日中交流の過去・現在・未来
トップ  > コラム&リポート 日中交流の過去・現在・未来 >  【17-04】『歴史が未来を語る』―中国で活躍する日本人科学者・栗原博の述懐

【17-04】『歴史が未来を語る』―中国で活躍する日本人科学者・栗原博の述懐

2017年5月29日

楊保志

楊保志(風生水起)(編集):広東省科技庁科技交流合作処副調研員

河南省潢川県出身。入学試験に合格し軍事学校に入学。26年間、軍務に就き大江南北を転戦し、その足跡は祖国の大好河山に広くおよび、新彊、甘粛、広東、広西、海南などの地域で銃を操作し弾を投擲した。メディア、組織、宣伝、人事などに関する業務に長年従事し、2013年末、広東省の業務に転じた。発表した作品は『人民日報』『光明日報』『中国青年報』『検査日報』『紀検監察報』『法制日報』『解放軍報』『中国民航報』などの中央メディアの文芸・学術欄に、また各地方紙、各軍関連紙軍兵種報紙にも掲載され、『新華文摘』『西部文学』『朔方』などの雑誌や、ラジオ、文学雑誌にも採用され、"中国新聞賞"文芸・学術欄銀賞、銅賞をそれぞれ受賞し、作品数は500篇に迫る。かつては発表を目的に筆を執っていたが、現在は純粋に「自分の楽しみ」のためとしている。


栗原博(口述):曁南大学教授、博士課程指導教員

中国系日本人科学者。曁南大学教授、博士課程指導教員。曁南大学中薬・天然薬物研究所副所長。日本の北里研究所や科研製薬、サントリー株式会社研究センターなどでのポストを歴任し、薬学研究活動に従事。
2003年に曁南大学に就任後は、100本余りのSCI収録論文を国際雑誌に発表し、30件余りの特許を申請・取得している。2011年には「中華人民共和国国際科学技術協力賞」を獲得し、2012年には「広州市栄誉市民」に認定されている。

 車が京都の古い町並みを抜け、山がちの丹波に入った。道路の両側には山々が連なり、薄い霧が立ち込めて、遠くを見ると空にまでつながっているようである。

 京都から出発して一時間ほど経って、広々とした海が見えてきた。舞鶴港である。果てしなく連なる波が、青い空と白い雲を支えている。透明ですがすがしい光が海面に映る。なんと美しいのだろう!

 遠い沖合にぽつりぽつりと見える白い帆は、青い玉に散りばめられた真珠のように、傾きかけた日差しの中を動いている。舞鶴港の埠頭では、カモメたちが宙を舞って追いかけ合い、船の間で真っ白くすばしっこい姿が見え隠れする。豪華客船がゆっくりと動いている。何羽かのカラスが帆柱に止まってのんびりと夕日を浴びている。何羽かの水鳥が時折、青い海と甲板の間を飛んでいく――。ああ、これが舞鶴港か!私が昼も夜も思い続けて来た舞鶴港!

 静かな舞鶴港をゆっくりと歩きながら、私は、魅惑的でひっそりとした景色にひたった。どこまでも広がる日本海を眺め、無情にも過ぎ去った歳月を思った。

 第二次世界大戦後、1946年5月7日から1948年9月20日までの約3年、舞鶴港には、100万人とも言われる日本人居留者・捕虜が中国から降り立ち、これは「世紀の大帰還」とも言われた。また国民政府は当時、戦後の経済復興の必要を満たし、中国東北地方の工業・産業を維持するため、日本人技術者を呼ぶという措置を取った。当時の瀋陽日本人会は、中国でのこの仕事に参加できる日本側の技術者1万2092人の名簿を東北行轅(国民政府の地方軍機構)に提出した。第二次大戦中、鉄道や鉱山、電力、運輸、学校、医薬衛生などの分野で、中国で働いていた各種の日本人は30万人余りにのぼっていた。1952年になっても、日本人居留民は依然として3万人を超えていた。

image1

(「帰心矢のごとし」の心境で舞鶴港に降り立った日本人居留民ら)

