【16-07】威海の伝統文化の継承が直面する問題
2016年 6月 9日
朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院 副教授
中國山東省聊城市生まれ。
2003.09--2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09--2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09--2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11--2013.03 浙江大学哲学学部 補助研究員
2011.11--2013.03 浙江大学ポストドクター聯誼会 副理事長
2013.03--現在 山東大学(威海)文化伝播学院 副教授
大海を望む威海は、古くは斉国の地にあたる。『威海賦』はその地理について、「遠則西連斉魯,東極扶桑,南海枹而達乎江漢,北舟楫而至于遼陽;近則巨海浸乎左,周行沖乎右,峰巒如屏映其前,畳峰如幾倚其后」(大意:遠くは西に斉魯、東に扶桑(日本)へと連なり、南に海を渡れば江漢、北に乗り出せば遼陽に至る。近くは左(東)に巨海、右(西)に周行、前に後には峰々が構える)としている。『漢書・地理志』は『斉地記』を注し、「古日夜出, 見于東莱, 故莱子立此城, 以不夜為名」(大意:昔、東莱で「日夜出」(夜に太陽が見える現象)が見られたため、莱子がここに町を作り、「不夜」をその名とした)としている。東に6km行けば斉国の八神の一つとされる日主成山があり、これは古代の太陽を祀った習俗と関係があると見られる。
こうした勢いに満ちた地理と独特な民俗風情は、威海特有の「海浜文化」を形作っている。この文化は、人々の心にも大きく影響し、スケールの大きな思想が生まれやすくなっている。司馬遷は『史記・斉太公世家』でこの海浜特有の性格を、「其民闊達多匿知,其天性也......洋洋哉,固大国之風也!」(大意:懐が深く慎み深いのはその民の天性である......洋々としいるのは大国の気風である)と評している。鄒衍の「大九州説」はこうした背景から生まれたものである。
威海文化は2千年余りの蓄積を重ね、明代には絶頂に達した。「礼義明,人知訓子,士解通経,遊庠序者総髦俊,登仕路者騁佳名」(『威海賦』、大意:礼・義に明るく、人は子を訓するを知り、士は経に精通し、庠序(地方学校)に学ぶ者は皆優れ、官吏の道を歩む者は名を馳せている)。威海人は一代ごとの営みを経て、勤勉で進取の精神に富み、開放的で寛容な、堅実で懐の深い、仁愛と信義に富んだ、正直で善良な、道徳的で忠実で勇気のある、優れた文化的品格と精神的特質を形成した。これらの優れた品格と特質は、古代の威海の人々が後世に残した貴重な遺産である。
だが現在、威海の優れた伝統文化の継承は宣伝が足りず、より深い掘り起こしも足りない。伝統文化を新たな形へと転化し、これを革新する取り組みには、大きな発展の余地がある。この地の伝統文化の継承は現在、次のような問題に直面している。
第一に、威海の歴史に対する探求が十分に行われていない。研究成果の不足は、威海の歴史の掘り起こしを制約する大きな要素となっている。威海に対する現在の学術界と一般の認識は、明代・洪武31年(1398)に設けられた「威海衛」からのものにとどまっている。こうした限られた認識は、威海の歴史文化や行政沿革を整理するのを妨げるもので、中韓自由貿易区の下で威海を世界に向けて宣伝していくのも妨げるものとなる。
中国社会科学院考古研究所は1994年、膠東半島の貝丘遺跡の原始文化遺跡の再調査を行った。威海地区では、「義和遺跡」(環翠区羊亭郷義和村の南100mに位置)、「栄成東初遺跡」(埠柳鎮東初村の南200mに位置)、「栄成北蘭格遺跡」(柳埠鎮北蘭格村の北300mに位置)、「栄成喬家遺跡」(王連郷喬家村の西の高台に位置)、「栄成河口遺跡」(人和鎮河口村の南の丘の東部に位置)の調査が行われた。発見・調査されたこれらの遺跡を考証した研究者らは、威海地区のこれらの先史時代の文化が独自の体系をなすもので、独自の起源と発展の道筋を持ち、単独の考古学的文化実体を構成していると認識するようになった。
これに先立つ1990年夏には、栄成市埠柳鎮学福村南西部の道路建設現場で、古代墓地(「M1」のコードで呼ばれる)が発見された。その東約2.5kmには、漢代の旧跡「不夜城」がある。考古研究者はこの墓の年代を、殷(商)代末期から周代初期と割り出した。銅器の副葬された墓地の中では威海地区で発見された最も早期のものであり、この地区の殷代・周代の社会状況の研究に重要な資料を提供する発見となった。
威海市街地と田村鎮、羊亭鎮で周代の墓地群が発見されたのは1977年のことである。この重要な考古学的発見は、秦に先立つ史籍における威海地区の空白を補うものとなった。それまで学術界においては、膠東半島地区は周代、莱夷文化に属していたと考えられていた。周国人の政治勢力と文化的影響の東端は西周末期に至るまで煙台・蓬莱一帯にまでしか到達していなかったと考えられていた。この周代の墓の発見で、西周時代の威海地区がすでに、内陸部の周文化と接触を持ち、大きな影響を受けていたことが明らかとなった。
