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【17-007】裁判官による裁量

2017年 4月18日

略歴

御手洗 大輔

御手洗 大輔:早稲田大学比較法研究所 招聘研究員

2001年 早稲田大学法学部卒業
2003年 社団法人食品流通システム協会 調査員
2004年 早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了 修士(法学)
2009年 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学
2009年 東京大学社会科学研究所 特任研究員
2009年 早稲田大学比較法研究所 助手(中国法)
2012年 千葉商科大学 非常勤講師(中国語)
2013年 早稲田大学エクステンションセンター 非常勤講師(中国論)
2015年 千葉大学 非常勤講師(中国語)
2015年 横浜市立大学 非常勤講師(現代中国論)
2016年 横浜国立大学 非常勤講師(法学、日本国憲法)
2013年より現職

刑事政策の意義

 前々回のコラム「検察による監督 」について。意図したわけではありませんが、読む人によってはあまりに現代中国の裁判官が役に立たないかのような論じ方を私がしているように感じられたようです。そこで、今回はその汚名返上(までなるかどうかは分かりませんが)のために、現代中国における裁判官の法的位置づけについてお話してみたいと思います。

 まず、私の論じ方が偏っているのかを検証するために、日本と中国の裁判官を比較してみたいと思います。長々と整理するのはコラムの性質上よくないことでしょうから、今回は私たちの社会における裁判官の中立性・公正性を保障する背景を確認することで比較してみましょう。そうすると、おそらく皆さんが日本の裁判官に対して中立性・公正性を抱く背景として思いつきやすいことは、例えば、法廷の中央に座る裁判官に対して、難関の司法試験を合格し、法治国家となった後の日本の裁判所が培ってきた判例法理を修得しているために法服を着て法廷の中央に座しているといった意識があるのではないでしょうか。また、法律学、特に法解釈学に触れたことのある人であれば、法令条文を実社会の状況に適応させつつ解釈して妥当な結論を導く法的論理を修得しているといった意識から、裁判官に対して中立性・公平性を抱いているかもしれません。これらの意識が現在の日本の裁判官のイメージを確立すると同時に、日本社会にとって非常に重要です。

 日本の裁判官に対する意識すなわち中立性・公正性の保障が、日本社会に与える恩恵を考えてみると、様々な恩恵を示すことができますが、その第一は刑事犯罪者に対する処遇(という恩恵)であると私は考えます。なぜなら、殺人事件を起こした殺人者が自分の傍で生活している環境は誰も安心できないだろうからです。その一方で、実行した犯罪を後悔し、罪を改めた人を一生涯にわたって社会から孤立させることも社会にとって浪費であるところを重視する人々もいらっしゃることでしょう。つまり、社会的損失であると指摘する意見ですね。社会的損失を改善するとすれば、刑期を終えた人の出獄すなわち社会復帰を社会が受け入れなければなりません。この点については、さらに、刑期を終えて出獄した人が、上手に社会復帰できず、再犯を侵す可能性が低くないことが指摘されています。刑事犯罪者に対する反応は正負両面を確認できるわけです。そして、私が注目するのは、これら正負両面の反応に共通する原因すなわち、犯罪歴が人々の意識・記憶というノートから消えることはないという点、すなわち私たち人間の意識、特に憎悪です。

 この共通する原因に対処するために、裁判官の中立性・公平性が役立ちます。(消えることのない)過去の歴史(そして一般人の意識)を参照しながら、犯罪者の罪に対する応報と教育について、裁判官が合理的判断を下すものと日本法は位置づけています。そして、多種多様な人々による共生を実現するために、裁判官の中立性や公正性を背景としたこの合理的判断が、私たちの社会・意識に対して安心・自制を与える処方箋となるのです。少し難しい表現で言えば、感情論による判断ではなく、科学的に、そして人々が受忍できる結論を(裁判官は)示せるはずであると私たちは裁判官に求め、裁判官がこの要求に応えることによって、日本社会は「秩序維持」という恩恵を受けているわけですね。

