐって
2016年 5月12日
朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院 副教授
中國山東省聊城市生まれ。
2003.09--2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09--2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09--2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11--2013.03 浙江大学哲学学部 補助研究員
2011.11--2013.03 浙江大学ポストドクター聯誼会 副理事長
2013.03--現在 山東大学(威海)文化伝播学院 副教授
悠久の歴史を持つ古代中国の祭祀習俗は、中華文明の最も重要な要素の一つである。『国語・楚語』はこう記している。「古者民神不雑。民之精爽不携弐者,而又能斉粛衷正,其智能上下比義,其聖能光遠宣朗,其明能光照之,其聡能月徹之,如是則明神降之,在男曰覡,在女曰巫。是使制神之処位次主,而為之牲器時服,而后使先聖之后之有光烈,而能知山川之号、高祖之主、宗廟之事、昭穆之世、斉敬之勤、礼節之宜、威儀之則、容貌之崇、忠信之質、禋潔之服而敬恭明神者,以為之祝」(古は民神雑らず。民の精爽にして携弐あらざるものにして、また能く斉粛衷正にして、その知は能く上下に義を比し、その聖は能く光遠宣朗に、その明は能くこれを光照し、その聡は能くこれを聴徹す。是の如くなれば則ち明神これに降れり。男にありて覡と曰い、女にありて巫と曰う。これ神の処位次主を制し、これが牲器時服を為さしめて、而して後に、先聖の後の光烈ありて、能く山川の号、高祖の主、宗廟の事、昭穆の世を知りて、斉敬の勤、礼節の宜、威儀の則、容貌の崇、忠信の質、禋潔の服にして、明神を敬恭するものにして、以てこれが祝と為らしむ)。
中国古代文明においては、世界を異なる層に分けることが重要な観念の一つであった。なかでも「天」と「地」の区別は重要であった。異なる層の間は、完全には隔絶されておらず、往来も存在した。中国古代の多くの儀式や宗教思想、宗教行為はまさに、世界の異なる層の間における疎通をその任務としていた。中国古代においてこの疎通を執り行っていたのが「巫」や「覡」である(張光直(1986年4月)『考古学専題六講』,文物出版社,p.4)。『管子・牧民』は、「順民之経,在明鬼神,祗山川,敬宗廟,恭祖旧。......不明鬼神則陋民不悟,不祗山川則威令不聞,不敬宗廟則民乃上校,不恭祖旧則孝悌不備」(民を順にするの経は、鬼神を明にし、山川を祗み、宗廟を敬し、祖旧を恭するに在り。(中略)鬼神を明にせざれば、陋民悟らず、山川を祗ざれば、威令聞えず、宗廟を敬せざれば、民乃ち上に校し、祖旧を恭まざれば、孝悌備わらず)と記している。
「祭名」についての最も早期の記載が『爾雅・釈天』である。「春祭曰祠,夏祭曰礿,秋祭曰嘗,冬祭曰烝。祭天曰燔柴,祭地曰瘞薶。祭山曰庋懸,祭川曰浮沈,祭星曰布,祭風曰磔。是禷是禡,師祭也。既伯既祷,馬祭也。禘,大祭也。繹,又祭也。周曰繹,商曰肜,夏曰復胙──祭名」(春祭は祠、夏祭は礿、秋祭は嘗、冬祭は烝。祭天は燔柴、祭地は瘞薶。祭山は庋懸、祭川は浮沈、祭星は布、祭風は磔。是禷是禡は師祭。既伯既祷は馬祭。禘は大祭。繹は又祭[翌日の祭]。周は繹、商は肜、夏は復胙と呼んだ。──祭名)。古代中国の先人は、人間の霊魂が死後、一種の超自然的な能力を持ち、生者と夢の中で交流することができ、生者に祟り、病気や災いをもたらすこともできると信じた。神々へのこうした畏敬の心理こそ、祭祀行為の生まれた重要な原因である。『礼記・祭統』は、「凡治人之道,莫急于礼;礼有五経,莫重于祭」(凡そ人を治むるの道にて礼より急務なるはなし、礼に五経あり、祭より重きはなし)と記している。また『史記・礼書』は、「上事天,下事地,尊先祖而隆君師,是礼之三本也」(上は天に事へ、下は地に事へ、先祖と君師とを尊び仰ぐなり、是れが即ち礼の三つの根本なり)と記す。現代の考古学者の郭大順は、「中国の伝統においては宗教はなく、血縁を紐帯とした祖先崇拝が中国人の信仰と崇拝儀礼の主要な形式となり、中国文化の伝統の根源となっている」と指摘している。
祭祀の目的には主に、災害の除去、幸福の祈願、神霊への感謝、同盟関係の締結の4つが挙げられる。
第一に、祭祀方式による災害の除去。例えば「儺」(nuó)は、伝染病駆除の儀礼である。『周礼・夏官』は「方相氏」の役割について、「蒙熊皮,以黄金為四目,着玄衣朱裳,執戈揚盾,率百隷而于季春、仲秋、季冬三時為儺礼,索室駆疫」(熊の皮をかぶり、黄金四目の面、黒衣・朱裳を着け、矛をとり盾を揚げ、百人の従者を率いて季春・仲秋・季冬の三時に儺礼を行い、室を探り疫をはらう)と記す。医学が未発達であった当時、人々は、祭祀によって病気を追い払い、治癒を祈祷した。
