【08-03】私の日本留学履歴書
朱 寧 (静岡理工科大学理工学部機械工学科) 2008年2月20日
1.日本へ
1990年5月末、24歳の誕生日が過ぎたばかりの私は北京を発ち、日本へやってきた。当時、中国には、自分の未来について迷っていた学生達は大勢いたが、外国で留学できる人数はそれほど多くはなかった。/ / この点からみると、私はとてもラッキーだった。
大学在学中、まさか自分の留学先は日本になるとは思わなかった。80年度後半、おそらく留学先にアメリカを選ぶ大学生が多かったのではないかと思われ た。同級生には、欧米留学志向が高く、T OFEL600点、GRE1800(注1)点を目標にして、英語を猛勉強した人が大勢いた。私もその中の一人だっ た。
しかし、最終的に日本を選んだ。偶然か必然かは、私には分からないが、いまでも、運命とは不思議なもの、とつくづく感じている。
初めての飛行機のため、あるいは、初めての留学生生活への憧れなのか、私は興奮と不安の交錯した気持ちで一杯だった。それに気づいた隣席の中年男性は、 私に優しく声を掛けてくれた。"It is your first time to Japan?"。これを聞くと、私はとても嬉しかった。そのとき、日本語が殆どできなかった私は、その一言で、不安から解放されたような気がした。その 後、英 語や漢字筆談、また、私にはほんの少ししかできない日本語で交流を進めた。男性は京都出身のカメラマンで、京都と奈良の町風景や日本と中国の歴史的 かかわりなどなど親切に教えてくれた。彼のお陰で、愉 快な空の旅を過ごした。
大阪空港で、彼に別れを告げると、「朱さんはきっと成功するよ」と言ってくれた。温かいこの言葉は私の日本での留学生活において励ましの源となり、どんなに苦しいときにも、この言葉を思い出すと、も っと頑張ろうという気持ちが強くなるのだった。
2.留学生活
私の留学先は三重大学工学部加藤征三教授の熱工学研究室だった。最初の半年は、研究生の身分だった。研究生の期間中、日本語の習得や大学院入学試験合格は主な目標だったが、一 人の4年生と一緒に熱電発電による水分解の研究なども行った。
留学最大の壁はやはり日本語だった。教官や事務員との交流、日本語で書かれた研究文献の検索、日常生活などあらゆることろで、日本語を使わざるを得ない場面に出会う。このため、私は、で きるだけ早く日本語を覚えたいとの気持ちがとても強かった。
文法、単語、会話練習など、毎日、日本語漬けの生活だった。夜11時、アルバイトを終えてから、留学生会館の図書館で深夜3時まで勉強に没頭するシーンは今でも鮮明に覚えている。
半年後の12月に、日本語能力1級試験にチャレンジすることにした。合格できなかったが、日本語に関しては、私には大きな自信がついた。
私は私費留学生だった。日本に到着したとき、両手には持っている日本円は0だった。当時、中国では外貨が厳しく管理され、留学で日本に来るときに は、最大8000円しか交換できなかった。私 は最高額を換えたが、飛行機に乗るとき、本を入れすぎたため、荷物の重量超過で罰金を払うことになり、それ で、全財産の8000円が幻と消えた。
日本到着後、親戚から借金し、最初の入学金と授業料を払った。アルバイトをせざるを得なかった。
皿洗い、アサリの運び、金属工場の従業員、プールの監視員、英語の家庭教師などなどの仕事を体験した。
アルバイトで得た収入は、授業料や生活費に当てたあと、残りはいつも僅かだった。ときには、母国にいる家族や友人に電話しようと思ったことがあったが、高い電話代が気になり、受 話器に触れかけた手をひっこめる。異国他郷での留学は孤独だった。
それにしても、アルバイトを通じて、授業料や生活費を自力でカバーする事だけではなく、普通の日本人と交流する機会が増え、日本の社会をもっと理解できるようになった。
留学生のアルバイトについて、学業をなおざりにする可能性が高いから、反対意見が多いと見られる。私の考え方では、やはり勉強とアルバイトのバランスが とれているかどうかがポイントだ。勉 強を目的とする留学ならば、留学生は、誇りをもって勉学に打ち込む傍ら、生活をキープするためのアルバイトにとどめる べきだと思う。