 以上の側面が裁判官による裁量の本質であると私は考えます。したがって、(前々回のコラムで私がディスった?現代中国の裁判官のイメージについて)現代中国の「裁判官による裁量」を見ることによって汚名返上ができるだろうと期待する次第です。また、結果として現代中国における裁判官に対する法的位置づけについても皆さんと一緒に確認できることでしょう。

 今回のコラムでは、特に「減刑」や「仮釈放」を決定する司法解釈についての紹介を通じて、現代中国における裁判官の裁量を科学してみたいと思います。

減刑・仮釈放に関する最新の司法解釈

 減刑や仮釈放という裁量行為は、(社会)秩序の維持という目的に照らして犯罪・犯罪者と(科学的に)向き合います。ゆえに、法治国家においては塀の中にいる人をどのように処遇し、そして社会復帰させるか否かについて、合理的な判断の下で決定する仕組みを確立する必要があると言えます。そして、今回ご紹介する司法解釈は、塀の中にいる人に対する減刑や仮釈放についての判断基準を示すものです。したがって、裁判官の裁量について垣間見ることができますし、裁判官に対する現代中国法の法的位置づけを確認することになります。

 減刑や仮釈放について、最高人民法院は、2016年11月に最新の司法解釈(「関於弁理減刑、仮釈案件具体応用法律的規定」法釈〔2016〕23号)を公布し、2017年1月1日より施行しています。下の表は、この司法解釈が規定する減刑・仮釈放について現代中国の裁判官に与えた権限を示しています(筆者作成)。日本法にない法律用語としては執行猶予付きの死刑判決(「死緩制度」と言います)や政治的権利の剥奪、終身拘禁という刑罰があります。なお、それ以外について、現代中国の裁判官に与えられている減刑権限は、日本の裁判官に与えられている権限と大きな違いはありません。また、検察による求刑の8掛けで刑を言い渡す(2009年5月から導入された裁判員裁判によって運用が若干変わっていると聞いていますが)といった暗黙の了解も日本と同様に存在しているようです。

法釈〔2016〕23号の司法解釈、6条、8条、10条、12条、13条および15条より筆者作成。
  実際の刑の執行期間   服役態度 減刑幅 備考
有期懲役の場合 
刑期が 5年未満 1年以上 後悔または貢献あり 最大0.75年(9か月)減/回 政治的権利の剥奪を伴なう減刑ができる。
5年以上
10年未満
1.5年以上 後悔および貢献あり 最大1年減/回
10年以上 2年以上 重大な貢献あり 最大1.5年減/回
後悔および重大な貢献あり 最大2年減/回
無期懲役の場合 2年以上 後悔または貢献あり 22年の有期懲役へ減刑 政治的権利の剥奪を伴なう減刑ができる。
後悔および貢献あり 21年~22年以下の有期懲役へ減刑
重大な貢献あり 20年~21年以下の有期懲役へ減刑
後悔および重大な貢献あり 19年~20年以下の有期懲役へ減刑
執行猶予付き 死刑の場合     
減刑制限 なし 3年以上 後悔または貢献あり 25年の有期懲役へ減刑 実際の刑期が15年を下回ってはならない。
後悔および貢献あり 24年~25年以下の有期懲役へ減刑
重大な貢献あり 23年~24年以下の有期懲役へ減刑
後悔および重大な貢献あり 22年~23年以下の有期懲役へ減刑

あり
5年以上 一般の場合 25年の有期懲役へ減刑 1回の減刑は0.5年を超えてはならない。
減刑の間隔は2年間以上空けなければならない。
貢献または重大な貢献あり 23年~25年以下の有期懲役へ減刑
終身拘禁の場合  N/A N/A 無期懲役へ減刑 二度と減刑・仮釈放してはならない。

 減刑や量刑判断による減軽に対する裁判官の裁量について論じる方が、内心に迫るものですから生々しく、かつ聞く側も想像しやすいです。しかし、コラムに出せない内容も少なくないので、今回は仮釈放に対する裁判官による裁量に注目して科学してみたいと思います。

