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【19-04】近代中日銅版画美術の出現、発展と衝突

2019年2月20日

安琪

安琪(AN Qi):上海交通大学人文学院 講師

2001.9--2005.6 四川大学中文系 学士
2005.9--2007.6 ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)歴史系
東洋歴史専攻 修士課程修了
2008.9--2011.6 四川大学文学・メディア学院 中文系
文化人類学専攻 博士コース
2010.9--2011.8 ケンブリッジ大学モンゴル中央アジア研究所(MIASU, University of Cambridge) 中英博士共同育成プログラム 博士号取得
2011.8--2013.11 復旦大学中文系 ポスドク
現在上海交通大学人文学院の講師として勤務

 銅版画(engraving and etching copper plate painting)は14世紀のヨーロッパを起源とし、ルネサンス早期にイタリアとドイツの彫刻職人が金属製の器に装飾的な図案や紋様を彫刻したのが始まりであった。16世紀初めになると、オランダの画家が銅版画の凹版図案制作技術をベースに腐食銅版画(エッチング)技術を確立し、凹版印刷の製版技術を発展させたことによってヨーロッパの印刷業は大いなる進歩を遂げた。この技術の基本原理は、平滑な金属板(亜鉛板または銅板)の表面に彫刻刀で装飾文様を彫り、その金属板を硝酸水溶液に入れて腐食させるものであり、彫刻部分が腐食することによって陥没面や文様が形成される。そして印刷の際にはこれらの陥没した腐食部分に流し込まれたインクが押し出されることによって、凹凸文様が紙に写し出される。このような技法によって生まれた新技術の長所は非常に際立っていた。なぜなら、この技術では豊かな色調や優美な線による造型を表現することができ、視覚効果や表現において取って代わる画法は存在しないためである。

1.16世紀の中国銅版画

 明朝末期、ヨーロッパから来たキリスト教の宣教師によって、西洋ですでに流行していたこの銅板彫刻技術が中国に伝えられた。当初、この技術は目新しい西洋絵画技術として中国人に知られ、「泰西絵法」(または「海西画法」)とも呼ばれた。「泰西」とは、明清時代の中国人が西洋や西欧社会を指すのに使った慣用表現であった。明清時代の筆記小説や絵画理論に関する専門書を読めば、当時、多くの人がこの外来の画法と中国画法の違いに関心を寄せていたことがよくわかる。それは、明暗や凹凸、陰陽の有無に表れ、「そこに描かれた人物や建物、樹木にはすべて光と影があり」、「光と影の中ですべてが浮き彫りにされる」という表現で描写されている。一方、人物や山水画、花鳥画を主流とする中国の伝統絵画では際立った明暗の対比を目にすることはまれであったため、宣教師によって伝えられた西洋の銅版画を目にすると、東洋の鑑賞者は往々にしてある種の緊張と驚きを覚えた。明朝末期、姜紹書は『無声詩史』巻七において「キリスト像」を見た際の震撼を次のように記している。「マテオ・リッチがもたらした女性が嬰児を抱いている西域の天主像は、その目鼻立ち、衣服の皺紋まで明鏡止水のごとく、独り動き出しそうなさまであり、その優美さ、秀麗さにおいて中国の絵師は足元に及ばない」。[1]

 明万暦19年(1591年)、マテオ・リッチ(Matteo Ricci)は中国に携えたキリスト教銅版画を友人の芸術家、程大約(生年不詳、活動期間は明万暦年間)に贈った。程大約は安徽省の製墨を営む名門の出身で、木版印刷の画集『程氏墨苑』を編纂している。この墨譜(墨商が自家製作の墨の図柄を集め、顧客への豪華版目録として作成したもの)は中国木版画美術の最高傑作であり、万暦年間に光芒を放った木版画美術の最高水準を代表するものである。興味深いのは、『程氏墨苑』では中国の伝統的な木版画技法によって、マテオ・リッチから贈られた4枚の銅版画作品を翻刻していることである(図1、2)。西洋をテーマとするこれらの宗教美術では銅版画が木版画に変更され、中国式の彫刻技法が使われているにも関わらず、凹凸や明暗のはっきりした銅版画のスタイルが依然として表現されている。また、この中の『聖母マリア像』のもととなる銅版画原稿は、ほぼ同時期に日本でも登場している(図3、4)。このことから、当時、中国と日本でキリスト教の布教活動を行った宣教師たちが携えた銅版画『聖母マリア像』は、ヨーロッパの同じ原本に由来すると推察される。

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図1、2:『程氏墨苑』の「二徒聞実」、「信而浮海」(東京藝術大学付属図書館蔵)

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図3:『程氏墨苑』の「聖母マリア像」(東京藝術大学付属図書館蔵)
図4:長崎県指定有形文化財 銅版画『セビリアの聖母』(宗教法人カトリック長崎大司教区蔵)
〔画像公開終了〕