第二に、祭祀方式による幸福の祈願。例えば「藉礼」は、農神を祀り、豊収を祈る儀礼である。農神は「田祖」「先嗇」とも呼ばれ、漢代以降は「先農」と呼ばれた。『漢旧儀』には、「春始楽于籍田,官祀先農,先農即神農炎帝」(春始に籍田[皇帝の田畑]に楽をなし、官が先農を祀る。先農とは即ち神農炎帝である)との記載がある。また『唐書・楽志』には、「貞観中,享先農楽,迎神用《咸和》,皇帝行用《太和》,登歌献玉帛用《粛和》,迎俎用《雍和》,酌献飲福用《寿和》,送文舞出,迎武舞入用《舒和》,武舞用《凱安》,送神用《承和》」(貞観年間における享先農楽では、迎神には《咸和》を用い、皇帝の行には《太和》を用い、登歌・献玉帛には《粛和》を用い、迎俎には《雍和》を用い、酌献・飲福には《寿和》を用い、送文舞出・迎武舞入には《舒和》を用い武舞には《凱安》を用い、送神には《承和》を用いた)と記され、『咸和』の歌詞は「粒食伊始,農之所先。古今攸頼,是曰人天。耕斯帝籍,播厥公田。式崇明祀,神其福焉」と記録されている。中国は古代から農業社会が続き、古代における農業では天候が非常に大きな意味を持っていた。農業の五穀豊穣は、天の支配する雨風にかかっている。祭祀によって農神の保護を祈るのは当時の必要でもあった。
子を求める祭祀として「高禖」がある。『礼記・月令』は、「仲春之月」について「玄鳥至,至之日,以太牢祀于高禖,天子親往」(玄鳥[燕]がやって来る日には太牢によって高禖を祀り、天子が自ら赴く)と描写している。上巳節には、「高禖」「祓禊」「会男女」などの重要な祭祀活動が行われ、災厄除けや魔除け、出産・育児の無事を祈願した。こうした祭祀は、生産力が低下し、出生率と生存率の確保ができなくなるのを防ぐために行われたと考えられる。農業社会においては、労働力が重要な要素の一つであり、出生率と生存率の向上は社会の労働人口の増加に直結する。子を求める祭祀の発生の背景にはこうした原因がある。
第三に、祭祀方式による神霊への感謝。例えば「蝋」(zhà)や「腊」。両者は異なる祭祀であり、「蝋」は、年の終わりに万物の神を合祭し、一年間の無事を守ってくれた恩に報いる。「腊」はもともと「臘」と書き、先祖と五祀を祭る。同日に別の祭りをすると考える人もいるし(隋杜台卿『玉燭宝典』)、同じ祭りが異なる名で呼ばれているのだと考える人もいる(漢蔡邕『独断』)。
第四に、祭祀方式による同盟関係の締結。『周礼・司盟』の「掌盟載之法」においては、「載,盟誓也,盟者書其辞于策,殺牲取血,坎其牲,加書于上而埋之,謂之載書」(載は盟誓である。盟者はその辞を策に書き、牲を殺して血を取り、牲を穴に入れ、書をこれに加えて埋める。これを載書と言う)との注がある。盟書は2部一式で、1部は盟府に保管し、1部は地下に埋めるか川に流し、神鬼への信頼を示した。1965年から1966年にかけて中国山西省侯馬市秦村で出土した玉片に侯馬の盟書が見つかったが、これは後者である。
侯馬盟書
(http://baike.baidu.com/pic/%E4%BE%AF%E9%A9%AC%E7%9B%9F%E4%B9%A6/2451998/0/1f56948271ed6c83f703a625?fr=lemma&ct=single#aid=0&pic=1f56948271ed6c83f703a625)
祭祀は具体的には、場所や儀式、祭文(祝祷詞)、祭品(Sacrifice)などの一連の要素からなる。また祭祀を執り行う人員の配備にも細かい仕組みがあった。当時の祭祀の実施者は国家の官僚制度と緊密に結合し、全体としての祭祀制度の一部を形成していた。ここで指摘しておくべきなのは、「祭壇」という語が現代語であり、古代においては「壇」とだけ呼ばれていたということである。この語は当時、地面から高く作られた建築を指していた。英語における「altar」に相当する。また「壇」と「墠」、「場」との密切な関係も興味深い。『説文』によると、「墠」は野生の土地であり、城門の外、とりわけ「郊」の外側の野生の土地を指していた。「壇」は祭場、「場」は祭神道を指した。「壇」と「墠」の二文字は同源で、城邑以外の開けた空地を指し、露天で「野祭」が行われ、建物によって覆われてはいなかった。その後、語義が分化し、「墠」は舞台となる空き地、「壇」は祭祀台を指すようになった。中国古代における神祖の祭祀はその後、「廟」で行われるのが主流となったが、これは「壇」「墠」から発展したものである。また「祭祀坑」も現代の術語である。古代の人々が「坎」と呼んでいたものは、英語における「sacrificial pit」に相当する。
「祀」(祭祀)は、「戎」(戦争)と並ぶ国の大事である。中国では殷・周の時代以来、多様な祭祀儀式が発展し、礼楽の文明は栄え、燦然と輝いた。その後、礼楽は崩れ、儀式は失われ、楽舞はすたれ、輝きをなくしていった。中国は現在、経済の急速な発展を実現すると同時に、大きな問題にも直面しつつある。規則を守る意識はなくなり、文化的な精神は退廃した。古代中国の祭祀における「畏敬」の感情は、今日における中国文化の伝承と発展に重要な啓示を与えている。喜ぶべきことにここ十数年、祭祀文化の精神の探求と発揚を始める中国人が急増している。祭祀文化は、中国人が民族精神の故郷を求める有効な道となっている。