 上の表からまず言えることは、現代中国における減刑・仮釈放における特徴が、その決定について「実際の刑の執行期間」と「服役態度」にあるという点です。前者(刑の執行期間)については数字で示すことのできる客観的な基準ですね。そのため、刑務所の官吏や裁判官などの数字を記録する人が故意に数字を修正しない限り中立性・公正性を保障できることは間違いないでしょう。また、減刑の幅も言明されていますから、運用の蓄積によってその基準も客観化していくことを期待できます。

 その一方で、後者(服役態度)については「後悔」「貢献」「重大な貢献」というだけですから客観的な基準であるとは言えません。特に、貢献については何をもって重大であり、何をもって重大でないかを判断するのかが大きな問題になりますね。結局、ここには主観的な判断ないし基準がどうしても入り込んでしまう余地があると言えます。科学するポイントは、今回の司法解釈がこの疑義に対してどのように答えているかです。

主観的判断の回避がもたらすもの

 この司法解釈は、「後悔」「貢献」「重大な貢献」を客観的な基準にするべく、次のように文言化を試みています。

 まず「後悔」が確かにあったというためには、①罪を認め、罪を悔いていること、②法令および監獄規則を遵守し、教育改造を受け入れていること、③思想教育、文化教育および職業技術教育に積極的に参加していること、④労働に積極的に参加し、労働ノルマを完遂すべく努力していることの4つが必要であると言明しています(同3条)。①はごめんなさいと言葉と態度で示せば何とかなりそう(笑)ですし、②や③は主義主張が違ったとしても期間が決まっているとすれば我慢できないこともないかもしれません。④についても、できそうにないノルマが課されたり、ノルマが事前に示されていなければどうしようもありませんが、そうでないのであれば何とかなりそうな気がしますね。ちなみに、職務犯罪や金融犯罪などの囚人については贓物の返還や損失の賠償といった行動が伴わなければ「後悔」があったとは認めないとします(このあたりは当然といえば当然であるようにも思いますが、日本法の場合はどうなっているのでしょうね)。

 次に「貢献」については、①他人が行なおうとしている犯罪を阻止したこと、②監獄内外の犯罪活動を検挙したり、または重要な通報や実証を行なったこと、③他の容疑者の逮捕に協力したこと、④生産活動・科学研究活動において技術革新を行なったり、成績が突出していること、⑤自然災害や重大事故の中で積極性を発揮したこと、⑥国家や社会に対してその他の比較的大きな貢献を行なったことの6つのうち、1つがあれば認めるとします(同4条)。④については省レベルの主管部門の確認が必要だそうですが。

 以上の項目の中でできそうなものは①②③でしょうか。簡単に言えば、仲間を売れということですね。⑥は「その他条項」として私が揶揄している規定そのものです(「その他条項」については前々回のコラムを参照ください)。何をもって貢献したと判断するかが不明ですから、⑥を目指すことは通常ないでしょう。

 最後に「重大な貢献」については、①他人が行なおうとしている重大な犯罪を阻止したこと、②監獄内外の重大な犯罪活動を検挙したり、または実証したこと、③重大な犯罪の容疑者の逮捕に協力したこと、④発明や重大な技術革新を行なったこと、⑤日常の生産活動や生活の中で身を投げ出して他人を救ったこと、⑥自然災害や重大事故の中で突出した行動を行なったこと、⑦国家や社会に対してその他の重大な貢献を行なったことの7つのうち1つがあれば認めると言明します(同5条)。こちらも④については国家の主管部門が確認する必要があるとするほか、⑦についても国家の主管部門の確認を要求しています。「貢献」と異なるのは⑤ですが、中国の監獄がどれほど過酷な環境に置かれているのか、別の意味で興味をひく条項ですね。

 さて、これらの要件を確認すると、何が普通で、何が重大なのかは今後の蓄積から再び文言化されることになると推測できます。しかしながら、この判断裁量を裁判官が独立して、言い換えれば単独で行なっているとは到底思えないですね。そして、ここに現代中国の裁判官の法的位置づけが日本の裁判官のそれに及ばない原因があるのではないでしょうか。(逆説的かもしれませんが)この仮釈放に対する判断裁量について、現代中国の裁判官が関与させられている点に、彼らの中立性・公平性を高められない原因があると私は考えます。

