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【18-02】太宰治の女性観をめぐって----1930~40年代を中心に

2018年 5月16日

朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院 副教授

中國山東省聊城市生まれ。
2003.09--2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09--2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09--2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11--2013.03 浙江大学哲学学部 補助研究員
2011.11--2013.03 浙江大学ポストドクター聯誼会 副理事長
2013.03--2014.08 山東大学(威海)文化伝播学院 講師
2014.09--現在 山東大学(威海)文化伝播学院 副教授

序言

 日本にとって1930~40年代は、第二次世界大戦が始まり、終結した時期に当たる。明治維新からこの時期までは、日本の女性の社会的地位は高まっていたものの、最も基本的な公民権さえ持っていなかった。戦後、米国の占領当局が、軍国主義だった日本を平和で民主的な国にするという原則に基づき、日本に対して「五大改革」指令を出した。その第一条が婦人の解放だった。日本の女性の法的地位はこれで根本的に高まった。日本ではこの時期、女性に対する社会の見方がゆっくりと現代化の様相を見せ、女性に求められることも、それまでの良妻賢母から社会参加に転じ、女性の社会的地位も大きく変わり始めている。

 太宰治はその生涯でさまざまなジャンルの作品を遺した。寓話や伝説、歴史、故事のスタイルもあれば、書簡や日記、伝記などもあるし、シェイクスピアや聖書も模倣された。「女性独白体」は太宰の得意の創作手法だった。女性の内心世界を書くことで、太宰はその時代の女性の苦しみと悲しみを表現し、女性の心に深く立ち入った分析と女性の社会的地位への同情を示した。女性の視点から書かれた文章は、実際の内容について太宰が感じ考えたことだったとしても、その中身と具体的な表現は、1930~40年代の日本社会の女性観を知るための手がかりを与える。

 太宰治は、女性独白体のように女性が深くかかわる一連の作品を創作した。太宰治の筆が描いた女性には、『人間失格』の淫売婦もいれば『お伽草紙』の「カチカチ山」で女性の嫉妬を代表した兔もいるし、日本の伝統的な妻と言える「おさん」もいた。日本社会の1930~40年代の女性観を知るため、筆者は太宰治作品から、3つの代表的な女性のイメージを取り出した。『斜陽』に出てくる母親のような伝統的女性、娘の和子を代表とする現代女性、『ヴィヨンの妻』のような現代と伝統の間でもがく女性である。

 この3種の典型的イメージからは、1930~40年代の日本人女性の生存状況と社会的地位の変化を知ることができる。『斜陽』の母親は、没落貴族の代表で、現状を変えようとはせず流れのままに従い、軟弱で人にされるがままになっている。この母親の娘で、太宰治の愛人の太田静子を原型とした和子は、古い道徳の束縛を破ることができる自立した強い女性である。『ヴィヨンの妻』の妻は、その二者の間に位置し、伝統的な女性の弱さを持ちつつも、夫の圧力の下で社会に向かって歩んでいく。彼女は、社会に入るための努力をすると同時に、自らの伝統的な家庭の維持にも努めなければならない。これら3種類の女性のタイプは、日本社会の1930~40年代の女性の縮図となった。西洋の進歩的な思潮の衝撃や旧貴族の没落、女性の自意識の覚醒などを受け、女性に対する社会の見方にも相応の変化が生じた。

 39年の短い生涯だったが、太宰治が日本の文壇に残した記憶は、深刻で忘れ難いものとなった。専門家や学者は通常、太宰の作品をデカダン派として扱う。だが太宰治の文学作品の本当の魅力は、太宰が自らの内心の弱さと絶望に向き合うことができたことにある。太宰治は『人生ノート』収録のエッセイで、「私たちは、(自信のない)その原因をあれこれと指摘し、罪を社会に転嫁するような事も致しません。私たちは、この世紀の姿を、この世紀のままで素直に肯定したいのであります。みんな卑屈であります。みんな日和見主義であります。みんな『臆病な苦労』をしています。けれども、私たちは、それを決定的な汚点だとは、ちっとも思いません。(中略)卑屈の克服からでは無しに、卑屈の素直な肯定の中から、前例の無い見事な花の咲くことを、私は祈念しています」と記している。若者は太宰治の作品を「永遠の青春文学」と呼ぶ。なぜなら太宰の作品にはいつも、大人になることのできない不完全な主人公が登場する。その人物は、生の希望と死の陰鬱に満ちた矛盾だらけの人々を代表した。当時、自らの内心を分析し、人間の罪と悪を明らかにするのは、いかに勇敢で、難しいことだっただろうか。