博士課程2年生のとき、タイのチェンマイ大学で開催される三重大学、中国の江蘇理工大学、そしてチェンマイ大学間の3大学学生国際フォーラムに参加するこ とができた。こ のシンポジウムは三重大学の加藤征三教授と生物資源学部の伊藤信孝教授の強力な推進でできたものだった。学生たちは、英語を用いて、環境、 人口、エネルギー、そして食料について発表・討論した。また、シ ンポジウムにて、異国文化に触れるほか、中国やタイの学生と楽しく交流もできた。
伊藤先生が、「アジアの若者は、人類共通の問題を共有し、お互いに交流・、理解したら、戦争は起こらないはずです」とおっしゃった言葉には大変共感を覚えた。
3.異文化との出会い
外国人にとっては、日本での生活は異文化と接することになる。国民性による考え方、生活習慣、歴史などの違いで、誤解を招きやすいことはしばしばある。と くに、日 本と中国は昔から友好往来があったわけで、文化的な共通性を有する一方、違いも数えられないほどたくさんある。ちょっとした思い違いで、失笑を買 うこともある。
私は小説を読むのが好きで、来日前に、1930年代頃、日本に留学していた中国出身の文人たちが書いた当時の日本の風情や風俗に関する散文を読んだこと がある。とくに、日 本の混浴について大変興味をもった。ご存知のように、男女混浴とは中国ではとても想像できないもので、日本では、本当にできるのかと私 は半信半疑だった。日本人の友人にいろいろ確認してみたが、「 昔の混浴はもう普及していないよ」と言われた 。ところが、三重大学在学中、私が和歌山県にある混浴で有名な仙人風呂温泉へ行く機会をえた。そこは、想像した混浴ではなかった。若者はみんな水着を着た まま、温 泉に入ったが、年寄達は若者を横目に、従来の混浴温泉を楽しんでいた。少々落胆したけど、愉快な温泉を体験することができた。
また、三重大学には、豚のハツを買おうとする留学生がいた。肉屋さんに入ったら、豚のハツは表には置いていなかった。豚のハツの正しい日本語表現を知らな いこの留学生は、思わず店員に、「 豚の心はありませんか」と問いかけたそうで、驚愕した店員の顔を想像できるだろう。
日本語の「心」とは、抽象的な意味しかなく、臓器として表現するときに、必ず「心臓」や「ハート」を用いることになる。一方、中国語は、食べ物に関して は、表現の柔軟性をもっている。豚 のハートである「猪心」は「猪」+「心」で表現できる。この留学生は中国語の表現をそのまま日本語に当てはめようとした ため、このような可笑しい言葉が口を滑って出ることになった。
4.研究について
三重大学工学部修士課程に進学してから、「超音波を用いる3次元環境場分布計測システムの構築」という研究テーマについて研究し始めた。加藤先生 の研究室では、このテーマは新規で、研 究資料が少なかった。最初の半年はほとんど方向性模索的調査および基礎研究だった。加藤研究室では、毎週、月曜日の 午前、研究室セミナーがあった。セミナーのときに、事前に書いた研究報告書を提出したうえ、先 週の研究目標、研究経過、主な研究成果、そして、来週の研究 目標を皆の前で報告する。毎週、これが一番緊張する瞬間でもあった。緊張した理由には、成 果がなければいけないというプレッシャーと日本語で報告できるか どうかの自信のなさがあった。このセミナーのお陰で、徐々に、プレッシャーは自信に変わっていった。また、日 本語で専門用語も少しずつ使いこなせるように なった。
研究には走査用Step-inモータの制御回路および駆動回路が必要だった。私は調べた資料をもとに、電子部品を使って回路を作ることにした。出来上がっ た回路で、何回やっても、モータが動いてくれなかった。失敗の連続だった。このように何日も深夜まで研究室にいて、回路のチェックに励んだ。ある日、突 然、モータが動いた。一回、二回、三回、モ ータが入力したパルスの数に応じて軽やかに動き出した。その瞬間、私は有頂天になった。
