【17-17】江戸「蝦夷錦」と清代の中日辺境貿易
2017年10月16日
安琪(AN Qi):上海交通大学人文学院 講師
2001.9--2005.6 四川大学中文系 学士
2005.9--2007.6 ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)歴史系
東洋歴史専攻 修士課程修了
2008.9--2011.6 四川大学文学・メディア学院 中文系
文化人類学専攻 博士コース
2010.9--2011.8 ケンブリッジ大学モンゴル中央アジア研究所(MIASU, University of Cambridge) 中英博士共同育成プログラム 博士号取得
2011.8--2013.11 復旦大学中文系 ポスドク
現在 上海交通大学人文学院の講師として勤務
国立民族学博物館と国立歴史民俗博物館と北海道博物館との共同による「夷酋列像:蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界」と題された特別展が2015年4月から12月にかけて開催され、フランス・ブザンソン美術考古博物館(Musée des Beaux-Arts et d'archéologie de Besançon)所蔵の11枚の蠣崎波響「夷酋列像」と「夷酋列像序」の写本が展示された[1]。江戸時代から伝わる多くの「蝦夷絵」画像の中で、「夷酋列像」の存在意義は非常に大きく、絵の形成背景にも伝記的な要素が色濃い。寛政元年(1789年)に松前藩で「蝦夷」が和人商人団に反抗する民族衝突が起こった。「寛政蝦夷の乱」(クナシリ・メナシの蜂起)として知られる歴史上のこの戦いは、松前藩主・松前道広の率いる兵によって平定された。道広は翌年、弟でもある家臣の蠣崎波響(1763-1826)に命じ、明の陳洪綬「凌煙功臣画像二十四傑」を真似た12枚からなる「夷酋列像」を描かせた。この絵は、反乱の平定を助けた「蝦夷」の酋長を画像に遺すものとなった[2]。絵は完成後、松前藩藩邸に底本が残され、副本は佐々木長秀に委託されて京都に送られ、光格天皇の閲覧を得ることとなった。「天覧」によって絵の価値は途端に倍加し、19世紀には多くの模写がなされ、江戸時代の「蝦夷絵」の代表となった。
芸術史上において比類ない位置にあるというだけでなく、「夷酋列像」にはさらにもう一つの意義がある。18世紀末東北アジア地域における民族・国境を超えた経済活動が中日露交差地域にもたらした動揺を示し、「蝦夷地」(えぞち)が国際貿易網に飲み込まれる様子を直観的に示すものともなる。その史料としての価値も決して無視できるものではない。
12人の「蝦夷」の酋長は画中、異国的な趣ある多くの物品によって囲まれている。帝政ロシア時代の軍服、フランス・ルイ14世風の革靴、中国揚州式の緞紋錦袍、朝鮮の羊毛の敷物などがある。中でも注目すべきなのは、「蝦夷錦」(えぞにしき)と呼ばれる中国の織物である(図1、2)。徳川幕府の時代に行われたいわゆる「鎖国」政策で、中国と日本の間では、長崎港だけで不定期の銅砿貿易が行われていたにすぎなかった。そのため通常、中日両国の近代の外交・経済関係は日本南部に限られたものと見られてきた。だが実際には、庫頁島(樺太)を円の中心とする黒竜江下流から北海道地区において、中日両国は15世紀から19世紀まで半ば公的な「貢市」(貢賞・市場)の関係を持ち続けていたのである。中間に位置する「蝦夷」は双方向の立場にあり、「場所請負制」の制約から松前藩藩主に貢納・臣服する一方、黒竜江下流と庫頁島の費雅喀(フィヤカ)や赫哲(ホジェン)、鄂倫春(オロチョン)の諸民族が清王朝の朝貢体制に入っていくことで、東北アジアの貢市体系における重要な架け橋としての役割を果たすようになった。「蝦夷錦」はまさにこのような状況において歴史の視野に入る。
図1/図2
図1、図2「夷酋列像」の「麻烏太蝋潔」と「貲吉諾謁」。二人はいずれも蝦夷錦をまとい、テンの毛皮に座っている。