 日本人居留民の帰国の願いをかなえるため、周恩来総理は、日本人居留民の帰国事業を廖承志同志に全面的に担当させ、毛沢東主席もこれを支持した。国際環境が極めて複雑で、日本政府とは外交関係がない状況の下、中国政府は中国赤十字会を通じて、日本赤十字会と日中友好協会、日本平和連絡会の3団体を中国に招き、日本人居留者の帰国問題を協議することを決めた。廖承志は中国政府を代表し、日本側と何度も交渉した。その結果、中日双方は1953年3月5日、「日本人居留民の帰国援助問題に関する共同コミュニケ」を発表することとなった。

 廖承志氏はこの日、塘沽港に入った興安丸に自ら乗り込み帰国する日本人居留者を送り、中日友好の架け橋と促進役になってほしいと彼らを励ました。興安丸などの日本の船舶はその後、相次いで中国にやって来て、約3万5千人の日本人居留民を帰国させた。1972年9月29日に中日両国が正式に国交を正常化する頃には、日本人居留民はほぼすべて日本に戻っていた。中国政府による日本人居留民の帰国支援は、日本社会で大きな反響を呼んだ。周恩来総理はかつてこれを、「ほとんどの人が帰国を実現した。(中略)これは我々の友好の種だ」と振り返っている。

 中日両国は切っても切り離せない関係にあり、数千年に及ぶ伝統文化と友好的な交流の過去がある。日本の中国侵略戦争は、中国人民に厳しい災難をもたらしただけでなく、日本人民にも大きな被害を与えた。戦争は、中日両国間の伝統的な友情と相互信頼を破壊し、両国人民の共同利益を損なった。戦後、両国は社会制度こそ違うものとなったが、ほとんどの日本人が中日の歴史を直視し、中国文化をたたえ、平和を愛するようになった。1978年の日本の世論調査では、78.6%の日本人が中国に親近感を持っていたという。中日関係は現在、アジア太平洋地域の発展と世界の平和・安定の維持にとりわけ重要となっており、中日の人民が友好的な関係を持つことこそが、大きな流れとなっている。

 舞鶴港のとどまることのない波を見つめながら、この港が近代中日関係史に果たした特殊な役割を思うと、日本人帰国者をいっぱいに積んだ興安丸が舞鶴港に入ってくる当時の情景が見え、平和を求める興安丸の汽笛の音、戦争はやめようと訴える帰国者らの声が聞こえるようであった。

image2

(大量に帰国した日本人居留民らは悲喜こもごもだった)

 舞鶴港に対して私が強い思い入れを持っている理由の一つは、私の母が当時、日本人居留民の帰国・家族訪問事業に参加し、組織者の一人となったという経緯がある。1957年の当時、中国で仕事をする日本人はもう少なくなっていた。そうした日本人の中には、戦争の時代に中国革命に参加した旧兵士もいたし、新たな中国の建設に参加しようと積極的にやって来た技術者もいた。彼らは長い歳月の間に、中国人民と深い感情を育んでいた。

image3

(栗原博の母、栗原悦子。当時、日本人居留民一人ひとりの順調な帰国のために心血を注いだ。)

 中日両国にはまだ外交関係がなく、当時の日本政府は、日本人が中国で働くことにあまり賛成しておらず、日本人居留民の帰国や家族訪問にも熱意はなかった。だが日本赤十字会と日中友好協会、日本平和連絡会の3団体が日本政府に何度も掛け合ったこと、また日本社会の広範な世論の支えや中日友好という国民的なブームの影響があったことから、日本政府は、各種の条件を検討した後、天津の塘沽港に興安丸を派遣し、帰国・家族訪問を求める日本人居留民を迎えることを決定した。

 5月12日の早朝、真っ赤な太陽が海面から笑顔をのぞかせ、爽やかな海風が吹いていた。静かだった塘沽港は徐々に忙しさを取り戻し、新たな一日の到来を迎えていた。

――ボー!ボーッ!

image4

(出航する船)

 興安丸は、多くの子どもたちを含む800人の日本人居留民を乗せ、汽笛とともにゆっくりと塘沽港を離れ始めた。甲板に立った人びとは、名残惜しそうに埠頭に向かって手を降り、だんだんと遠くなる塘沽港と見送りの人びとをいつまでも眺めていた。

――ボー!ボーッ!

