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【17-11】長崎県と福建省 古い媽祖像から「境界人ノ世界」を想う

2017年 4月14日 文・写真 川田大介(アジア太平洋観光社)

 僕が「境界人ノ世界」だったと考えるエリアには、必ずと言っていいほど「媽祖」様が祀られている。正直僕は今回の特集をやる事になるまで、媽祖様の事を大して知らなかった。

 僕は神奈川県川崎市生まれなのだが、お隣の横浜市にある横浜中華街の中にも媽祖廟はある。横浜中華街といえば華僑が作った街として有名な場所だが、華僑にとって媽祖様がどれほど重要なのか、この時はさほど気にしてはいなかった。

 媽祖様というのは9世紀に実在した女性と伝えられていて、日本では日本武尊の妃であった弟橘媛を祀る信仰と共に広がったと一部では考えられている。中国では海の守り神として尊ばれている道教の神だが、媽祖様としてこの神様を認識していた日本人はどれほどいるのだろう。そんな疑問を持ちながら平戸に辿りついた僕は、川内町にある鄭成功記念館で、17世紀初頭に鄭芝龍が作らせたと伝えられている媽祖像(写真1)に出会った。これは横浜中華街にある媽祖廟の像とも、台湾の資料やよく宣伝にも使われる巨大な像ともずいぶん違う姿だな。というのが率直な感想で、どこか古い閻魔像のようにも感じる佇まい。

写真1

写真1 媽祖像(17世紀初頭) 鄭成功記念館(長崎県平戸市)所蔵。わりと小ぶりな媽祖像。鄭成功が産まれた年に鄭芝龍が職人に作らせたと伝えられている。元々は鄭成功記念館の裏にある宮の中に、観音菩薩と共に祀られていたそうだ。

 しかし、その表情は女性特有の奥床しさを秘めている媽祖様に、僕は不思議と心が奪われた。後述する福建省長楽市で見つかった地下宮殿には、15世紀の始まりに現代の福建省からケニアまでの海路を見つけ、大航海時代の始まりを作ったとも言われる「鄭和」像が媽祖像(写真2)と共に祀られていた。本来撮影禁止の像を無理言って撮らせてもらったのだが、暗い地下宮殿では気づかなかった事があった。日本に帰国して写真を整理していて気づいたのだが、12世紀初頭に建立されたと考えられていて、その後の地盤沈下で土の中に沈んだとされる宮の中で、何百年も眠っていた媽祖像がその手に握っていたのは、白地に赤丸の「日の丸」だったのだ。

写真2

写真2 媽祖像(12世紀初頭) 顕應宮(福建省長楽市)所蔵。1992年6月、工事中偶然発見された顕應宮(蝴蝶宮)に祀られていた媽祖像。顕應宮は1138年に建立された宮だが、地盤地下により数百年土の中に埋もれていた。隣には鄭和像が祀られている。

王直が居た場所 歴史の影に隠れる微かな光明

 「倭寇」を調べ出すとおそらく最初にぶつかる人物、それは後期倭寇で倭寇王とまで呼ばれるようになった「王直」だろう。長崎県平戸市では、王直にまつわる資料や史跡を数件見つける事ができた。

写真3

写真3 王直像。松浦史料博物館へと続く歴史の道の最後にある。

 王直が活動していた16世紀中旬、この平戸の地は「西の都」と呼ばれるほどの賑わいだったという。博多のとある名家に残っていた日記には「最近の男は平戸で船に乗りたがり、女は丸山で働きたがる為、召使いを雇う事が難しい」というボヤきが記されている事からも、当時の平戸の賑わいは容易に想像できるだろう。

 倭寇が乗っていた船は「八幡船」と呼ばれているのだが、それは彼らが掲げていた「八幡大菩薩」の旗から来ているそうだ。八幡大菩薩とは当時「八幡神」と「応神天皇」が習合され、日本の色を帯びた仏教守護の神になったという認識ではなかっただろうか。

 八幡大菩薩の旗と、松浦藩の紋を掲げた船団を率いた海洋商人・王直。彼が媽祖様を祀っていたかはわからないが、キリスト教の洗礼を受けていたという文献はある。当時の人達、特に広大な海を自然の風と潮の流れに従って渡る必要があった海洋商人にとって、信仰というのはとても重要だっただろう。八幡船には、言葉や文化の違う様々な人が乗船していたという。

