【18-12】泉屋博古館の青銅器の世界
2018年12月7日
安琪(AN Qi):上海交通大学人文学院 講師
2001.9--2005.6 四川大学中文系 学士
2005.9--2007.6 ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)歴史系
東洋歴史専攻 修士課程修了
2008.9--2011.6 四川大学文学・メディア学院 中文系
文化人類学専攻 博士コース
2010.9--2011.8 ケンブリッジ大学モンゴル中央アジア研究所(MIASU, University of Cambridge) 中英博士共同育成プログラム 博士号取得
2011.8--2013.11 復旦大学中文系 ポスドク
現在 上海交通大学人文学院の講師として勤務
中国の商周時代は宗教的な息吹と鬼神の色彩にあふれた時代であった。青銅器は商周時代の重要な物質的遺産として、中国史におけるこのはるか遠い時代の権力と人々の活力の証人となってきた。青銅器は特定の建築物の構成部分であり、宗廟や宮殿、陵墓とともに礼儀の集合体に属する。これらがひとまとまりとして登場し、祖先の魂を祭るための食物や飲物を盛り付けるのに使われることで、人々と神や神霊の橋渡しをする媒介となった。さらに、祭祀用青銅器の使用法における伝統や禁忌、ルールは、商周時代の王室や貴族の礼儀体系の中核をなすものであった。
商周時代以降の長い歴史の中で、祭祀用青銅器は神秘のベールに覆われてきた。なぜなら、日常的に使用される通常の器物と違い、それらは宗廟の奥深くにしまわれたり副葬品として地中に埋められたりしたため、近代に入って考古学研究が始まり、墳墓の考古学的研究が行われるようになって初めて、早期の中国美術史における直接的な証拠品として後人に提供されるようになったからである(図1)。また、商周時代の祭祀用青銅器は歴代収集家や鑑定家の手中を流転してきたため、部外者は容易に目にすることができなかった。
図1 殷墟の婦好墓遺跡から出土した青銅器副葬品[1]
清朝中期から民国時代にかけての約100年にわたる政治的・経済的激動の中で大量の古代文物が海外に流出し、この中には数多くの商周時代の青銅器も含まれていた。そこには副葬品の中から偶然発見されたものや、王室や貴族、名家が衰退し、各地を流転した後に市場に流出した歴代の収蔵品もあった。これらの古代器物は海外の美術品収集団体や収集家がこぞって購入したため、中国を離れ、近代的博物館の収蔵品の一部となった。
近代博物館の登場によって、古代芸術品の収蔵や鑑賞、観覧における伝統は大きく変わることとなった。かつては奥深くに秘蔵され門外不出だった商周時代の青銅器も、陳列ケースに並べられ、一般の人に鑑賞されることによって、その元来の神秘性が徐々に色あせていった。商周時代の青銅器の収蔵と陳列において、中国以外の地域で重要な地位を占めるものとしては、欧米諸国の施設を除くと、日本の私立博物館で京都東山の鹿ヶ谷にある泉屋博古館がある。
泉屋博古館は、日本の四大財団の一つである住友家によって1960年に設立された。泉屋博古館の収蔵品3000点余りのうち最も有名なのは商周時代の青銅器である。住友家は1970年に青銅器専門の展示施設を建設し、青銅器の収蔵品500点余りを一般向けに公開した。
「泉屋」の名は、住友家の屋号に由来する。では、住友家が中国の商周時代の青銅器の収集に熱を上げたのはなぜだろうか。住友家は銅商の豪商として天正18年(1590年)に愛媛県に「泉屋製錬所」を開設し、以後400年余りにわたって「銅」と緊密な関係を保ってきた。その後、住友家の銅鉱開発と銅精錬業は19世紀半ばにやや衰退したが、明治維新以降に再興を果たし、規模も拡大した。泉屋博古館の現在のコレクションのほとんどは再興後に収集されたもので、青銅器に加えて中国の書画、日本の書画、茶道具、香道具、能装束・能面、武器、古代貨幣や西洋絵画も数多く所蔵している。
住友コレクションの中核をなすのは青銅器である。商周時代の祭祀用青銅器166点、漢代・六朝時代の青銅器19点、青銅鏡213点、青銅武器15点、青銅馬具・装備34点を数え、中でも商周時代の祭祀用青銅器は質量ともに最高のものと言える。
住友家の青銅器コレクションに関しては、15代目当主の吉左衛門友純の努力を抜きにしては語れない。住友吉左衛門友純(1865-1926)は東山天皇6世孫で、号を「春翠」と称し、右大臣徳大寺家の出身で幼少時から日本の伝統文化に親しみ、中国の四書五経を熱心に学んだ。明治25年(1893年)に29歳にして養子として住友家に入り、翌年には家業を継いで第15代当主となった。