その後、コンピュータートモグラフィ(CT)法は場の断面分布計測に有効だと、資料調査で分かってから、私はすぐCT再構成アルゴリズムを含む画像処 理、超音波の特性、音速と温度、濃 度の調査など基礎研究を行ったうえ、測定システムを構築し、実際の温度分布や炭酸ガス分布の測定に成功した。さらに、不 完全投影の測定状況を想定し、投 影角度が制限される場合における超音波CTによる温度場の計測法を提案・検証した。
この研究業績をもって、私は1996年4月博士号を取った。また、1998年日本可視化情報学会技術賞、それから2000年に日本機械学会奨励賞の表彰を2度受けた。
1996年4月、私は静岡理工科大学に着任した。自分の研究室を持つようになった。毎週、セミナーを行うときに、加藤研究室の伝統である研究報告書の提出と口頭報告をいまでも続けている。
5.連携研究ネットワークの構築へ
2000年、中国科技大学火災科学国家重点実験室蒋勇博士の推薦により、中国国家自然科学基金委員会から援助をえて、私は高級訪問学者として中国 科技大学を訪問した。この訪問を契機に、私は、蒋 勇博士と火災解析や火災源探知などについて共同研究を始めた。また、蒋勇博士が中国安徽農業大学工学院の 王継先院長を紹介してくれて、中国安徽農業大学との研究情報交換も行ってきた。さらに、日 本で行なわれる学生ソーラーカーコンテストや学生フォミューラー 大会などのイベントを通じて台湾高雄国立応用科技大学のAi He Chang教授や台湾南台科技大学のChang Wei Chin博士と知り合い、研究情報だけでなく、国際連携による大学院生の教育システムづくりまで話が及んだ。
このように、私は、研究活動をしながら、国際学術交流を通じて、国際、特にアジア圏における研究と教育のネットワークを広げていくことに傾注している。 なぜなら、環 境問題やエネルギー問題は決してひとつの国だけで解決できるものではなく、様々な国の研究者が力をひとつにして取り組むべきで、国際連携によ る対策がとても重要であると考えているからである。
2007年8月、私は在日中国人博士協会が主催した「百名博士が江蘇省へ行く」(中国語では、江蘇行という)イベントに参加した。訪問先で、私 が目にしたふるさとでもある江蘇省の凄まじい変化に驚きを隠せなかった。
1990年、私が来日したとき、日本は、バブル経済がはじけ始めた頃だった。その後、「失われた10年」といわれた平成不況が続いていた。一方、中国は、私が江蘇省で見ていたように、開 放改革政策のもとで、著しい経済発展を成し遂げてきた。
現在、日本は、社会の成熟化につれて、少子高齢化が引き金となり引き起こした年金・福祉問題や労働人口減少の問題、また、企業の海外進出による産業空洞 化問題などに直面している。それに対して、中 国は、経済の発展に伴った環境問題、エネルギー問題、格差問題などが山積している。
中日両国は、それぞれの問題を抱える中、双方の長所と短所を知り尽くしたうえで、信頼と信用をもとに、両国の国益に沿った連携対策を取れれば、問題解決 の可能性が十分あると考えられる。そのため、私 は大学に勤めている一人の研究者としてこれからの研究活動や教育活動において一層努力してまいりたいと思っ ている。
6.終わり
光陰、矢のごとし。来日してから、すでに18年が経った。18年前、偶然の理由で日本を選んだ私は、自分が運命を選んだようだったが、日本に来てから、現在に至るまでは、運 命が私を選んだような気がして仕方ない。
日本での生活を振り返ってみると、私は恩師、同僚、友人など沢山の方々に見守られてきた。彼ら抜きに自分の履歴書を語るなんて意味がないだろう。だか ら、私は、こ れまでに私を支えてきた皆様に対しては、感謝の気持ちが一杯で、また、これからもこの気持ちを忘れずに、他人に役立てる人生を過ごしてゆきた いと考えている。
注1:GREとはアメリカの大学院留学に必要な適性試験である。
朱 寧:
静岡理工科大学理工学部機械工学科講師
略歴
1984年9月--1989年7月 清華大学熱能工程系、学士
1990年5月--1991年3月 三重大学工学部機械工学科研究生
1991年4月--1993年3月 三重大学大学院機械工学研究科、修士
1993年4月--1996年3月 三重大学生物資源学部博士課程、学術博士
1996年4月 静岡理工科大学着任、現在に至る。