文化の交差点
トップ  > コラム&リポート 文化の交差点 >  【18-03】内藤湖南と『燕山楚水』

【18-03】内藤湖南と『燕山楚水』

2018年 6月 1日

朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院 副教授

中國山東省聊城市生まれ。
2003.09--2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09--2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09--2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11--2013.03 浙江大学哲学学部 補助研究員
2011.11--2013.03 浙江大学ポストドクター聯誼会 副理事長
2013.03--2014.08 山東大学(威海)文化伝播学院 講師
2014.09--現在 山東大学(威海)文化伝播学院 副教授
2016.09-2017.08 早稲田大学文学研究科 客員研究員

 内藤湖南(1866-1934)は本名を虎次郎、字を炳卿、号を湖南と言う。秋田県の出身で、日本の近代中国学の重要な学者であり、中国学京都学派の創始者の一人である。内藤の中国学の研究範囲は非常に幅広く、中国の希少古籍史料の捜索・考証・編集・出版から、中国の歴史発展の時代区分、中国文化の発展の趨勢の論証、中国近代史における重大な事件の分析・論評まで多岐にわたる。さらに中国史学史や美術史、目録学史、敦煌学、満蒙史などの分野でも、卓越した実績を上げた。日本漢学界で内藤湖南は「東洋史の第一人者」との誉れを誇る。

 1899年9月、内藤湖南は初めて中国を訪れた。神戸から出発し、山東半島に到着し、膠東半島や天津、北京、杭州、蘇州、武漢、鎮江などの地を歴訪した。帰国後、内藤湖南はこの旅の見聞録を書き、『燕山楚水』としてまとめた。その記載内容から見ると、この小さな書は、内藤湖南が初めて目的意識をもって中国の資料の収集を試みたものと言える。その後、1902年と1905年、1906年、内藤湖南は大阪朝日新聞社や外務省の委托を受け、繰り返し中国を視察に訪れ、収集した資料と情報を通じて、当時の日本政府に関連資料を提供し、提案を行った。

 内藤湖南はこの旅で、大きな期待を抱いて中国にわたった。船上で内藤は「故国には益(ますま)す隔たり行くなるに、何となく嬉しかりしもをかし」と記している[1]。各地を訪れるごとに、現地の改革の士を訪れ、名所旧跡を参観し、感慨にふけった。山東煙台港に到着した際には、「北欧上古の開化、バルチック海の口なるスカンヂナビヤに萌芽せし如く、支那の開化も、亦(また)渤海湾口より萌芽せし一種あるべしと。斉の鄒衍が天を談ずることの宏遠なるも、此の海上の思想より生じ」たと記している[2]

 内藤は王承伝と会い、当時の中国の問題を話した際、「弊邦三十年来、変法を以て富強の本を立つ、然るに今日より之を観れば、措置失当なる者、亦復少なからず、是れ貴邦志士、宜しく鑑戒すべき所、但だ弊邦人進むに勇にして、守るに拙、貴邦人は之に反す、進む者は之を退け、退く者は之を進む、意(おも)うに貴邦人今日の事、未だ守成を言うに遑(いとま)あらざる耳(のみ)」[3]と発言している。厳復との談話では、国家税収の横領をいかに防止するかとの問題も話し合った。厳復は、こうした問題の解決は官僚の給料を上げることで実現できると指摘した。

 北京視察の際、内藤湖南は、北京城壁内外の詳細な調査を行った。だが視察を深めるうちに、内藤は失望していく。「貴国京中の人士、外国人を見るを喜ばず、淹留十余日、一士を得て相語るに縁なし」[4]。実際に目にした山河は、古代文献中で親しんだ山河とは大きくかけ離れていた。駅では苦力や車夫の無秩序な様子を見て、「支那風のこととて(中略)うるさしなど言語に絶えたり。ウカと荷物を渡して、監視を怠れば、直ちに盗み去らるるが常なりという」[5]と記した。十三陵の参観の際には「外国人と見れば銭を貪り取るべき者と心得たる陵戸と推問答して、而かもしたたかに取られて、壁門をば開かせつ」[6]と記している。張元済と劉学詢と時事を話し合った際には「僕京城を観るに、其の規模の若きは、居然たる大国の首都、若し繕治宜しきを得ば、其の壮観之を泰西諸国の首都に比するも必ずしも相譲らず、但だ僕窃かに其の郊野を観るに、地力已(すで)に索(つ)く」[7]と語った。『燕山楚水』という小冊子は、内藤湖南の極めて矛盾した心模様を映し出していると言えるだろう。中華文化に対する熱烈な憧憬を抱きながら、現実に衝撃を受け、失望している。漢文化圏の衰退を惜しみながら、中華に対して無意識に過度の期待を持っている。

 その後、「満州国」の設立に合わせ、外務省は1933年、対華文化事業部の事業の一環として、いわゆる「満蒙文化事業」を企画した。内藤湖南は、その学術的な名声から、東京帝大と京都帝大が合同で組織した『李朝実録』と『明実録』の中の「満蒙」史料の編纂事業にかかわった。同年には「日満文化協会」が創設され、その理事に就任している。「唐宋変革論」を提唱して学術的な地位を築いたこの漢学家は、この間の不名誉な経歴から、物議をかもす人物となった[8]

 文献に対する詳細な読解と中国本土の実地調査(『燕山楚水』の記載などに見られるように)を土台として、19世紀末から20世紀初め、内藤湖南は、「唐宋変革論」を打ち出した。内藤の著名な歴史区分によると、中国史は、「3つの時代」と「2つの過渡期」に分けられる。前者には、歴史の始まりから後漢中期までの「上古時代」、東晋から唐代中期の「中世時代」、宋以降の「近世時代」が含まれ、後者は、この「3つの時代」の過渡期を指す[9]。内藤は、唐宋の変革または中世から近世への転換は「貴族政治の衰退と独裁の興隆」という点を根拠にすべきだと考えた。貴族政治から君主独裁政治への転換は、どの国でも見られる自然な順序であり、世界史の普遍的な現象と言える。中国は唐宋期、「貴族が勢力を失った結果、君主と人民が近づき、高職に就くにも世襲の特権に頼ることはできなくなり、天子の権力によって決定・任命されるようになり」、「君主は中世には貴族を代表するポジションにいたが、近世になって貴族が没落すると、君主はもはや貴族集団の私有物ではなくなり、臣民と直接向き合う臣民の公有物となった」としている。


[1]『燕山楚水』3ページ(光明日報出版社、1999年9月)

[2]『燕山楚水』5ページ(光明日報出版社、1999年9月)

[3]『燕山楚水』11ページ

[4]『燕山楚水』33ページ

[5]『燕山楚水』7ページ

[6]『燕山楚水』23ページ

[7] 『燕山楚水』33-34ページ

[8] 邢静「燕山楚水:内藤湖南眼中十九世紀末期的中国」参照(『澎湃新聞』コラム「上海書評」2017年5月7日掲載)

[9] 王鴻「内藤湖南何以提出『唐宋変革論』?」(『中華読書報』2016年05月25日9面掲載)