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【18-003】憲法改正案から紐解く「夫・婦」の平等

2018年 3月14日

略歴

御手洗 大輔

御手洗 大輔:早稲田大学比較法研究所 招聘研究員

2001年 早稲田大学法学部卒業
2003年 社団法人食品流通システム協会 調査員
2004年 早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了 修士(法学)
2009年 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学
2009年 東京大学社会科学研究所 特任研究員
2009年 早稲田大学比較法研究所 助手(中国法)
2012年 千葉商科大学 非常勤講師(中国語)
2013年 早稲田大学エクステンションセンター 非常勤講師(中国論)
2015年 千葉大学 非常勤講師(中国語)
2015年 横浜市立大学 非常勤講師(現代中国論)
2016年 横浜国立大学 非常勤講師(法学、日本国憲法)
2013年より現職

「2期10年」規定削除の提案は本丸ではない

 先月末に中国共産党中央委員会が「2期10年」規定を憲法から削除する憲法改正案を提出するという報道が表に出てから皆さんの注目はこの点に移っているようです。毛沢東時代に戻るとか、民主化に逆行するとか、果ては現代の袁世凱になろうとしているなどと評価し、「2期10年」規定の廃止は習近平の権力をより強固にするため「脅威である」といった指摘や「中国の人々に気づいて欲しい」といった指摘が多いと私は感じます。

 発端となった「中国共産党中央委員会関於修改憲法部分内容的建議」(2018年1月26日、新華社2月25日)を確認すると、本当にそうなのかという疑問が生じます。なぜならば、現行憲法79条3項は「中華人民共和国主席及び副主席の毎期の任期は全国人代の毎期の任期と同じで、連続して2期を超えてはならない」(筆者訳)と定めるのですが、今回の憲法改正案は、この後半部分を削除しようという提案にすぎないからです。確かに3選禁止という「世界的な潮流」に逆行するようにも言えますが、国家主席と副主席の任期を全国人代の任期と同じにするとも言えます。なお、この論理に照らせば、今回の憲法改正案で同じく提出する監察委員会の任期を2期10年とすることとの整合性もとる必要がありますが。

 何となく日本の中国脅威論や中国崩壊論の類いの共通項が見えてきたように思います。要するに「世界の潮流」に逆行することを絶対悪として評価し、反応しているだけのように思われます。異文化理解が大切であると日本でも言われて久しいですが、それが定着していないことの証左ではないでしょうか。例えば、今回伝え聞く限りの憲法改正案であるならば、国家の舵取りが下手なトップは5年で交代させるという論理と腐敗不正を監視する監察委員会が腐敗や不正の温床に堕させないための3選禁止であるという論理は、清廉政治や政治的緊張の維持という国内政治の大原則の下で整合すると私は考えます。

 ちなみに、5年というのは最高国家権力機関である全国人代の毎期の任期を5年としていることによります(現行憲法60条)。したがって、(現行の選挙制度に問題がないとは言いませんが)人民を主人公とする現代中国における主権者の意思の反映をより反映させるためのステップであるとも評価できるのではないでしょうか。いずれにせよ「(それは)中国が考える」ことであって、確定する前に頭ごなしに否定するのは合理的でないと思われます。

 現行法によれば、憲法改正は全国人代常務委員会または5分の1以上の全国人代の代表が提案し、全国人代で全代表の3分の2以上の多数の可決を必要とします(現行憲法64条)。仮に憲法改正案が否決されようものなら日本の中国脅威論や中国崩壊論の論者は狂喜乱舞しそうですが、確定するまでは中国の議論を傍観しては如何でしょうか。

本丸は「党の指導」の制度的保障にある

 ところで、個人的には現時点でも彼・彼女らが狂喜乱舞できそうな提案内容があると感じるのですが、こちらは反応が薄いというか殆どないようです。それは現行憲法1条2項にもう一文追加し、四つの基本原則の一部であった「中国共産党の指導」を完全合法化するという提案です。四つの基本原則自体は現行憲法の前文にすでに言及がありました。しかし、今回の提案は、その一部を憲法条文として組み入れるというわけですから、こちらの方が政権交代の可能性を制度的に保障することを民主主義社会であると理解する彼・彼女らにしてみれば「民主化に逆行する」ことになりはしないでしょうか。改正案曰く「中国共産党の指導は中国の特色ある社会主義の最も本質的特徴である」ですよ!?