 日本の場合と比べると明らかなのですが、現代中国の場合は上記の④や⑦のように裁判官以外の判断が判断裁量で必要不可欠な部分を構成しています。そのため裁判官・裁判所が単独で(独立して)行なっている印象をまず与えません(法が本当に「裁判官の独立」をさせたいのかという疑念も生じます)。ちなみに日本の場合、仮釈放は刑務所長が地方更生保護委員会へ仮釈放の申請書を提出することになっています。したがって、裁判官に仮釈放の判断裁量はありません。言い換えれば、日本の場合は裁判官が独立して行なえない領域については積極的に関与していない(関与させない)のです。また、減刑と減軽で読み(げんけい)は同じですが、前者(減刑)は恩赦などにより刑の量刑を減じることを指し、後者(減軽)は裁判官がその酌量によって刑を言い渡す前に減ずることを指します。つまり、日本の裁判官は仮釈放についての判断に関与せず、法廷における減軽についての判断しか行なわないことによって、矛盾のない司法の独立を実現しているのです。

 論理的には現代中国法も法院の独立すなわち裁判所の独立を承認しています。別の視点(裁判官の中立性・公平性を前面に押し出して共生社会を実現する意図)に立てば、それゆえにこそ仮釈放の判断裁量にも裁判官を関与させる必要があると言えるわけですが、上述したように、その独立性が保障されているとは言えない矛盾した仕組みを採っています。その結果、この仕組みが現代中国の裁判官の中立性・公平性を阻害していると論理的に指摘できると私は考えるわけです。そして、私が現代中国の裁判官は役に立たないと辛口評価していると言われるとしたら、このような矛盾した仕組みを採用することによって彼らの中立性・公平性を必要以上に高めさせない意図を現代中国法から感じ取るからでしょう。

裁判官は役に立つか

 さて、今回のコラムは、前々回のコラム「検察による監督」 で裁判官が役に立たないかのような論じ方を私がしてしまったため、その汚名返上の意味を込めて取り上げてみました。しかし、やはり完全な汚名返上まではいかなかったかなという気がいたします(ですが、現代中国法の通底に流れる根本の法理を垣間見ることはできたのではないでしょうか)。今回の司法解釈を見てもお分かりになるように、最高人民法院が公布する司法解釈は「依法治国(法に基づき国を治める)」の論理の下、裁判官(法官)をはじめとする裁判所の構成員の一挙手一投足を法令条文で支えることを意図しています。言い換えれば、信用(信じて用いること)はしているかもしれませんが、信頼(信じて頼ること)はしていないのです。

 新中国が建国される前後、革命根拠地を拠点に活動していた頃から現代中国法(精確に言うと根拠地法制)は、前政権(中華民国)の裁判官を目の敵にした節があります。曰く、「彼ら(裁判官)はお堂に座して書類に目を通して判断するだけで、実際を見ないで判決を下す」というように、です。その後、現代中国法が人民法廷のような大衆裁判を推奨したのは実際を見るとともに人々の中に連帯感を醸成させるという意図があったように思われます。また、前政権の支持層を崩しつつ自らの支持層を強化する合理的な方針だったとも言えます。とはいえ、私個人としては前政権の裁判官という官僚・エリートに対する激しい憎悪だったと見る方がよりリアルなのではないか、すなわち「憎悪・アンチが異種の仕組みを生み出した」と考えています。

