【17-011】民法総則は身分制を打破できるか
2017年 7月27日
略歴
御手洗 大輔:早稲田大学比較法研究所 招聘研究員
2001年 早稲田大学法学部卒業
2003年 社団法人食品流通システム協会 調査員
2004年 早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了 修士(法学)
2009年 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学
2009年 東京大学社会科学研究所 特任研究員
2009年 早稲田大学比較法研究所 助手(中国法)
2012年 千葉商科大学 非常勤講師(中国語)
2013年 早稲田大学エクステンションセンター 非常勤講師(中国論)
2015年 千葉大学 非常勤講師(中国語)
2015年 横浜市立大学 非常勤講師(現代中国論)
2016年 横浜国立大学 非常勤講師(法学、日本国憲法)
2013年より現職
身分から権利へ
今回のコラムでお伝えしたい「身分から権利へ」とは、一般に言われるところの封建社会から近代社会への変遷を示す「身分から契約へ」とは違います。意識的に重ねたところがなくもありませんが、拙著『中国的権利論』(東方書店、2015年)において示した私のメッセージです。
中国的権利論として私が現代中国における権利論を描いた仮説は、建国から現在に至るまでの現代中国の変化は脱身分という世界史における近代化と一致すると言っているにすぎません。この仮説を論証するために、私は現代中国法の権利の原型として労働権を対象としました。もちろん、現代中国が労働者を主人とする国家を志向することを(少なくとも文言上は)言明していたことを踏まえてのことですが。そして、労働者像の変遷を主体、客体および権利関係から論証し、「身分制」的な権利論が現代中国法の通底に存在するとの結論を導きました。なお、通底するということは現在でも通用していることを説明する必要がありますから、同書の後半部分において各法分野における現代的変容について紹介しつつ、「直面する理論的問題」に言及してあります。
今回のコラムで直接に関係するところについて簡単に紹介しておきたいと思います。そもそも現代中国では、建国当初から労働権をすべての働く人に享有させていませんでした。労働権の享有を認められていた主体は、法令によって「労働者」とされる人々でした。また、労働権の主な客体は現代中国においても「賃金」でしたが、建国当初は生存権的な性質すなわち仕事はないが今日明日を生きるための食い扶持的な労働権の内容が定められていました。
その後、社会主義改造を経る中で労働対価(日本労働法学的には「労働(の)対償」)的な性格へと変化し、ここに労働権に関する権利関係の確立を見ることができます。現代中国法は、至極まともに「働かざる者、食うべからず」を実践させる労働権を確立しました(その後、臨時労働者を組み込むとか、出稼ぎ農民を組み込むとかして現在の姿になるのですが、今回のコラムで直接に関係するものではありませんから、省略致します)。2007年に制定した労働契約法(2008年1月施行)以前は、労働法が制定されようが関係する行政法規が策定されようが、この労働者か否かを基準とする権利関係にまったく変化しなかった点がポイントです。
中国労働契約法は「労働力を提供する人が、雇う側と労働契約を締結し、署名または押印すること」(16条)と規定しました。上述した経緯を踏まえると、この労働契約法16条が現代中国の労使関係において画期的な立法を行なったと言えます。身分に基づかず、かつ政府による労働契約の有効無効の考査を経ることなく(詳細は拙著を参照ください)、労使の間の合意によって「労働者」になれることを認めたからです(とはいえ、労働者であることが労働権を享有できるという権利関係は依然として存続しているとも言えます)。少なくとも、身分制的な権利論がかなり薄まっていることを見て取れるでしょう。
そうすると、現代中国法における大きな流れとして、身分制・身分的要素に基づく権利の付与から身分制・身分的要素に基づかない権利の付与へという流れが通底にありそうだという予測を立てることができます。時代錯誤も甚だしいとのご批判を頂きそうですが、これまでの法令条文を科学していった帰結ですから、致し方ないじゃありませんか(笑)。
民法総則は日本の民法総則と同じ?
