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【19-05】江蘇省如東、如皐

2019年3月19日

阿南ヴァージニア史代

阿南ヴァージニア史代

米国生まれ。東アジア歴史・地理学でハワイ大学修士号。台湾に留学。70年日本国籍取得。1983年以来、3度にわたって計12年間、中国に滞在。夫は、元駐中国日本大使。現在、テ ンプル大学ジャパンで中国史を教えている。著書に『円仁慈覚大師の足跡を訪ねて』、『古き北京との出会い:樹と石と水の物語』 、『樹の声--北京の古樹と名木』など。

遣唐使の夢よみがえる国清寺

 江南の春は輝くばかりの菜の花に美しく彩られ、その中を大小の運河が縦横に走っている。上海から如東への旅は崇明島から南通へ揚子江の下を通るトンネルとG40大橋の開通により以前に比べ格段に容易になった。私たちは沿海の町、如東へ向かっていた。(隋時代の)如泰運河に沿ったこの町は黄海に停泊する船との間で積み荷を運搬する舫舟が出入りする港であった。如泰運河は隋時代に造られたもので、後代に至り揚州の大運河と繋がるようになった。

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写真1:江蘇省南部の春--運河を往く船

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写真2:如泰運河

 如東へ向かう目的は永い歴史を有する国清寺を訪ねることにあった。天台宗の開祖、智顗大師は浙江省天台山において天台宗を開き、国清寺を立てたが、智顗の十代目の弟子、行満大師が唐代806年から820年の間に如東の旧名である掘港にこの国清寺を建立したと伝えられている。寺院の建築は天台山国清寺の様式に倣っている。

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写真3:如東国清寺本堂

 日本僧円仁の日記(入唐求法巡礼行記)によれば遣唐使藤原常嗣大使一行は838年7月3日、上陸地の泥濘の中で船が破損した後、東梁豐村に辿り着いた。唐時代以来、海岸線は沈泥の堆積により15㎞も外へ広がったのである。一行は地元の人々が提供してくれた水牛の引く舫舟に乗って旅し、漸く、掘港庭の国清寺に着き、しばらくこの寺に滞在した。その後、地方官憲の許可を得て、運河を西へ如皋鎮へと向かう。如皋では揚州当局がこの450人から成る大使節団を丁重に受入れる準備が整うまで待機させられたと記録されている。

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写真4:徐氏作成の唐代江蘇東南部の地図

 2015年4月、廓清住職が国清寺の正門の前で16人の僧と70人を超える信徒とともに私たちを迎えてくれた。住職はこの少し以前に円仁に献ずるお堂を建てており、私たちは円仁庭園で桜の木を植えることになっていた。廓清師の話では此処は元々、掘港国清寺があった場所ではなく、現在地に寺を再建するよう指示を受け、30年間その建設工事を監督してきたとのことであった。私たちは先ず円仁堂に赴き、この日本僧の木彫の座像と画像を拝観した。植樹の後、寺の精進料理をご馳走になったが、食事の間、住職は円仁日記がこの地の歴史にとってどれほど重要であるかを語り続けていた。

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写真5:円仁記念堂

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写真6:円仁記念堂(内部)

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写真7:国清寺での櫻の植樹

 以上の経緯の後、2018年7月20日になって、中国の考古学チームが掘港国清寺の原所在地から遺跡を発掘したとの報道に接したことは正に嬉しい驚きであった。新国清寺が別の場所に再建されたのは学者達が唐、宋時代の遺物を発掘し、研究するための時間を確保することが目的であったことが今、理解できた。

 錆びた青銅の鈴の他、真珠模様に縁取りされた蓮花を施こした屋根瓦、さらに最下層には唐時代の蓮文様の石柱の基石が存在していた。底裏に国清寺の〝国〟の字が刻印された鉢も多数、発見された。報告書には、今回の発掘、研究により、この寺院についての円仁日記の記載の正確さが確認されたと述べられている。また、その日の新華社電は次のように伝えている。「如東掘港唐宗国清寺は我が国の〝海のシルクロード〟を示す重要な遺跡であること、また、日本の遣唐使の歴史、そして中日友好交流の研究に貴重な歴史、文化、学術的意義を有するものである」。

 遣唐使一行は如東に滞在の後、運河を通って如皋に至った。この如皋市にも隋代に起源を持つ天台宗の寺、定慧寺があり、旧市街の外城濠と内城壕の中間に位置している。此処でも宏修法師が境内に桜の木を植える準備をしてくれていた。その上、驚いたことに2002年建立の観音閣の前庭で華麗な舞踊が演じられた。地元の郷土史家、徐琛氏も姿を見せ、遣唐使船が辿り着いたと想定される地点を地図上で指し示してくれた。私が円仁一行は定慧寺に滞在したのですかと訪ねると、徐さんの答えは、円仁日記には定慧寺への言及は無い、何故なら、この寺は円仁一行が来たときは揚子江の洪水で既に水中に沈んでおり、その後、再建されたのは明時代になってからであるとのことであった。

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写真8:如皋定慧寺

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写真9:定慧寺での植樹

 遣唐使一行は幾つもの小さい運河を通って如皋鎮に至ったこと、運河沿いの停泊所の一つは塩税徴収のために使われていたこと等、徐さんは地図を指さしながら教えてくれた。私たちは旧市街の運河沿いを散策し、迎春橋の傍らに如皋名物の烙餅(肉の詰まった焼餅)を売る店を見つけた。運河に映る塔の影に見とれている時、徐さんは遣唐使と円仁たちはこの道を通ったのだと私たちの注意を引いた。円仁日記(838年、7月20日)〝午後2時、如皋の茶店に着き、しばらく停まって休んだ。運河の北岸には店屋が連なっている...〟円仁も私たちと同じように此処の茶店で休憩したのだ!

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写真10:定慧寺観音閣前での舞踊

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写真11:如皋--寺塔と内城壕

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写真12:如皋名物--烙餅

 日本僧円仁の日記によって古代の歴史に繋がる二つの町―如東・如皋―を訪れた春の旅は本当に忘れ難いものであった。現在でも、運河網は唐の時代と変わらぬ姿で残っており、異国からやって来たばかりの遣唐使一行の様子も眼に見えるようである。


※本稿は『中國紀行CKRM』Vol.14(2019年1月)より転載したものである。