 制度的保障とは、一定の制度そのものを保障することです。制度的保障のポイントとしては、立法によっても奪うことのできない「制度の核心」内容が明確で、制度と人権の関係が密接であるものに限定しなければ、制度的保障を与えることによって、逆に人権の保障を弱めることも可能である点にあると私は考えます。例えば、財産権の保障の制度の核心を生産手段の私有制にあるとすれば、私有制を公有制に転換すること自体が制度的保障によって論理的に不可能と言えますから、憲法改正が必要になります。が、この制度の核心が、人間が人間たるに値する生活を営む上で必要な物的手段の享有にあるとすれば、私有制を公有制に転換しても制度の核心は損なわれませんから、憲法改正は必要でないことになります。要するに、この憲法改正案は、中国的社会主義における制度の核心が「中国共産党の指導」であることを言明するものだということです。

 なお、四つの基本原則が現行憲法の前文に記載された経緯を手短に紹介しておくと、1979年初以降に魏京生らが思想解放の動きを見せる中で、超えてはならない一線として鄧小平の示した内容が端緒です。すなわち、①社会主義の道、②プロレタリア独裁、③共産党の指導、および④マルクス・レーニン主義と毛沢東思想の4つは中国の国民[公民]が必ず順守しなければならないと示したルールが「四つの基本原則」です。ちなみに、この源泉は反右派闘争において毛沢東の示した「毒草と香花を見分ける六つの政治基準」であり、この6つの項目から「人民の団結」と「社会主義の国際連帯」という2つの項目を除けば四つの基本原則とピッタリ重なります。

 この話だけでも今回のコラムは完成しそうですが(笑)、今回は、採択した後の展望について、(まったく無関係のように思われるだろう)夫婦連帯債務に関する最新の司法解釈を題材にして中国的権利論の根本を確認しながらお話してみたいと思います。というのも、(A)現代中国の裁判官個人に解釈裁量権がないこと、(B)法的拘束力なるものの内容が日本とは異なること、この2点について質問されることが多いのですが、私の力量不足で十分に説明できていないと日々反省しているところだからです。この題材を使ってこの2点を説明し、一般化しつつ今回の憲法改正案がもたらすものを論じてみたいと思います。

最新改正は「夫・婦」の平等を再確認したもの

 今回取り上げる司法解釈は1月17日に最高人民法院が公表したもので、名称は「夫婦債務紛争案件の審理における法適用に係わる問題に関する解釈」(以下「当該司法解釈」)です。管見の限り日本でも好意的に評価する論調が多いように思われます。そもそも中華人民共和国婚姻法(婚姻法)は1980年9月に全国人代が採択し、2001年4月に部分改正した後は最高人民法院が公表する司法解釈によって4度の修正を経ていました(2001年、2003年、2011年および2017年)。当該司法解釈は5度目の修正であり、婚姻法の最新改正であると言っても良いかもしれません。

 最高人民法院が公表するに至った理由としては、投資により生じる債務のリスクが不断に高まっていることに加えて夫婦連帯債務の認定基準や挙証責任・証明責任などの解釈上の問題を根本的に解決していないこと、そしてここから生じている問題が社会で広く注目されているから、ということのようです。結婚して夫婦になれば(もちろん法定婚ですが)、苦楽を共に乗り越えるものだと一般に考えるとしたら、どんな債務であろうとも夫婦連帯債務とすべきでしょう。それを一方だけに負担させるべき場合があるとしたら、どんな法的論理を用いて法令や判例との論理整合性を確保する解釈が可能だろうかと裁判官個人が知恵を出して判決文をしたためるはずである、と恐らく日本では考えることになるのではないでしょうか。さらに最高裁判所が何らかの認定基準や挙証責任・証明責任について科学的に指針を文字化して示してくれたうえで法廷審理に臨むということは有り得ないでしょう。