ところで、「身分から契約へ」というお話を日本の大学で、特に法学部において聞くとき、大抵は近代化(私有財産の保障、契約の自由などの資本主義社会の要請)の思考に照らして自由主義(自由な個人を前提とする社会秩序を志向する)の文脈で語られることでしょう。つまり、個人が私法における法律関係にどのように組み込まれているかという視点から、当然のように講義が始まります(少なくとも私の学部時代はそうでした)。
そうすると、「民法講義」の第1回は当然に自然人と法人に関する語りです。高校を卒業したばかりの大学1年生のほとんどが圧倒されるだろうと思います。
中国の民法総則は、この自然人について「第二章 自然人」の章として規定しています。旧法である民法通則は「第二章 公民(自然人)」として規定していましたから、公民概念との決別かと言わんばかりに「自然人」の言葉が法文を埋めています。また、「法人」については民法総則も民法通則と同様に第三章に置いていますが、民法総則は個人事業者[個人工商戸]と農村請負経営者[農村承包経営戸]を「法人」の章に組み入れませんでした。実を取るか(その民事責任の大小に注目する)、形を取るか(その権利主体の形態に注目する)の問題において、民法総則は形を取ったのかもしれません。
さて、私の思い出も手伝っているかもしれませんが、唐突に自然人なり法人なりという権利主体について論じても分かりにくいでしょうし、民法総則を学んだことのある人であれば日本の民法総則と同じではないかと受け取られるかもしれません。事実、民法総則の第二章および第三章は、日本の民法総則で学ぶことと大差ないような規定の仕方をしています。そこで、民法総則が規定する権利主体を解説するにあたり2回に分けて論じることとし、今回のコラムではその前半部分として、自然人についてお話しすることに致します。
自然人とは
自然人という表記は旧法である民法通則においても「公民(自然人)」として存在していました。とはいえ、民法総則は、その法文において「自然人」を多用し、公民という言葉を用いていません。このように立法した立法者意思をどのように評価するかが今後の研究課題でしょう。ここでは民法総則が「公民」という表記を取り除こうとしている事実を確認するにとどめ、話を進めたいと思います。
そもそも自然人(natural person)とは、法的に権利能力が認められる社会的実在としての人間のこと。すなわち、生きている人間を指します。じゃあ人間で良いじゃないかとも思えるのですが、この辺りは民法総論(例えば、読みやすい書籍としては池田真朗『スタートライン民法総論』日本評論社2011年、近江幸治『民法講義Ⅰ民法総則』成文堂2012年など)か、法学(例えば末川博『法学入門』有斐閣2014年)の講義で考えてください(笑)。脱線しないうちに本線へ戻しておくと、「公民」表記の削除という事実がポイントです。
中国の歴代の憲法に照らせば、「公民」とは中華人民共和国国籍を有する人を指します(82年憲法33条など)。すなわち日本語で言うところの「国民」です。その一方で、中華人民共和国の一切の権力は「人民」に属すると言明しています(82年憲法2条など)。現代中国法研究に従事する人の間では常識(だと思いたいこと?)なのですが、現代中国法はその憲法において「公民(国民)」と「人民」を意識的に使い分けているのです。
そこで一つ、頭の体操をしてみましょう。上記の二つの概念に照らせば、(1)公民でない人民は存在するでしょうか。(2)人民でない公民は存在するでしょうか。この問いは、人民概念が公民概念を包摂するのか、それとも公民概念が人民概念を包摂するのかの問題ですね。日本の憲法学を学んだことがある人ならば、前者の理解で回答されるだろうと思います。しかし、現時点での正解は後者の理解です。現代中国法では公民概念が人民概念を包摂します。公民であっても人民でない人々の存在を中国の憲法上は承認しているのです。これが「作られた現代中国(のイメージ)」の悪い影響かと個人的には感じるところですが、本当に脱線してしまうため、ここでは立ち入らないことにします。
ということは、「公民」表記の削除と「自然人」表記の一般化は、(誰もが評価するように)民法総則を適用する範囲を従前よりも拡大させる画期的な立法であると言えます。例えば、現代中国で生活する人間であれば「(現代中国社会における)自然人」ということになりますから、当然に民法総則の適用を受けることになります。これが従前の現代中国法の考え方、中国的権利論の論理に照らせば大きな変化になり得ることは多言を要しないでしょう。
この論理を徹底するように、民法通則が規定していた渉外民事関係に関する章を民法総則はバッサリと削除しました。なぜならば、民法総則は自然人を基本の権利主体としたために、渉外民事関係と国内民事関係を区別する必要がなくなったからです。したがって、別途法令を用意しない限り民法総則の下で外国人も行動することが予定されています。わずらわしさが一つ減ったと言ってもよいかもしれません。
1月1日生まれは減るか?