図2 住友春翠[2]
近代以前に日本に伝えられた中国の文化財は数としては少なくなかったが、厳密には中国の芸術品の主流とは言えなかった。商周時代の青銅器や歴代官窯の瓷器、北宋時代の水墨山水画、北朝時代の仏像などの主流をなす芸術品は、明治時代以降になってようやく日本に大量に伝えられたものである。春翠が成長したのは清末民初の社会的激動と王朝交代の時期に当たったため、彼の青銅器収集事業もこの文物散逸のピークと切り離せない関係にある。
春翠が収集事業の重点を中国の青銅器においたのは住友家が銅業を柱としてきた家業の伝統に由来するが、春翠が煎茶道において大茶人であったことも収集の方向性を決める上で間接的に影響しているだろう。煎茶文化は江戸時代中期から盛んになったが、当時の考え方では、茶葉や水の品質に加え、茶器が茶道の品格を決める重要な要素であった。日本は茶器の種類が多く、鉄器、陶器、漆器、竹器、木器、金器などがあったが、一般的に上流階級が開く茶会では茶席に加えて鑑賞の席が設けられ、書画や陶瓷器、芸術品などが並べられて多くの骨董商や美術品の仲買人が訪れたため、器物の流動や交換を後押しする場となった。
若かりし頃の春翠は狩野宗樸や中川魚梁らに茶道を学び、またたく間に煎茶道の中心的人物に成長した。彼は大阪と京都の両地に好日庵、漱芳庵、知足斎等の本邸・別邸の茶室を建て、大小の茶会を開き、商周時代の青銅器は、当初煎茶席の装飾品や実用器具として住友コレクションに加えられた。富田昇によれば、当時、煎茶人は最も有力な中国美術の信仰者と要望者であり、日本でわずかに輪郭を表し始めた中国の正統美術に対する最も初期の鑑賞者でもあった。[3]
伝記『住友春翠』によれば、明治29年(1896年)、春翠は彼の中国古代銅器コレクションの1点目として西周時代早期の「饕餮文銅觚」を購入し、煎茶会で花瓶として使用した。この時期の彼のコレクションはいずれもこの種の小型の器で、卣、簋、觚、盉などの小さくて精美な青銅器は煎茶道の作法で必須の水指として使用された。
その後、明治35年(1902年)になると、彼のコレクションの嗜好にも変化が訪れる。この年、春翠は青銅器16点を購入したが、いずれも比較的大型の尊、敦、鼎、鍾、爵で、これにより彼のコレクションは商周時代の青銅器の主な器形を網羅することとなった。そして、同年12月に開かれた茶会「十八会」でこれらの大型コレクションが披露されると、参加した文人雅士を驚かせた。伝記『住友春翠』によれば、「一同が目を見張ったのは古銅器や古鏡が陳列された部屋(陳列室)であった。彝、甑、鼎、卣、尊、壷など18点の器物が棚に並べられ、13点の鏡鑑が紫檀の卓上に置かれていた......これほど多くの逸品は、誰も目にしたことがなかった」。[4]
1903年は春翠の青銅器コレクションのピークにあたる。世界を震撼させた義和団事件が終わって間もないこの頃、中国北方地区の貴族の名門や上流階級が動乱の余波を受け、歴代にわたり所蔵していた大量の文物が市場に流通し、故国やかつての持ち主の手から引き離された。骨董商が中日両国の間を絶え間なく往来し、陳介祺や盛昱、端方ら清代末期の大収集家の所蔵品(青銅器、碑帖、書画など)が日本の収集家によって購入され始めた。ちょうどこの年に春翠は商周時代の青銅器12点を一気に買い付けた。いずれもまさに名品中の名品で、泉屋博古館の代表的所蔵品と自らも認める夔神鼓と虎卣に加え、鳳形斝、象文兕觥、犧首方尊などがある。なかでも造形に神秘さと奇抜さのある虎卣(図3)は、光緒年間に湖南省寧郷で出土し、以前は清代末期の高官であった盛昱の家に所蔵されていた。1899年に彼が逝去すると、1903年に当時の日本円4000円の値段で藤田弥助から春翠に売り渡されたという。
図3 虎卣[5]
3年という短い期間に、春翠の中国青銅器コレクションの目的は実用から鑑賞へと変化し、煎茶道のための小型で精巧な器物にとどまらず、器物の系統性や完全性にも関心を払うようになった。このことは、春翠の収集意識に重要な飛躍が現れたことを意味する。その後数年間、春翠は毎年のように青銅器を購入した。1917年には山東省濰県から清代末期の大収集家であった陳介祺の個人所蔵品を買い付けた。これには有名な大型青銅器「■(ヒョウ、がんだれに馬3つ)氏編鐘」が含まれる上に、鬲、罍、匜、盤など、それまでは軽視されていた大型の器物も付け加えられ、泉屋博古館の青銅器コレクションの全体的な枠組みが完成されることとなった[6]。