「蝦夷錦」と言われるのは、中国大陸部の「蟒袍」や「錦緞」などの絹織物であり、庫頁の「蝦夷」の手を通じて日本各地に転売されていくことで有名になった。「女真錦」「軽物」「反物」「段物」「巻物」「段切」「拾徳」などの別名がある。日本語文献中の「蝦夷錦」は、平安時代の中原師元が著した『中外抄』が初出と言われる。関白・藤原忠実の康治二年(1143年)八月一日の談話筆録においては、「耶召伊哈奴錦」と呼ばれる絹織物は漢字で「蝦夷錦」と表記している[3]。新井白石『蝦夷志』は、「(庫頁島は)其の産は青玉鵰羽、之れに雑うるに蟒緞文絵綺帛を以てす。即ち是れ漢の物にして、其の従つて来る所は、蓋し韃靼地方と道うのみ」と記す[4]。
図3 蝦夷錦(小玉良貞『蝦夷絵』,児玉アリ蔵)
図4 蝦夷錦 新井白石『蝦夷志』二十四頁(早稲田大学図書館古典籍データベース)より
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_01459/ru04_01459_p0024.jpg
図5 寛政年間のアイヌ風俗
『東京人類学会雑誌』1902年197号(北海道博物館1982年刊行)より
中国江南地区で生産される蝦夷錦がなぜ、中日東北辺境貿易の主要商品となったのだろうか? 物品の流通と伝播は一種の社会関係を示す。蝦夷錦と貂皮を主要な交易物とした国際貿易ネットワークの形成としっかりとした進行は、18世紀の東北アジア地域の貢賞体系に高く依存している。朝貢関係は、「万邦来朝」(万国が朝貢にやって来る)との幻想を形成する。だがその根本的な特徴は商業的属性にあり、貿易往来を土台とした交換システムを維持させるものとなる。空間的には、明代の中日間における商業貿易の通路は、「奴児干都司」の各衛所の駅を結ぶ道に沿って北東に伸びる。東端は、庫頁島(樺太)から南に向かって松前藩所轄地域(現在の北海道)へと到達し、さらに日本の本州地域に入り、南は長崎にまで到達する。多くの民族を経て結ばれ、日本をほとんど一周するこの通路は、明・清代の朝貢体系の東北アジア商業領域における延長である(図6)。
図6 「蝦夷」を中心とした貢賞関係と中日の貿易往来
「蝦夷」は大和政権とかなり複雑な関係にあり、属国として天皇に貢納した時期もあれば、天皇体制が北部を顧みる力がない時にはしばしば逆らった。「蝦夷地」(えぞち)は、日本の中央政府が北方の辺境を制御し、植民と貿易とを進める戦略的要塞であり、軍事的にも経済的にも重要な地位を持っていた(図7)。中国との関係においては、庫頁島の「蝦夷」は、元代から中央の王朝と安定した貢賞関係を築き、東征元帥府の直隷となっていた。明初には衛所を単位とする納貢体系が立てられ、永楽七年(1409年)には特林に「奴儿干都指揮使司」が設置され、庫頁はその統治を受けた。衛所の指導者がその年の貢物を納めるにあたっては、貂皮が常に主要な品となった。明廷は、大陸部で取れる絹の錦緞を与えた。明代の宣徳8年(1433年)の『重建永寧寺碑』には、「十年冬、天子復命内官亦失哈等載至其国。自海西抵奴儿干,及海外苦夷諸民,賜男婦以衣服、器用,給以谷米,宴以酒饌」と、太監の亦失哈が命を受け、「苦夷」地域に行き、貢賞の指導をしたことが書かれている[5]。清朝初期には、「哈拉」(hala)と「噶珊」(gasan)の2級の地方行政機関が、黒竜江の中下流とウスリー川流域、庫頁島の非旗籍の「辺民」を管理し、順治帝からは「編戸貢貂」の法を実行し、毎年「一戸につき貂皮一枚を納める」ことを規定した[6]。
図7 「蝦夷地」の範囲