 相手の信心を否定せず、自らの信心を押し付ける事もなく、共に祈りを捧げる「境界人ノ世界」の住人達。当時の状況を考えると、そう想像するのは自然な事ではないだろうか。

長崎県平戸市川内町 アジアの英雄が産まれたとされる場所

 王直亡き後「境界人ノ世界」の形は少し様相を変えていたようだ。17世紀初頭、新たにこのネットワークを再構築し、より強固な形にする事が出来たのが、福建省南安市出身の海洋商人「鄭芝龍」だろう。

 鄭芝龍は王直が根拠地としていた平戸にある川内という町で一人の女性と出会い、そこで暫く生活を共にしている。その女性こそ、明時代や中華民国時代の鄭氏家系図に「翁氏(日本人)」として記録されている「田川マツ」だ。

 田川マツは松浦藩藩士の「田川七左衛門」の娘として生まれた。七左衛門は「宮本武蔵」が晩年熊本にて完成させた「二天一流」の使い手だったといわれ、これを鄭芝龍が学び、部下に伝えた事から倭寇は二本の刀を使うようになったという逸話まである。

 鄭芝龍が田川マツと結ばれ、彼女が潮干狩りをしている最中に産気づき、巨石(写真下)にもたれかかり産み落とした赤ん坊。それが、アジアの英雄「鄭成功」幼名「福松」なのだと伝えられている。鄭芝龍一家が住んでいたとされる場所には現在「鄭成功記念館」として鄭成功生家の復元がされている。興味がある方は是非自身で調べてもらいたいが、想像での復元はとても難しいので、各々意見は違うと思う。

写真4

写真4 鄭成功児誕石

 ただ、この家の横に立っている木の樹齢は専門家が言うには約400年であるという事から、川内町で古くから伝えられていた通り、鄭成功が植えた木というのは信憑性が高いだろう。鄭成功が産まれた時に鄭芝龍が作らせて祀ったとされる媽祖像も、この鄭成功記念館の中に大切に保管されている。

王直の地盤を引き継いだ、福建商人鄭芝龍

 鄭芝龍もまた、王直同様にキリスト教の洗礼を受けたとする文献が残っている。平戸での取材を終え、鄭芝龍が産まれたとされる南安市に行く前に、僕達は鄭成功が7才の時に移り住んだとされる泉州市に向かう事にした。

 ここには、約2㎞にも及ぶ宋時代の石橋、安平橋が残っている。この橋の復旧に鄭芝龍は私費を投じ、この橋の側で田川マツと鄭成功と共に暮らしていたと伝えられている。とは言っても鄭芝龍は海洋商人。その家で常にこの家族と共にいれた訳ではないだろう。

 この時期の鄭芝龍は明朝の海の権力の全てを手中に収めていた頃だ。倭寇とも呼ばれ、海洋商人としてのし上がり、国境を越えて様々な人達と繋がり、いつしか鄭芝龍は国の一翼を担う存在にまでなっていたのだ。次期皇帝である唐王(隆武帝)を擁護し、息子である鄭成功が国姓である朱姓を賜る事になったのも、鄭芝龍なくしては考えられないだろう。

 しかし、百戦錬磨の鄭芝龍をもってしても防げない事態が起きた。それが、満州族の侵攻だ。後に清朝を打ち建てる事になる満州族の猛進に、商人としての機知に富んでいた鄭芝龍が、満州族の側につこうと考えたとして、それを義にかける行為と断定するのは、いささか乱暴ではないだろうか。僕がそう考えたのは、息子である鄭成功に対して説得を数回試みたという記述を見つけたからだ。

 鄭芝龍とは、混沌とした時代に産まれ、商人として生きていく中で、無二の親友や自身よりも大切にしていた仲間に、時には少しの利益の為に、時にはくだらない面子の為に、裏切られ、騙され、人生に悲観する事があったとしても、諦めず何度も立ち上がり、戦い続けた人物だったのではないだろうか。人生の途中、異国の地で愛した女性との間で授かった子供を、彼が特別視したのも無理がないのかもしれない。もしかしたら彼は、国境のない世界に憧れ、この子にその夢を託したかったのかもしれない。その為に彼は鄭成功に優れた教育を与え、自分のような苦難な道を歩ませたくないと考えていたのではないだろうか。