 現代中国法(主に民法総則、契約法、婚姻法)では、結婚しようがしまいが夫婦は平等であるという法的論理を堅持します。つまり、男女が結婚した後でも夫婦双方の独立した人格や法的地位は否定しないのです。これを私は「夫・婦」の平等原則と説明することにしています。夫と妻は法的には対等なのであり、結婚という契約を締結したにすぎないことになるわけです。そうすると、結婚した後に夫婦の共有財産になったとしても(日常生活に必要な債務については結婚契約上の履行義務が当然に生じますが)、一方の負う債務が日常生活において必要な債務を大きく上回る場合は、その債務の負担に同意しない限り負担すべきでないという帰結になり得ますね。

 そして、この法的論理に照らせば、伴侶の同意があったかどうかを融資する側(銀行や高利貸など)は慎重に判断すべきであるとの判例を裁判官個人が解釈裁量権を通じて確立していけそうなところですが、これを当該司法解釈で解決したわけです。言い換えれば、裁判官個人に判例を創造させなかったのであり、裁判官個人は当該司法解釈を携えて法廷審理に臨むことになります。それゆえに現代中国法は依然として裁判官個人に解釈裁量権を与えていないことの証左であると私は考えます。

「日常家事」と裁判官個人の解釈裁量

 では、法的拘束力についてはどう説明できるでしょうか。

 当該司法解釈は、夫婦が婚姻関係にある期間中に、その個人の名義で日常生活の必要のために負った債務について、債権者が夫婦共同債務であることを理由に権利を主張する場合、人民法院はこれを支持する(2条)。しかし、それが日常生活の必要を超えて負った債務で、債権者が夫婦共同債務であることを理由に権利を主張する場合、人民法院はこれを支持しない。但し、債権者が、当該債務が夫婦の共同生活や共同経営に用いられたこと、または、夫婦双方の共通の意思表示に基づくものであることを証明できた場合を除く(3条)と言明しました。

 ポイントは「日常生活の必要」となる債務、すなわち「日常家事」とは何かにあります。現時点で最高人民法院としては、国家統計局の公表する基準に照らして①食糧費、②衣料費、③設備・修繕費、④医療費、⑤交通通信費、⑥教育・サービス費、⑦居住費、および⑧その他商品・サービス費の8つの費目を日常家事として把握するようです。つまり、この8つの費目に属するものであれば一応日常家事に該当すると推定し、この枠内にあるかないかという意味で法的拘束力が発揮されると考えることができます。

 これに関連して、最高人民法院は、当該司法解釈を公表した直後に念のためにとでも言いたげに、人々の生活は多種多様になっており、(農村の請負事業者なども含めて)夫婦の共同生活の状態や現地の慣習なども考慮して認定することは当然であるとのコメントを発しています。要するに、社会の変化に適応するように日常家事の内容を修正する限りで現場の裁判官個人に解釈裁量の余地がないとは言わないが、有効としている司法解釈や法令の枠内を逸脱しないように注意せよと確認していると私は感じます。

 ところで、日本の法学・法律学では、裁判官による裁判と神意裁判(例えば、ワニ裁判や盟神探湯など)の比較を通じて中立公正とは何かを学ぶことがあります。大事なポイントは正邪の判断を神・自然に委ねることを中立公正と考える論理もあるということなのですが、もう1つ大事なポイントとして、私は如何に私情を挿ませないかが中立公正の実現に欠かせない論理であるということを知ることにあると考えます。裁判を担う裁判官は、現時点でAIが担っていません。裁判官も気持ちよく人間なのです。人間が担う以上、私情をまったく挿まない理想を目指して法廷審理に臨み、判決を下しているのではないでしょうか。