それぞれの戸に貂を納めさせると同時に、朝廷は、貂を納める人に「烏林」によって応えた。「烏林」は満州語の「ulin」の音訳で、金襴緞子や絹、布など、財産となる布帛を意味する。「烏綾」と表記される場合もある。雍正六年(1728年)以降は、蟒袍と朝服を衣料として下すという形も取られた。貢賞の場所は当初寧古塔で、その後、三姓副都統衙門のあった三姓城(現在の黒竜江省依蘭)へと移された。雍正十年(1732年)から同治十二年(1873年)まで、朝廷は、毎年五月から八月まで専門の賞烏林官を派遣し、黒竜江下流の奇集や徳楞、普禄、莫勒気などの地で臨時衙署「烏綾木城」を設立し、貢貂を受け取り、烏林を下すなどした。庫頁島のさらに南の北海道の「蝦夷」も、庫頁のフィヤカ人とともに清廷に進貢したことがある。清代の曹廷傑は『東三省輿地図説・蝦夷島説』で、「伝聞此島于康熙年間,屡随庫頁島人至三姓下松花江南岸貢貂,受賞烏綾,今入日本」(この島は康熙年間、庫頁島人とともに三姓下の松花江南岸で貢貂し、烏綾を受け取ったとされるが、今は日本に入った)と記述している[7]。貢賞という活動の現実的な根拠は、経済利益の最大化をはかることにあった。「蝦夷」の私商は朝貢の名の下で互市(貿易)を行い、貴重な貂皮と烏林を主に交易した。経済関係が朝貢の本質であったことがわかる。
清代の呉桭臣は『寧古塔紀略』で、康熙年間の三姓地区における貂皮の奉納と烏林の受領のプロセスを詳しく記載している。
「毎歳五月間,此三処人乘査哈船,江行至寧古,南関外泊船進貂。将軍設宴,并出戸部頒賜進貂人袍帽、靴襪、鞓帯、汗巾、扇子等物,各一梱賜之。毎人名下択貂皮一張,元狐全黒者不可多得,一歳不過数張,亦必須進上,余聴彼貨易......其人最喜大紅盤金蟒袍及各色錦片妝緞」(大意:毎年五月には、この三所の人は船に乗って川を寧古まで赴き、南関に船を泊めて貂を受け取る。将軍は宴を設け、貂を納めた者に袍帽や靴襪、鞓帯、汗巾、扇子などを配り、それぞれがこれを賜った。毎人の名義で貂皮一張を択ぶが,元狐の全て黒いものは多く得られず,一年に数張に過ぎず,また必ず皇帝に納めるべきものとなり,残りは聞くに彼等が貿易する......其の人は大紅盤、金蟒袍及び各色の錦片妝緞を最も喜む)[8]
1802年から1808年まで北方四島の調査に参加した間宮林蔵は著書『東韃紀行』で、現地の風俗・儀式を表した複数の画像を収めているが、このうちのデレンの進貢は、嘉慶十三年(1808年)に庫頁島満洲行署を訪れた際に見た貢貂・賞烏林の儀式を描いたものである。
「上官人三人府上に卓子三局を設け是に腰を懸て、其貢物をうけ、諸夷は笠を脱て、地上に跪き低頭する事三次し、終て其貢貂の皮一枚(夷名ホイス筒抜にしたる皮なりハラタ、カーシンタ其他庶夷といへ共皆是なり)を奉る。中官人紹介して上官夷の前に呈す。貢禮終りて後賞賜の物を下し與ふ。其品ハラタに與ふる物は錦一巻(長七尋)カーシンタは純子の如き物四尋、庶夷に至るは木綿四反(下品)櫛、針、鎖、袱紅絹三尺許を下し與ふ。」[9](図8)
図8 間宮林蔵『東韃紀行』における貢賞の場面
間宮林蔵『東韃紀行』第二巻(1811年),函館市中央図書館デジタル資料館より
http://archives.c.fun.ac.jp/fronts/thumbnailChild/reservoir/1810655488
この儀式としての貢賞活動は、1860年に「中露北京条約」が締結され、庫頁島がロシアの帰属となるまで絶えることなく続いた。これは、朝廷と臣属との既定の関係を強めただけでなく、政治的権威による象徴的な庇護を示してもいた。中国大陸部からの彩色緞子や衣料、絹糸、布帛は庫頁島南端の白主土城や宗谷地方に続々と流れ、さらに南進して「蝦夷地」の奥に入り、北海道でとれる鹿や狐、獺の皮との交換に用いられた。このような国境をまたいだ民間商業活動は日本では「山丹貿易」(「山靼貿易」とも表記)[10]と呼ばれる。「山丹」(シャンタ)という語の正しい意義については、学術界においても長らく定説がない。白鳥庫吉は、ツングース語で「拳」を意味し、地形から来た地理的な名称であると考えた[11]。洞富雄らは、「山丹」とは「隣人」[12]を意味すると考えた。複数の「蝦夷絵」に見られる画像を根拠として推論すると、間宮林蔵『東韃紀行』の「山丹行舟図」と阿部喜任『蝦夷行程記』下巻の「山丹人之図」(図9)に描かれた山丹人の姿はいずれも、剃髪して辮髪し、中華の衣冠を身に着けたもので、「山丹」が、庫頁島及び黒竜江下流で毛皮貿易を行うオロチョンやホジェンなどの部族を当時の日本人が呼んだものであることがわかる。
