【17-10】建窯
2017年 3月28日 文/川田大介(アジア太平洋観光社) 写真/馮 学敏
曜変天目茶碗の故郷
蘇ろうとしている太古の業
「茶碗」というと、現在の日本ではご飯を入れる「ご飯茶碗」を思い浮かべるのが一般的かもしれない。しかし、茶碗というのは元々、お茶を飲むための碗だった。室町時代の記述に、茶を飲む道具の種類として「茶碗」の他に「土ノ物」という記述がされている。それ以前は、茶碗は「磁器」のみとされていたが、この頃から磁器以外も茶碗として認識されるようになったようだ。煎茶愛好家や、茶道家にとって、茶碗はやはり重要な道具だろう。
日常でお茶を飲む為にこのような茶碗を使う人は少ないかもしれないが、小さい茶碗や湯飲みを、今でも多くの人が使っているだろう。
高級な茶碗や茶器等は、鑑定番組に出てくるお宝のイメージが強いかもしれない。特に有名な茶碗の一つが、国宝でもある「曜変天目茶碗」ではないだろうか。曜変天目茶碗とは、まるで宇宙がその中にあるかのような、妖艶な模様が浮かび上がっている茶碗で、未だにどうやって作る事ができたのか、最近まで正確な答えをもっている人はいなかった。世界でも現存するのはたった4個だけで、その全てが日本にあり、内3個が国宝になっていて、一つが重要文化財になっている。
曜変天目茶碗が、どこで作られたかご存知だろうか。この茶碗は、南宋時代に福建省南平市建陽にあった「建窯」にて、少しの期間だけ作られ、それ以降焼かれる事はなかったのだそうだ。中国に現存するものが無く、全て日本にあった事もあり、長い期間その技術の研究が進んでいなかったのだが、最近になってようやく、曜変の糸口が見つかり、急激に天目茶碗の表情を増す事ができるようになってきた。「建窯」で作られていた天目茶碗は、先述した「曜変天目」が最上のものとされ、「油滴天目」「灰被天目」「禾目天目」と、様々な天目茶碗が製作されていた。
写真1 明朝時代の建盞窯遺跡
写真2 現代の電力窯
天目茶碗は白磁や青磁とは明らかに趣が違う。天目茶碗は、比較的製作方法が簡単だった為に、日用品として各地の窯で焼かれていた黒磁という陶器がルーツなのだ。黒磁というのが、先述した「土ノ物」だと考えられている。
黒磁とは、鉄分を含んだ釉を、素焼きした陶器の上に釉掛けして焼く事で、釉に含まれる長石(天然の鉱石を光に当てるとキラキラする、ガラスみたいな部分)が焼成時に溶け出し、鉄分が熱による化学変化を起こす事で、色付けがされる。
少し違うがわかりやすく言うと、料理をステンレス鍋で作る時、鍋底が時々虹色になってしまう事があるだろう。あれに似た原理で、釉が食材、陶器が鍋、コンロの火が窯の熱、のようなイメージで色付けがされるのだ。
温故知新という言葉を知っているか?
日本にいると現代中国は、様々な伝統や素晴らしい文化を簡単に捨て、壊していっているかに思えてしまう。だが、実際の中国は違うと思う。僕は元々中国マニアではなかったし、むしろ日本製信望者に近かった。
しかし、最近の中国を色々まわらせて頂き、様々な人達の話を聞き、やっている事を見ていると、おいおい、日本は何でこれが出来ないんだよ。と、悔しくなってしまう時が度々あるのだ。
今回僕自身は、建窯を訪れる事が出来なかったが、ここで産み出された天目茶碗を、福建省の各地で見る事が出来た。正直、僕は茶碗には興味が無かった。そんな僕でも「この茶碗良い! 欲しい!!」と言わせてしまう程のモノを彼らは産み出している。一度は消えたかに思えた技術も、長い年月をかけ、様々な人に知識を受け継ぎながら蘇らせている。
写真3 世界遺産の建盞(油滴天目茶碗)まるで花弁の中に零れ落ちる雨粒のような模様が特徴だ。曜変の技術が蘇った事で、この模様の輝きも増している。
中国で成功した人達が、次に何をしようとしているか知っているだろうか。不動産や株、投資で一財産を作った人達が今、やるべき事が何だと思っているか知っているだろうか。
かつて建窯があったような場所は、日本では重要文化財として保全される。もちろんそれは、中国だって同じだ。けど、彼らはこの建窯を蘇らせようとしている。宋時代に作られた建窯を、現代の職人達が使う事が出来るようにしようとしているのだ。
写真4 建盞(けんさん)(天目茶碗)
その為に彼らは、何とかこのプロジェクトを形に出来ないか国の役人達とも協議を重ねている。こういう事は、金があれば出来るというわけではない。今の中国をバブル時の日本に重ねる人は多いと思う。しかし、バブル時の日本で成功した人達は、こんな事をしようとしていただろうか。僕にはわからないが、もしかしたらそんな人はいなかったのではないか。
これが、本当の現代中国の話。これからの中国は、蘇った伝統と未来の技術が共にある世界になっていくのかもしれない。
※本稿は川田大介「建窯」(『CKRM』Vol.04, 2016年7月, pp.46-49)を転載したものである。