 憎悪の一端は、法廷に当事者が出廷する時にはすべての事実関係を確認済みで、該当する法令条文との一致性の検証と情状酌量の余地の確認のみを理想とする現代中国法の描く裁判のあり方という異種の仕組みを見事に生み出しました。これが主流の教科書類が述べる「先定後審(まず判決を定めて、後に審理する)」です。恥部をさらすとすれば、建国後に現代中国の裁判所が直面した課題は、官僚・エリートのように法廷で瞬時に、あるいは法廷の議論を見聞するだけでは論理整合性を検証できないし、識字能力も十分でない裁判官らの存在でした(前政権の裁判官らの一時的留用はこの文脈で解釈できますし、新政権もこの問題を認識していました)。それゆえに、法廷審理を開始する前に、汗水を流して現場を歩き回り、関係者の証言を汲まなく収集して事情の把握に努める必要性に迫られたのです。

 しかしながら、刑事裁判であれ民事裁判であれ、日本の中国研究はどうも官僚・エリートに対する憎悪というところが、常に、あるいはいつの間にか消え、コンパクトかつ綺麗事で現代中国の裁判を片付ける面白くない傾向が根深いです。口汚く言えば、現代中国について無知な日本人に分かったかのように意識させられるのであれば、少々欺罔しても、また学問となり得なくとも、ジャーナリスト的に振舞って構わないといったところでしょうか。

 例えば、先ほど述べた「先定後審」について言えば、それは、80年代以降の規制緩和・市場経済化の影響や法治観念の導入を受けて当事者主義裁判が必要であるといった論調に押され、「先定後審」モデルを改めなければならないという改革の流れを生んだというように、です。憎悪から生まれたものが消えるはずはありませんから、根本にあるエリートに対する憎悪がモデルの転換ごときで解消できるはずがありません。日本社会でさえ、裁判官の中立性・公平性によって消えることのない人々の意識との共生を試みていることを思い起こせば、現代中国の裁判モデルを職権主義モデルだの当事者主義モデルへの移行だのと評論しても(一部の人々を「作られた現代中国のイメージ」で分かった気にさせるでしょうが)根本が違うことから出発しなければ新しいノイズを生み出すだけです。

 確かに現代中国の現実を見ると、大卒の裁判官が今やありふれていますし、修士号や博士号を取得している裁判官も珍しくなくなっています。とはいえ官僚・エリートに対する憎悪が消えていないことも確かです。そして、今回のコラムで取り上げた「減刑」や「仮釈放」を決定する司法解釈が言明する「裁判官による裁量」からも、現代中国法にとって現在でも現代中国の裁判官が信頼できないことは明らかです。

 以上の次第で私はその程度でしかない裁判官を信用しながら自分の主張する側に裁判官を立たせるために、実質的な法廷審理(証拠法の立法要求が根強い原因です)を求めたり、中立公正な裁判官か否かを人々が監視するという意味での「透明化」が加速しているというのが正確なところではないかと考えます。言い換えれば、訴訟当事者自身にとっては都合の良い判断を公表してくれる瞬間においてのみ裁判官が役に立てばよいのです。その一方で、現代中国法にとって中立性・公正性を獲得した裁判官の確立は望んでいないのです。

 巷で主流となっている現代中国論・現代中国研究が期待するように、日本の裁判官に対して私たちが抱く中立性や公正性を、現代中国の裁判官もいつかは獲得する時が訪れるかもしれません。しかしながら、そのためにはその土台となる法的論理において修正すべきところが多いこと、そして、現代中国法自体が裁判官を信頼しようとしてないところをどのように改善しようとしているのかについて、理論的にも実務的にも探求する必要があります。が、実際にこのようにして探求する研究は現在までごく僅かですし、その僅かな成果に対しては否定的な反応(その研究結果について日本語がおかしいといった難癖で一蹴するといった反応)が圧倒的多数を占めているように私には感じられます。

 かくいう私はこれらの僅かな成果を肯定的に捉えています。それゆえに、今回論じてきたように、上記のような修正意図を理論的には確認できないと現時点では認識している「有力説」(法学徒が有力説と表現する場合、それが唯一単独の見解の意味であることは内緒です)を支持することになります。嗚呼、やはり現代中国の裁判官は信用しても信頼はするなという結論になってしまいました。次回、汚名返上のためにもう少しだけ人民法院の新しい取り組みを紹介しておきたいと思います。

(了)