さて、民法総則が「自然人」を基本の権利主体とすることにしたことを私たちは確認しました。自然人は生きている人間を指すのですから、その出生と死亡をどのように確定するかについて言明しておく必要があります。民法総則15条は(1)出生証明または死亡証明の記載を基準とし、それがない場合は(2)戸籍簿などの公的文書の記載を基準とするとしました。こうすることで出生日や死亡日を故意に改ざんする行為は減少するかもしれません。昔の日本においても故意に出生日を1月1日にしたり、死去日を何かの都合で調整したりといったことがあったそうですから、どんな社会でも考えることは同じなのでしょう。
ところで、日本法と異なる民法総則のユニークな点は、特定の場合に胎児に対する民事権利能力を肯定しているところです。これは従前の民法通則下でも運用されていたことなのですが。この特定の場合とは遺産相続や受贈などの財産権の譲渡先が胎児である場合です。
民法総則16条は、このような場合には胎児に民事権利能力があると見做すことを言明しました。いわゆる「見なし規定」です。なお、死産という場合がないわけではありませんから、同条の但書において死産の場合は遡ってその民事権利能力を存在していなかったことにするとしています。相続を例にしてみれば、生まれてから相続問題を片づけるよりは当該条文のようにして対処する方が合理的かもしれません。ちなみに、日本民法886条も相続に関しては既に生まれたものと見做すことになっています。
また、死亡については死亡宣告の申請と失踪宣告の申請が同時に提出された場合に死亡宣告を優先するという規律を確認しました。これは民法通則意見(1988年1月最高人民法院公布)の運用を踏襲したことを意味します。なお、死亡宣告が取り消された場合、すなわち死亡したと思われていた自然人が生きていた場合の規定についても民法通則意見の運用を踏襲していますが、故意に死亡宣告を発出された場合の財産返還については損害賠償を負わせるべきことも確認しています。生きていると知っていながら死亡宣告させて、その人の財物を奪い取るわけですから、当然の規定かもしれません。
このほか、18歳以上を成人とし(民法総則17条)、8歳から17歳までを制限能力者と(民法総則19条)、そして8歳未満を無能力者とする(民法総則20条)ことを言明しています。制限能力者や無能力者は法定代理人(例えば、両親)の同意による承認や代理行為が予定されていますから、このあたりの運用は日本民法と同じと考えて良いでしょう。
家族の絆とは
以上、民法総則の第二章の内容を概観してきました。スタートは社会における民事法律関係における権利主体をどのように規律するかという視点が色濃かったですね。それが、ゴールの方では家庭における民事法律関係における権利主体をどのように規律するかという視点が色濃くなりました。
色々な解釈の仕方があると思いますが、私はこのようなグラデーションについて、自由な個人を前提に社会秩序を構築するという考え方に基づいて考えていけば、まずは完全能力者である「成人」を中心に民事法律関係を規律し、次にこの「成人」の生死を考え、そこに権利関係の発生と消滅を一致させるように規律し、最後に「成人」以外の権利主体についてのそれを規律していくという思考になるのだろうと考えます。そうすると、民法通則が「公民」を中心に身分制的に規律していた従前のあり方は、そこへもう一つ余計な規律を無理やりに押し込んでいたものだったと言えなくもないでしょう。
では、民法総則の第二章は民法通則のそれにおける余計な規律あるいは喉に刺さった小骨のような論理を取り除いただけでしょうか。問題は、家族(特に核家族)・家庭という法律関係をさらに細分化し、すべてを「成人」という個人単位に分離独立させることが、民法のあり方として究極的に目指されるべきなのかどうかについて、どう考えるかにあると私は感じます。今回のコラムの最後に、少しこの問題に触れる次の規定をご紹介しておきたいと思います。
それは民法総則26条です。当該条文は2項から構成されており、同1項は「父母は、未成年の子女に対して扶養(する)、教育(する)、および保護(する)義務を負う」と言明し、同2項では「成年した子女は、父母に対して扶養(する)、扶助(する)、および保護(する)義務を負う」とします。なお、これらの規定は民法総則において初めて規定されたわけではなく、中国婚姻法21条と23条に同様の規律が既に言明されていたものを民法総則に取り込んだのです。
私が古い人間なのかもしれませんが、すべてを成人という個人単位に分離独立させると上記のような規定によって家庭の中まで法令が入り込んで来て、嫌な感じしか受けません。家族のあり方や絆は千差万別でしょうし、そこまで法令が立ち入るべきではないと思います。例えば、子のしつけ方も様々ですよね。自分の子が他の子どもを(故意でなくとも)ケガさせた場合に素知らぬ顔をして見なかったことにする親もいれば、一緒にアフターケアしようと躾させる親もいます。この場合、民法総則26条のような規定があったとしたら、間違いなく後者のやり方を一律に押し付けるのではないでしょうか。確かにそれは社会のあり方として在るべき正しさを有すると私も考えますが、言われたからやるという面白くない人間を増殖させることになりはしないでしょうか。それゆえに私は同26条から嫌な感じしか受けないのです。
「民法出でて忠孝滅ぶ」(穂積八束)とは、旧民法の施行を延期するか否かをめぐり彼の民法典論争の最中に『法学新報』へ上梓された論文です。この穂積論文は、ボアソナードを中心にまとめた旧民法が極端な個人本位の考え方を反映しており、日本古来のイエ制度が後退することを危惧し、延期を主張したものなのですが、民法総則26条を読み込む中でふと想起しました。
果たして、民法総則26条は本当に必要な規定だったのでしょうか。ひょっとすると私たちは彼の国の言論の中で「民法出でて忠孝滅ぶ」を目にするかもしれません。そうなったらもうデジャブ(既視感)のようですね。