 こう考えてしまうのは、きっとそういう生き方をしてきた親の性なのだろう。ただきっと、そんな父親の考えを理解するには膨大な時間と経験が必要だったと思う。様々な経験を経て、当時の過ちに気付く事なんて誰にだってあるだろう。当時の鄭成功が、それに気付く為の時間があったとは思えない。優れた教育を受けていた彼にとって、経験則で動いていた父親の行動は、ただの義にかけた醜い行動に見えたのかもしれない。

 アジアの英雄として広く知られ、多くの人に義侠心溢れる英雄として慕われる鄭成功だが、こと鄭芝龍の生き様に視点を移すと僕は、この時期の鄭成功は、優秀で理想や志は高いが、まだ社会の荒波を知らない若者のような時期だったのかもしれないと思えた。

アジアの英雄となった鄭成功の母、田川マツ

 安平橋の側にあった邸宅に火をつけ、田川マツは自害したと伝えられている。満州族に襲われた恥ずかしめに耐えられずとか、世話になった明朝を裏切った夫を責める為だとか、総じて日本女性の気概を見せつけたと言われているが、その真意は誰にもわからない。

 しかし、この時の鄭成功の気持ちだったら多くの人は想像できるだろう。母親が死んだのは父親のせいだ、父親を絶対に許さない。そう彼は思ったのではないだろうか。母親が父親の行いにより死んだのだ。恨むなというのは無理がある。

 この時、鄭芝龍と鄭成功の確執は決定的なものになったのだろう。鄭成功の義侠心も手伝い、反清復明の誓いのもと、戦い抜く事を決めたのではないだろうか。ここから、オランダ東インド会社から台湾を解放し、台湾に初めての漢民族による政権を樹立させるまで、彼は壮絶な戦場にその身を沈めて行く事になる。37才という若さで逝った彼の人生がいつまでも語り継がれるのは、彼の負った悲しみと、その特異な境遇に比例したものなのかもしれない。

 中国で産まれた父と、日本で産まれた母、その二人の間に産まれた鄭成功の事を、日本で産まれた僕は今まで全く知らなかった。「国姓爺合戦」と言えばわかる人もいるようだが、日本の若い世代にわかる人はいるのだろうか。台湾や福建省、マレーシアでは多くの人が鄭成功を神として崇め、その物語は今も大切に語り継がれているという。

 もちろん、彼が中国と日本のダブルであるという事も伝えられている。その鄭成功が産まれたのは長崎県の平戸で、彼は7才までこの地で暮らしていたという。三つ子の魂百迄という位、幼児体験というのは重要なものだ。

 しかし、だからと言って鄭成功の考えや行動原理は日本的である、というのは無茶な考えだと思う。当時の平戸には様々な国の人達が訪れ、彼は赤ん坊の頃から様々な文化の融和した場所で育ってきたのだ。彼にとって多様性とは、自然な事であったのだ。

 南安にある鄭成功廟で見た光景を僕は忘れる事はないだろう。その祭壇の最上段には、国姓爺ノ母として田川マツの像が祀られ、その後ろには巨大な鄭成功の像がある。祭壇には絶える事なく現地の人達が訪れ、熱心にそれぞれの願いを捧げている。これこそ、民族融和の象徴的光景なのではないだろうか。

写真5

写真5 鄭芝龍が生まれた地域として伝えられる、南安市石井にある鄭成功廟。
この祭壇の上段に、国姓爺ノ母として田川マツの像が祀られている。

写真6

写真6 鄭成功廟の内部。取材日は平日の昼間だったというのに、
多くの人が祈りを捧げている様子に、自然と目頭が熱くなった。

 媽祖様もそうだが、僕達はそろそろ「境界人ノ世界」に目を向ける時なのかもしれない。国境と国境の狭間で産まれた文化伝統は、様々な文化を融和する事に成功し、多様性にも寛容な海洋商人、華僑を産み出す土壌にもなったのだから。


※本稿は川田大介「長崎県と福建省 古い媽祖像から「境界人ノ世界」を想う」(『CKRM』Vol.04, 2016年7月, pp.10-21)を転載したものである。