 明朝から清朝に移ると漢民族に代わって満洲民族が中国の統治者となったが、ヨーロッパから伝わった銅版画技術は数奇な運命をたどって王朝交代を乗り越え、19世紀半ばまで続いた。清朝による国家統一後まもない17世紀半ばにはイエズス会宣教師(Jesuit missionaries)たちが宮廷に入り、画家や時計職人、製図職人、ならびに皇帝の私的顧問を務めたことによって、ヨーロッパで流行した銅版印刷技術も中国北方の貴族文化圏に伝えられ、中国芸術史の新たな分野となる宮廷銅版画を生み出した。

 この新たな美術表現は多様な形式を持ち、地図や庭園図、戦陣図などの分野を網羅した。康熙52年(1713年)にイタリア人のマッテオ・リパ(Matteo Ripa)が銅版製作と印刷を担当した『御製避暑山荘三十六景詩図』が出版され、道光9年(1829年)に『平定準噶爾回部得勝図』を刊行するまでに宮廷では銅版画が12種類作成され、このうち戦争での勝利の場面を表現した作品が8種類92枚、園林を題材にしたものが2種類56枚、地図が2種類あった[2]。いずれの作品も彫刻が精緻で線が細かく、緩急の中にも秩序があり、構図と人物の造型において中国の古典的な水墨画の風格を維持する一方で、大量のクロスハッチング(cross hatching)も用いて陰影と明暗を表現していることから、中国芸術史における傑作と言える。

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図5 清の伊泰蘭と宣教師による円明園設計図『西洋楼透視図』(乾隆51年)[3]

 清の宮廷銅版画はその生産、消費および流通プロセスによって、世界的な美術作品としてゆるぎないものとなった。たとえば乾隆年間の新疆平定を表現した『平定準噶爾回部得勝図』の画稿は宣教師と宮廷画家の協力によるもので、乾隆30年(1765年)から順次フランスに送られてひとつひとつに銅版が制作され、10年間という時間をかけてようやく完成して北京に送り返された。その後、乾隆帝はこの銅版画を全国各地の行宮や寺院に送って保存するよう命じたため、原画には大量のコピーが制作された。その例としては、光緒16年(1890年)のドイツ人の模倣による『大清国御題平定新疆戦図』や日本の京都帝国大学の製版印刷による『乾隆銅版画準噶爾得勝図』等がある。こうして、原本は宮廷内の奥深くにしまわれていた宮廷美術品も、版画印刷技術によって何百億もの価値となり、広く大衆に知られることとなった。

2.日本の江戸時代の銅版画(エッチング)

 中国の明清時代の銅版画美術と同様に、近代日本における銅版画および銅版印刷技術もイエズス会の宣教師によって伝えられた。それは、永禄年間(1558-1570年)にヨーロッパの銅板彫刻技術が日本に紹介されたことに始まるが、徳川幕府が慶長19年(1614年)に禁教令を発すると銅版画技術も強制的に途絶えることとなる。しかし、後の19世紀後半の「蘭学」の新興に伴って新たな腐食銅版技術(エッチング)が日本に伝わり、民間の蘭学家の間で人気の印刷方式となる。折しも、ルネサンス期のヨーロッパにおけるエッチング技術の中心はオランダにあり、まさにそのオランダこそが当時の日本が西洋文化を学ぶにあたって、直接参考にした相手であった。司馬江漢(1747-1818)や亜欧堂田善(1748-1822年)の努力によって日本の銅版画および銅版印刷技術は江戸時代から明治時代に伝えられ、19世紀後半には中国との衝突も生じた。

 司馬江漢はこの時代の日本の腐食銅版画(エッチング)の代表的人物である。宝歴11年(1761年)、当時15歳の江漢は浮世絵の巨匠、狩野美信(洞春)に絵画を学んだ。25歳の時には平賀源内の紹介で南蘋画派の巨匠、宋紫石の門に入り、人物画や風景画などを系統的に学ぶ。青年期の司馬江漢は画家の平賀源内や小野田直武らの影響を受け、西洋美術と蘭学に強い関心を持つようになった。36歳のころ、彼は蘭学著の手による『新選科学工芸総合大辞典』に出会い、その中に「銅刻を作るの技法」の章があった。そこから試みに銅版技術を絵画に使用し始め、翌年の天明3年(1783年)には日本最初の銅版画『三囲景』(みめぐりけい)を完成させた。こうして、江漢は腐食銅版画(エッチング)技術に熟達し「西洋画家」としての名声を得た。

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図6 司馬江漢『三囲景』、腐食銅版画、天明3年(1783)[4]