太宰治の女性観に大きな影響を与えた女性たち

 太宰治は、大地主の家に生まれた。兄弟姉妹は11人。治は両親の6番目の息子で、一番下だった。父は事業に忙しく、母は病弱で、小さい頃から叔母と乳母に世話されて育った。厳粛な父親を畏れ、生母の愛を欠き、貴族的な形式主義に縛られた太宰は、繊細さと敏感さをさらに増していった。このような成長環境は反逆の萌芽を生み、太宰は予測不能なその気質を身につけ、時には傲慢、時には卑屈になりながら、周囲とは違う視点から世界を観察した。

 「母親」探しは、太宰の少年期から成人以降をも貫き、作品にも表現されている。小学校2、3年になってから生母に会った太宰は、生母の愛を欠いた一方で、そのひ弱な体質を受け継ぎ、「家の中の余計者」という意識を生み、孤独感はその魂をさらに脆弱にさせた。これは太宰の「生まれて、すみません」という原罪意識の形成に大きく影響した。太宰は『思ひ出』で、「母に対しても私は親しめなかった」と告白している。もともと親しみを持っていなかった母親だが治に厳しく、「洋服をはぎ取つて了つて私の尻をぴしやぴしやとぶつた」ので「身を切られるやうな恥辱を感じた」と書いている。人はもともと母親になにかを求める。幼年時代に母から遠ざけられ、母の愛を欠いたことで、太宰は創作を通じて完全な母親像を追い求めるようになった。『斜陽』では、登場する母親に「本物の貴族」のイメージを持たせ、子どもの目に映る一挙一動には内側から貴族らしさがにじみ出る。さらにこの母親は性格が控えめで、温かいと同時に賢く、太宰治が渇望していた完璧で優しい母のイメージを備えている。こうした方式で、太宰治は心の中で理想の母親の姿を描き、母親の影を追い、意識の中の欠如感を埋め合わせようとした。

 母の愛を欠いた太宰治は叔母と乳母の世話の下で、女性に対する説明しがたい情感を育んでいくこととなる。形式を重視する貴族家庭に生まれた太宰治は、縛られた生活から無意識に他人を警戒するようになり、同時に心の深くでは相手の情感を求め、愛とりわけ女性の愛を渇望するようになった。『思ひ出』では、叔母は「私」が最も親しみを覚える人で、多くの思い出を持っている。子どもの太宰はわざとおかしな質問をして叔母を笑わせたり、叔母が人にはやされているのを見て口惜しくてたまらなくなったり、叔母が自分を捨てて家を出て行く夢を見て涙を流したりした。叔母の思い出は幼年時に太宰が欠いた母の愛を一定程度補ったが、小学校に上がる頃、太宰は故郷に返され、幼年時に親しかった叔母と別れることになった。太宰はこうして子どもながらに別れの苦しみを味わわせ、その心の成長に一定の打撃と影響を与えた。

 乳母のたけは3歳から8歳まで太宰を教育し、読書に付き添った。その親しい関係を太宰は『津軽』でこのように描いている。「私はその人を、自分の母だと思つてゐるのだ。三十年ちかくも逢はないでゐるのだが、私は、そのひとの顔を忘れない。私の一生は、その人に依つて確定されたといつていいかも知れない」。

 たけがかけてくれた思いは、太宰が欠いた母の愛を一定程度補い、その心の深くの情感の由来となり、太宰治の生涯の精神世界に大きく影響した。たけは太宰が学校に上がる頃に何も言わずに去り、太宰に大きな衝撃を与えた。「たけゐない、たけゐない、と断腸の思ひで泣いて、それから、二、三日、私はしやくり上げてばかりゐた。いまでも、その折の苦しさを、忘れてはゐない」。『津軽』で太宰はその当時の思いをこう書いている。これもまた太宰の心の弱さの大きな原因の一つとなった。