礼・楽文明の風はすでにその当時、威海地区に吹いていたということになる。1981年3月には、栄成市埠柳鏡梁南荘村の南部の丘の上で、二つの西漢期の墓が見つかった。不夜城と膠東半島東部地区の歴史の研究に重要な意義を持つ発見となった。1994年夏、威海駅の建設工事に合わせ、威海市経済技術開発区コウ泊鎮大天東村(「コウ」は竹冠に「高」)の東部にあるこの西漢期の墓の発掘が行われた。比較研究を通じて、大天東(「M3」のコードで呼ばれる)は2人の成人男性が隣り合った墓であり、梁南荘は夫妻を違う穴に埋めて一緒にした墓であることがわかった。これは、両地の住民に生活習俗上の違いがあったことを示している。M3で出土した2点の彩色絵皿には、迫力のある竜が生き生きと描かれていた。高い芸術的価値を誇るだけでなく、前漢(西漢)期の威海沿岸一帯の人々の精神や文化の研究に重要な資料を与える出土品となった。威海文化の宣伝普及にあたっては、こうした歴史的価値のある内容を全面的に世界に伝え、威海の歴史文化の輝きを伝えなければならない。
第二に、威海の「郷賢文化」が長らく重要視されて来なかった。地域の精神的な様相の集中した「郷賢文化」は、経済発展に求心力と結集力を与える不可欠な役割を演じてきた。威海は古代から、独立自尊の風に富んだ優れた郷賢(地方知識人)を数多く輩出してきた。彼らのある者は国家統治に精通し、ある者は文学で優れ、ある者は軍事を知り、ある者は儒学を修めた。これらの人々の営みは威海の伝統文化に不可欠な一部となっている。
例えば清朝巡撫山東都察院の右副都御史・岳濬らの監修した『山東通志』で中心的な役割を果たしたのは栄成(現在は威海市の一部)の孫葆田だった。このほかには明代の人物として劉啓先や劉必紹、清代の人物として劉越蕡や劉一良、畢仲姫、徐士林、邵坤書、叢秉粛、金庸、姜模、姜義昭、姜乃邰、王嘉璐、李允升、畢以珣、畢淳昭、陳倌、張樹甲、呂湛恩らが挙げられる。儒学の伝承や儒学古典の注釈で影響力に富んだ彼らの学術成果は現在に至るまで参照されている。畢以珣の『孫子叙録』は、清代の『孫子兵法』研究の代表であり、威海地区の軍事理論の発展を大きく後押しした。威海地区の学者らは知識を後代に伝え、現代では湯炳正や張政烺などの著名な研究者がいる。『楚辞』研究や『周易』研究、甲骨文研究、上古史研究などでの彼らの研究成果は国内外で参照され、幅広く評価されている。学術成果の伝承は、郷賢文化の生き生きとした営みの一つと言える。
威海地区は、郷賢文化の重要な一部をなす優秀な学者を輩出しただけでなく、多くの有能な官吏も輩出してきた。(清代の)順治5年(1648)に抜貢として陜西郃陽県知県に任じられた戚崇進(その後、淮安府知府に昇進)、副貢として揚州府通判に任じられた阮述芳、順治11年(1654)に威海衛守備に任じられた保定の武進士・郭文秀らがいる。郭文秀は、威海の儒学建設を重視し、その志を最後まで貫いた。康熙13年(1674)には、浙江山陰(現在の紹興)の武進士・李標が威海衛守備に任じられた。李標は就任後の9年間、人々に貢献する数々の事業を行った。飢餓に苦しんだ人々を集めて荒れ地を開墾して耕せるようにし、耕牛と種子を与え、困窮に備えた食糧を蓄える「社倉」を設け、災害に遭った人々を助けた。また「郷約」を配布し、社会秩序を改善し、軍民を徴用して城壁を修繕し、「義学」を興し、「薬局」を設けた。有能で善良なこれらの官吏の人々に尽くす精神は、現在の政府機関の仕事の仕方の変革にヒントを与え、社会進歩の推進に寄与する意義を持っている。郷賢文化の理解を深め、賢人らの思想の核を取り出し、その統治観念と修身の思想を政府機関の仕事に反映させ、中央・省級・市級の各レベルの宣伝活動に生き生きとした道徳模範を与えることが重要である。
第三に、威海の歴史文化は長らく他の省市に知られず、現地人でさえ古代から現在までのその歴史の発展をよく知らない。こうした状況が現れた背景としてはまず、辺鄙で中心部から離れているという地理的な原因が挙げられる。第二に、外向型の経済都市である威海が、日韓に向かって経済発展していく中で、国内外の両方を重視するバランスの取れた発展をして来なかったことが挙げられる。
威海が歴史的に形成してきた素晴らしい伝統文化はこのように、断片化や偏向などの問題に直面している。威海の歴史文化のさらなる継承と革新は、こうした問題によって制約されている。その対外宣伝は、表面だけをなぞった千篇一律なものに陥りがちである。威海の歴史文化には依然として、まだまだ掘り起こすことのできる余地が多くある。中韓自由貿易区という経済的な背景の下、現地に古くから伝わる文献をさらに掘り起こし、威海の歴史文化の宣伝や研究に取り組み、威海の経済の持続的な発展を後押しすることは、威海に課された歴史的な要求であり、宣伝・人文分野の従事者の負わなければならない責任である。筆者は次回、これらの問題をいかに解決するかの対応策を提案する。