山丹貿易は、清代の東北辺境の貢賞制度の延長である。徳川幕府は鎖国政策を取ったが、本州においても北方の「蝦夷地」を通じて行われていた中日両国の貿易はこの政策の影響をまったく受けなかった。逆に、国境をまたいだこの商品交換は、日本の早期近代国家の段階における対外拡張に初期的な原動力を与えるものとなった。「貢貂・賞烏林」は不等価交換を土台とし、朝廷が下す烏林の価値が貢貂戸の納める貂皮の価値をはるかに超え、中華式の織物は山丹貿易における高価な交換品となった。
図9 「山丹人之図」
阿部喜任『蝦夷行程記』上巻,卅三葉表(早稲田大学図書館古典籍データベース)より
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_03729/ru04_03729_0001/ru04_03729_0001_p0042.jpg
蝦夷錦は、日本市場に入ると広く好評を受け、尽きることのない文化的魅力を示した。北海道と千島列島地区の豪酋の多くは蟒服をまとうことを尊んだ。新井白石『蝦夷志』は、「其の服装は単衣、左衽、窄袖長身、腰に細帯を束ぬ。酋豪は則ち蟒緞や雑絵を裁用する」[13]と記している。16世紀の江戸や京都一帯の歌舞伎の服装や僧侶の袈裟、官吏階層の盛装の和服の多くも、松前商人によって転売された蝦夷錦(「山丹服」とも言う)によって作られていた。松前藩藩府と現地官吏の家内には多くの蝦夷錦が収蔵され、松前藩の歴代藩主が徳川幕府に貢物をする際の必需品ともなった。1789年に「寛政蝦夷蜂起」を平定した後、松前藩藩主は、乱の平定に功をなした12人の酋長に自ら会い、藩府の収蔵した蝦夷錦から数点を選び、酋長らに貸し与えた[14]。会見の終わった後に作られた「夷酋列像」は、異国の錦袍を身にまとい、黒貂皮に座った酋長らを一人ひとり描き出した。服飾は、物質的な媒介であると同時に、観念の物的な表象でもある。「衣冠を賜わす」ことは権力を示すことであり、象徴的な政治的権威を備えることである。蝦夷の酋長らが征服者の賜わした錦袍に身を包んだことは、「服従」という政治的な意思表示にもなる。
[1] 北海道博物館編『夷酋列像:蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界』,札幌:北海道新聞社,2015年。
[2] 菊池勇夫「松前広長『夷酋列像附録』の歴史認識」,『アイヌと松前の政治文化論:境界と民族』,東京:校倉書房,2013年。
[3] 矢島睿「関于蝦夷錦的名称與形態」,『北方文物』1994(3),p.109-114.
[4] 中村和之「蝦夷錦與北方交易」,『博物館研究』2001(3),p.74-77.
[5] 鍾民岩、那森柏、金啓孮「明代奴儿干永寧寺碑記校釈」,『考古学報』1975年第2号。
[6] (清)李桂林編『吉林通志』第28巻「食貨志一」,長春:吉林文史出版社,1986年,p.500。
[7] (清)曹廷傑「東三省輿地図説」,叢佩遠、趙鳴岐編『曹廷傑集』,北京:中華書局,1985年,p.236。
[8](清)呉桭臣『寧古塔紀略』,哈爾濱:黒竜江人民出版社,2014年,p.239-240。
[9] 間宮林蔵『東韃紀行』中「満洲仮府」黒竜江省哲学社会科学研究所訳,北京:商務印書館,1974年,p.13-14。
[10] 児島恭子「18、19世紀におけるカラフトの住民:『サンタン』をめぐって」,北方言語・文化研究会編『民族接触----北の視点から』,東京:六興出版社,1989年,p.35。
[11] 白鳥庫吉「東韃紀行の山丹に就いて」,『白鳥庫吉全集』,東京:岩波書店,1970年。
[12] 洞富雄『山靼貿易とその政治的背景』,東京:新樹社,1973年。
[13] 新井白石『蝦夷志』
[14] 井上研一郎「夷酋列像----痛恨の肖像」,『アイヌの歴史と文化』,東京:創童社,2004年,p.42。