 現代中国における法的拘束力とは、如何に私情を挿ませないかから出発した内容を有するように私には感じられます。それゆえに、すべてを法令(司法解釈を含む)に準拠させるべく立法過程が社会の諸関係におけるかすがいとなり、政治化するのではないでしょうか。

 また、これは日本でも同じことが言えると思われますが、法廷審理で真相が完全に明らかになることもあれば、結審後になってようやく真相が明らかになることもあるでしょうし、事後でも真相が不明のままということもあるかもしれません。ここで私が言いたいことは、何が事実かを認定する時点で私情が多少とも挿まるということです。したがって、良いパフォーマンスを実行して裁判官個人の心証を害さない方が勝訴する可能性を高めると言えますが、それは同時に中立公正とは何かの問題に戻ることも意味しますね。

 以上の次第で、当該司法解釈の意義をまとめておくと、次のように言えると私は考えます。すなわち、「日常家事」という枠組みを示し、その判断基準を言明したことによって裁判官個人の私情を可能な限り挿ませないようにした点、同時にこの枠組み内における内容を充実させるための「解釈裁量」については容認する姿勢を示している点が当該司法解釈の要点です(これを解釈裁量権として認めるかどうかは今後の課題です)。そして、この枠組みは維持されるはずですから、この枠組みをふまえて今後を展望してゆくことが重要です。

 例えば、下級審が下す判決についてはこの枠組みを外していないかが確認すべきポイントであり、外していない論理については(どこかの時点で)司法解釈などを通じて立法されるため(学問的には)面白くないですが、リスク管理としては必要な確認と言えます。また、この枠組みを外している論理については、上訴審で大抵は修正されるでしょうが、その経過を追跡する必要があります。なお、枠組みを外した論理をもつ判決を下した裁判官個人やその判決自体については人事面(例えば、人事考課や人事査定など)や執行面(例えば、判決の履行や強制執行など)で中国的権利論がサポートできない事態ですから、(学問的にも)面白い事象に遭遇できるかもしれません。

今回の憲法改正がもたらすもの

 さて、今回のコラムでは、当該司法解釈を題材に、現代中国の裁判官個人に解釈裁量権がないと言えることと法的拘束力の意味合いが日本と異なることを説明してきました。司法解釈もそうですし、冒頭で紹介した憲法改正案も全国人代が採択してしまえばそうなのですが、いずれも法令であることがポイントです。法令として合法化した後は、その合法化した境界の中であればその利用は(自律的自由という意味で)自由というわけです。この法理論の基礎は中国的権利論にあります(中国的権利論そのものについては以前のコラムで紹介しましたので、そちらを参照ください)。

 中国的権利論に照らせば「2期10年」規定の削除を正邪の邪一辺倒で評価することは難しいです。(私たちから見れば)「悪法」かもしれませんが、人民の代表が組織する全国人代が採択してその削除を認めたのであれば、それが中華人民共和国の主権者の総意であると言わざるを得ないからです。まさしくそれは中国が決めることではないでしょうか。個人的には全国人代議事規則などに照らして国家主席や副主席などの選出方法が今後どのように変容するのかを見定める必要があると思います。

 ところで、今回の憲法改正案において私が最も関心をもつのは1条2項の追加規定であることを冒頭で述べました。ついに憲法条文として「中国共産党の指導」を言明するからです。この追加規定が「法的拘束力」をもつことは言うまでもありませんが、中国共産党の指導(俗に「党の指導」とも言われる)とは何かが、解釈裁量権の射程範囲に入ってきたとも言えます。ちなみに、中国共産党の指導について、日本における現代中国研究が一般に論じてきたのは、それが党グループ[党組]、党内の各部会[対口部]、および幹部人事の管理にあるということでした。分かったようで解り難い文字化でした(大枠を外しているとは私も思いませんが)。この憲法改正を機に、合法化した「中国共産党の指導」という境界の中での自由の行使が、面白い事象を私たちに示してくれるかもしれません。