住友家は中国青銅器の収集のみならず、収蔵品の公開にも力を入れた。1903年には東京帝室博物館の古銅器展覧会で春翠のコレクションから青銅器22点が展示された。1911年以降、春翠はこれらの至宝を世界に公開する方法を積極的に計画し始める。1911年から1934年にかけて、春翠は巨額をはたいて精美かつ豪華なコロタイプ印刷による図録『泉屋清賞』を出版した。これには、『泉屋清賞·古銅器類』3冊、『増訂泉屋清賞』5冊、『泉屋清賞別集·陳氏十種』1冊、『刪訂泉屋清賞』1冊(図5)が含まれる。春翠は図録全体の質を保証するために東京大学の瀧精一と京都大学の内藤湖南を招いて編集作業を担当させ、京都大学の濱田耕作に古銅器の装飾文様や造型に関する解説の執筆を依頼した。また、印刷を国華社に依頼し、最新式のコロタイプ印刷技術を採用して刊行した。こうして、一流の学者による編集や解説に加え、一流の印制技術を使うことによって、『泉屋清賞』は当時の中国青銅芸術の最高の図録としてふさわしいものとなった。
図5 『泉屋清賞』古銅器類之三[7]
商周時代の青銅器がこのような激動の時代に骨董商の手によって日本に転売されたことは、痛ましく、いかんともしがたいことであったことは疑いようもない。しかし、民族主義という狭い了見を超え、グローバルな視野からこの文化財離散の歴史を回顧するなら、春翠が商周時代の青銅器を収集し、広めたことによって、客観的にはこの古い歴史ある祭祀用青銅器が世界に広く知られるようになり、各国の芸術史家に重視されるようになったと言えよう。
第一に、泉屋博古館の青銅器コレクションとその展示によって、中国の青銅器に対する日本の規定概念に変化が生じた。「わびさび」の美学に慣れた近代の日本人にとって、商周時代の青銅器は視覚的インパクトが強過ぎたかもしれない。巨大で重厚な器身上に恐ろしさを誇張した装飾文様が一面に配置され、饕餮は両の眼をかっと見開き、猛虎は口を開いて人を食し、四肢不全の奴隷が暗く不気味な門を守っている。このように強烈な美学的効果が、細やかで自然に寄りそう審美的感覚を持つ日本ですぐに受け入れられるようになるのは極めて難しいことだが、春翠はその生涯において、このような舶来美学の普及に大きく貢献した。
第二に、欧米の大型博物館との交流や協力を通じて、春翠は商周時代の青銅器を西洋にも広めた。1906年から1909年にかけてフランスのルーブル美術館やアメリカのボストン美術館のトップが日本を訪れた際に、春翠は芸術史家のチャールズ. L. フリアー(Charles Freer)一行を自宅に招待して所蔵品の青銅器を披露した。大収集家のジョージ・ユーモルフォプロス(George Eumorfopoulos)は1929年の回顧録で、第一次世界大戦前のヨーロッパでは中国の青銅器収集に対する関心は薄く、収集家の中には本物と後に造られた偽造品との区別さえつかない者もいたことに触れた。しかし、春翠の『泉屋清賞』によって、ユーモルフォプロスを代表とする多くの東洋芸術品収集家が触発され、第一次世界大戦終了後は中国の青銅器の鑑賞や分類、系統的研究が欧米でも徐々に拡大し、発展するようになった。[8]
春翠による泉屋博古館の青銅器コレクションの歴史を見ることによって、日本の明治時代における文化財収集観が「実用」から「鑑賞」へと移行したことが明らかになったことは、近代日本社会における中国歴史文物の受容の縮図であると言えよう。
[1] 写真出典:https://mp.weixin.qq.com/s/dTEbj7hFrfx2BeoOqCGsNw
[2] 写真出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/405.html?cat=98
[3] 富田昇:『近代日本的中国芸術品流転与鑑賞』趙秀敏訳、上海:上海書画出版社、2014年、第五章、p.212。
[4] 同上、第五章、p.228。
[5] 写真出典:田島志一 編『支那古銅器集』審美書院、1910年(国立国会図書館デジタルコレクションより)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/854145
[6] 汪瑩「泉屋吉金住友春翠與泉屋博古館的中国青銅器」『紫禁城』、2014年第9期、第135-148頁。
[7] 写真出典:三野摂平 編『泉屋清賞』古銅器類3、住友家1915年(国立国会図書館デジタルコレクションより)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1015888
[8] 富田前掲書、第五章、p.212。