 天明8年(1788)、江漢は東海道を経て長崎へ遊学し、旅の途中で駿河湾から富士山を臨んだ。そして、遊学から戻った後の江漢は絵画と創作の中心を油絵(oil painting)におくようになる。富士山をテーマとする絵画では西洋の透視図法を大量に採用して独特の風格を持つ日本の風景画を描き、その耳目を一新するような技法やそれを大胆に融合させる手法で、後の日本画壇に大きな影響を与えた。さらに、江漢は熱心な蘭学者として、銅版画の技法を地理書や天文学書の挿絵にも使った。寛政4年(1792年)、江漢が銅版画『輿地全図』を完成させ、続いて翌年1月には『地球全図』(図7)を出版すると、地動説に基づく天文学の知識のための「図説」というジャンルが生まれることとなる。

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図7 司馬江漢銅版画『地球全図』(京都大学付属図書館蔵)[5]

 幕末から明治にかけて、銅版画は京都や大阪で発展のピークを迎える。関西地区は観光資源が豊富なため、銅版画技術は景勝地の観光案内書に大いに利用された。京都の上方系銅版画家の中伊三郎、梅川夏北、松本保居らが創作した自然の風景や景勝地をテーマとする『名所図会』も銅版画技術により印刷されている[6]。このほか、関西で出版された医学書にも、銅版画技術で印刷された挿絵が多く採用されている(図8)。

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図8 [医範提綱内象銅版図]宇田川玄真 編[他] 文化5(1808)[7]

3. 上海に渡った日本の銅版画

 このように、もとはそれぞれの発展を遂げた中日両国の銅版画美術も、19世紀末になると交流が生じる。清光緒9年(1888年)、王肇宏が日本にわたって凹版印刷技術を学び、帰国後に『銅刻小記』を著し銅版画が東洋に伝わった歴史と銅版印刷技法の重要点を詳細に論じた[8]

 近代的印刷産業も中日両国の銅版美術交流における重要な分野である。19世紀末の上海の出版業界においては、日本の銅版美術と銅版印刷から受けた影響が言及に値する。清光緒年間(1875-1907)には多くの日本の印刷会社が上海の河南路で開業して銅版印刷による書画を刊行し、その大口商品は銅版地図や銅版画譜、科挙用参考書であり、例としては『南画独学揮毫自在』、『吟香閣画譜』や明治維新の時期の肖像画がある。日本のこれらの印刷会社のほとんどは楽善堂、修文館、淞隠書屋など、中国語の名称を使って客の目を引いていた。

 なかでも、岸田吟香(1833-1905)の設立した楽善堂は特筆に値するだろう。楽善堂は、もとは岸田吟香が西洋薬の眼薬「精綺水」の販売を主な目的として上海に開いた店であり、その兼業として書籍印制と販売も行っていた[9]。岸田吟香は上海に渡ると、その漢文に対する造詣の深さによってほどなく上海の文人圏に溶け込み、楽善堂は中日両国の文人交流における重要拠点となった。光緒年間初期、岸田吟香はそれまでに収集した多種の中国古籍を日本に輸送し、銅版印刷を行った後に再び送り返して中国市場で販売した。これらの銅版印刷品は品質が高い上、携帯に便利だったため、幅広い読者の間で好評を博し、非常に売れ行きも良かった。このため、当時は「細若牛毛,明于犀角,尺之書,可縮成方寸一二本」と称された。[10]『申報』紙も「鳴謝雅贈」と銘打った広告をたびたび掲載し、「日本岸吟香先生以蓬莱之仙客精芝術之奇方、至申歴有年所、其為人也、恂恂尓雅、有隠君子風、曽捜得中華珍籍数十種、鏤以銅版、縮為袖珍、士林得之、往往珍為枕秘。」とうたって強く宣伝した[11]。その後登場した中国の出版社や印刷会社(商務印書館、有正書局など)も楽善堂のやり方を次々に模倣し、銅版美術品を発売して利益を求めた。

 これらを総括すれば、東アジアに伝えられた西洋の銅版画美術は東洋・西洋芸術融合の典型と言える。中国では、清の宮廷銅版画は西洋の彫刻技法を参考にする一方で中国の伝統的な木版画技術の長所を発揚し続け、最終的には際立った特徴を持つ宮廷銅版画作品が作成された。他方、日本では、地域性豊かな題材や風格と舶来の芸術表現手法が融合することによって、近代日本芸術のジャンルと風格において幅広さを増し、さらには明治時代の銅版印刷による紙幣や郵便切手、証券、契約書など、芸術から生まれ変わる形で数多くの実用品が誕生した。19世紀後半になると、中日両国の文化交流においては、科学技術と芸術のいずれの分野でもまったく新たな衝突と融合が生じた。特に、通商が始まったばかりの上海とその周辺地区では、銅版美術と銅版印刷は、中日両国の文化人が相手を知り、理解するための架け橋となった。