 興安丸が4日余りの航海を経て舞鶴港にゆっくりと入っていったのは昼頃だった。埠頭はすでに黒山の人だかりだった。東京や横浜、大阪、神戸などからも、中国からの帰国者や在日華僑が集まった。興安丸は、中国の五星紅旗や中国の歌によって迎えられた。離れ離れになって久しい家族や友人らは涙を流して親しい人との再会を果たした。

 母はそのまま東京に戻り、各種の中日友好交流活動のために忙しく働き、参加した。多くの取材を受け、座談会に参加し、自らの体験で歴史を振り返り、新たな中国の状況を紹介し、中国の政府と人民が示している友情を語った。母は、中国での仕事や人生の意義を語り、中日間でもっと交流することを呼びかけた。日本人居留民の帰国・家族訪問の間には、日本の新聞や雑誌、ラジオなどのメディアも関連情報を伝えた。新生中国は再び、日本の人びとにとってのホットな話題となった......。

image5

(舞鶴港で。若い母親と二人の子どもは、遠い山の向こうからの声を待っているのだろうか?)


 訪問期間は瞬く間に過ぎ、中国に戻る日が近付いてきた。母は毎日、数百人の帰国・家族訪問者と電話で連絡を取ると同時に、中国に帰る船と時間について日本政府と交渉した。だが日本政府は、帰国・家族訪問者が中国に戻ることには冷淡で、賛成している様子はなかった。さまざまな言い訳を駆使して、興安丸は都合が悪く、ほかの船も用意できないのだと主張した。

 母は日本政府と粘り強く交渉する一方、日中友好協会などの3団体にも支援を要請し、北京の李徳全部長(衛生部)にもすばやく事情を報告した。その結果、中国政府と日中友好協会など3団体の共同の努力の下、日本政府も協力に応じ、帰国・家族訪問者らは、第三国の船舶を臨時で借り、予定通り舞鶴港から中国に戻ることとなった。

 舞鶴港で繰り広げられたはずのそうした苦労話からももはや半世紀以上が経っている......。

 改革開放を経た中国は現在、世界の大国の一つとなった。中華人民共和国建国時の在日華僑はわずか4万人余りだったが、日中国交正常化以降は民間往来が増加し、その数も急速に伸びた。2009年8月5日の在日華字紙『中文導報』によると、東京都に住む中国人は15万人を超えている。また2008年12月22日の同紙によると、日本に生活する中国人は75万人を超えているという。

 中日間で経済貿易が絶え間なく拡大する中、近年は、中国に住む日本人も増加を続けている。2007年10月の日本内閣府の統計によると、中国に住む日本人は12万7905人で、そのうち上海が4万7794人、香港が2万4274人だった。最近のデータはないが、この数字を下回っていることはないだろう。

 傾きかけた太陽が舞鶴港を照らし、空には夕焼け雲が浮かんでいる。夕方になって埠頭を歩く人も少なくなり、あたりはひっそりと静まりかえっている。遠くで空との境がつかなくなる広大な海を見つめ、一定のリズムで繰り返される静かな波の音に耳を傾け、舞鶴港にそよぐ海風を肌に受けながら、日本人居留者と中国大陸との切り離すことのできない歴史的なつながりに思いを馳せた。

image6

(舞鶴港を再び訪れた栗原博氏)

image7

(栗原博氏と作者)

image8

(葫芦島市にある日本人居留民・捕虜送還記念碑))