 家庭の束縛や母の愛の欠如、世話をしてくれた叔母とたけの存在と突然の別れは、幼年時代の太宰治をよりいっそう敏感に脆弱にし、太宰を崩壊の縁へと徐々に押しやっていった。幼年時代の経歴はその後の創作に深く影響を与え、女性観形成の根本をなし、女性に対する見方に影響し、その後の人生で悲しい愛の追求に陥るきっかけとなった。その後の生活でも、太宰治はしばしば挫折を経験した。崇拝していた作家の芥川龍之介の自殺は太宰の精神に打撃を与え、左翼運動に参加しても挫折し、淫売婦のもとに出入りするようになった太宰は、さまざまな方法で精神の慰めを求めるが、最後にはその情念と精神はばらばらに砕け散ってしまう。太宰治は39年の短い生涯のうち5回にわたって自殺を試み、そのうち3回は情死だった。「女性」の主題は、太宰治の創作において不可欠で重要な一部となり、その作品に色濃く反映されている。

結語

 文学的な叙述は女性の社会的地位の変化を反映しており、女性の社会的地位の研究に対して文学は重要な役割を果たす。平安時代の紫式部の『源氏物語』から明治時期の樋口一葉の『十三夜』、さらには1990年代の渡辺淳一の『別れぬ理由』まで、当時の日本社会の女性の生存状況を間接的または直接的に照らし出している。太宰治の筆の下でも、1930~40年代の日本の女性の生存状況がまざまざと描き出されている。『斜陽』のしきたりを守る母親と反抗する和子は鮮明な対比をなした。『おさん』に登場するおさんは、日本の伝統的な妻の困難な生存状況を体現した。『ヴィヨンの妻』の妻は、家庭の維持と社会への参加の中で微妙なバランスを取った。日本の1930~40年代の女性は、社会の劇変を前にして、それぞれの生きる道を持っていた。料理屋の夫妻は大谷夫人の良妻ぶりをほめる。当時の日本社会ではまだ伝統的な大和撫子式女性が高く評価されていたことがわかる。当時の日本の女性の社会的身分は家庭の主婦を超え、経済分野や日常の仕事で活躍し始めていた。女性のさまざまな身分に対する日本社会の受容能力も高まり、その後の日本の政治や経済などの面での女性の社会的地位の改革に土台を築いた。和子のような女性は世俗の古い道徳にこだわる犠牲者である。和子の持ち合わせる驚くべき道徳観からは、日本の戦後の人々の混乱した精神状態がうかがわれる。太宰治は『畜犬談』で「芸術家は、もともと弱い者の味方だったはずなんだ(中略)弱者の友なんだ。芸術家にとって、これが出発で、また最高の目的なんだ」と記している。太宰治の女性独白体は、当時の日本社会の女性の精神状態と生存状况を示す最良の方式だった。こうした社会環境の下で書かれた太宰治の女性独白体から、女性の没落やあがき、解放の跡をたどることができるのは当然である。女性の解放という永遠のテーマの下、読者は旧貴族の女性の没落を嘆くと同時に、家庭と社会の間でもがく女性の苦しみに共感し、古い道徳の束縛の中で戦う女性の勇敢さを称賛するのである。


[1] 馬紅娟.戦後日本女性社会地位的変化[J].日本学刊,1996(01):125-136.

[2] 欧宗智『死亡與再生----談太宰治<斜陽>』2011/04/24

[3] 劉金鑫. 透過諺語看日本伝統女性形象[D].遼寧師範大学,2008.

[4] 周楽詩. 辺縁的対位:日本伝統的文学和女性[A]. .東方叢刊(1995年第2号 通し号数第12号)[C].:広西外国文学学会,1995:9.

[5] 謝新華,張寧.日本女性社会地位的相関研究:回顧與反思[J].山東女子学院学報,2011(02):67-71.

[6] 叶渭渠.日本文学潮流史[M].魏大海,侯為,邵程亮,訳.北京:人民文学出版社,2013:0407

[7] 太宰治.斜陽[M]. 周敏珠訳. 長春:吉林出版集団有限責任公司,2009.

[8] 太宰治.維庸之妻[M]. 陳齢訳. 重慶:重慶出版社,2013.

[9] 太宰治.人間失格[M]. 李欣欣,游綉月訳. 瀋陽:万巻出版公司,2010.

[10] 太宰治.津軽[M]. 呉季倫訳. 成都:四川文芸出版社,2017.

[11] 太宰治.晩年[M]. 朱春育訳. 重慶:重慶出版社,2013.