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【17-07】「化学」の理想に捧げた一生

2017年10月24日 姚建年(中国科学院院士・中国化学会理事長)

本稿は中国総合研究交流センター編『縁遇恩師 ―藤嶋研から飛び立った中国の英才たち―』より転載したものである。

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城を攻めるにその堅さを恐れるべからず。書を攻めるにその難しさを恐れるべからず。

科学の道は険しくとも、全力で戦えば乗り越えられる。

―――葉剣英『攻関』

「理想」に羽を与えた優れた恩師の指導

 私はその一生を、化学を熱愛し、化学を理想として過ごして来た。

 中国で大学統一入学試験制度が再開された1978年、私は福建師範大学化学科に合格して入学し、化学に打ち込むようになった。1983年の卒業後は、優れた成績が認められ、大学に残って教鞭を執った。

 1980年代の中国は改革開放の初期にあり、物質的な土台の構築はまだ遅れていた。科学技術の革新ではとりわけ、先進国との差は依然として大きかった。この弱点を補うため、国家は、留学生の公的派遣に関する多くの政策を相次いで制定し、優秀な研究者の海外での研究を奨励した。当時、福建師範大学で教えていた私は、自らの知識や視野が時代の発展に追いついていないとの思いを濃くしており、チャンスがあれば外国へ留学したいと渇望していた。

 チャンスはいつも、備えのある人に回ってくる。母校で5年にわたって教壇に立っていた私は、化学の分野でそれなりの実績を残していたのでその実績が認められ、福建師範大学の留学生公的派遣の枠を見事獲得し、「一生を化学に捧げる」という理想に一歩近づくこととなった。

 幸運なことに、福建師範大学はそれまでに専門家や学者を組織し、東京大学の藤嶋昭研究室を訪問していた。厳格かつ開放的で、英知に富んだ研究室の学風と、最先端を目指し未来を見据えた研究理念に打たれた彼らは、藤嶋昭教授の研究室で私が学べるよう推薦に力を尽くしてくれた。藤嶋教授は当時、化学者としてすでに世界的に知られていた。藤嶋教授が発見した「本多-藤嶋効果」は、光触媒分野全体に影響を与えていた。優れた師の下で学べることは、学生にとって間違いなく将来の研究発展につながる。私は学部在学中にも、光によって起こる物理化学過程に興味を抱いていた。藤嶋昭教授はまさに、光電化学分野の世界的な開拓者である。大化学者の下で学べることになった私は、化学という海に乗り出すための最初の灯台を見つけた思いだった。

 一方の藤嶋教授も、中国と深いつながりを持っていた。80年代には中国で学術交流活動を何度も行い、厦門大学にも客員教授として招かれていた私の留学前にも、藤嶋教授は厦門大学に招待され、学術交流を行った。当時の厦門大学学長だった田昭武院士はこの時、藤嶋教授に私を推薦した。しばらく交流した後、藤嶋教授は私を東大の研究室に学生として受け入れることを決めた。初対面ながら大化学者らしい藤嶋教授の気質は私を深く引きつけた。豊富な知識だけでなく人柄も優れている。何よりも、研究に対する独自の発想がある。それこそ私に足りないものであり、必要としていたものだった。

友情と配慮に恵まれて研究室で大きく成長

 東京での学生生活は忙しく、貴重なものだった。研究室への往復時間を節約するため、私は留学後、東京大学から近い宿舎に住み始めた。宿舎は古く簡素なもので、これを知った藤嶋教授は、普段はほとんど車を運転しないにもかかわらず、冷蔵庫や洗濯機などの家電を自ら車で運んできた。東京大学の著名な教授が自ら宿舎に訪れたことに、私は感激し恩義の念をいっそう濃くした。宿舎の家主もそれを知って光栄だと喜んだ。恩師と弟子とは互いへの評価と信頼で通じ合い、その友情は春の花のように急速に開いていった。

 異国に身を置く中国人留学生が寂しがっているのではないかと、藤嶋教授と夫人は、私の古びた宿舎をしばしば訪れ、餃子を一緒に包んだり酒を飲んだり、家族のようににぎやかに過ごした。藤嶋夫妻は、新年や節句の際にも、私を自宅に招いて祝ってくれた。藤嶋教授の思いやりと友情は、日本にいた8年間、私の心をいつも温めてくれた。藤嶋教授らのおかげでホームシックを忘れた学生らは、さらなる時間と力を注いで、より良好な精神状態で化学研究に取り組むことができた。

 藤嶋昭研究室は、国際的な研究チームで、世界各国の留学生が集まっていた。私はここで世界的に著名な多くの研究者と交友した。彼らとの日常的な学術交流を通じて、世界最先端の科学技術知識に触れ、研究の視野は大きく広がった。私の研究に対する発想はより大きく開かれたものとなり、その後の化学研究の展開に、確かな理論と学問としての土台が築かれた。

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 藤嶋研究室は東京大学5号館にあった。私は毎日、実験室に出かけ、「化学研究」という理想とした人生の実現に一歩一歩近付いていった。私の国内での研究関心はフォトクロミズム(光可逆変色)だった。一方、藤嶋研究室の課題の多くは光電化学分野に集中していた。私は両者をうまく結合し、電気化学の作用下でのフォトクロミズムについての新たな発見によって、変色性の質的な向上を実現し、フォトクロミズムの新たなモデルを切り開いた。『Nature』に発表されたこの研究方向での最初の論文は、私が日本で発表した最初の論文ともなった(「酸化モリブデンフィルムの可視光変色反応」)。当時は日本ではあまり知られていなかった『Nature』だが、今では世界の最高水準を代表する学術誌として認められている。今日振り返っても、非常に大きな栄誉と言える。

 海外留学にあたっては、優れた大学と優れた指導教師、優れた研究室という3つの要素がそろっている必要があると考えているが、藤嶋研究室はこの3つの基準を完全に満たしていた。藤嶋研究室での8年間、私は研究体系を徐々に確立していった。出国前には、福建師範大学で5年にわたって教えていたものの、研究活動を単独で展開したことはなく、「研究」に対する考えもあやふやだった。藤嶋教授の研究に対する活発な発想と、学生にインスピレーションを与える指導方式は、私には大きく役立った。私はすぐに、研究においていかに独立した思考を展開し、科学の問題をいかに発見・解決し、研究目標をいかに設定・実現するかを覚えた。こうした体系的な科学研究のトレーニングは、私が研究の世界にスムーズに入っていくのを助けた。私はその後、肥沃な土壤で太陽の光を浴びた樹木の苗のように、急速に成長していったように感じた。

困難は言い訳ではなく高みを目指すためのハシゴ

 1987年から1995年までの8年にわたる留学を通じて、私は日本の進んだ科学技術が社会生活の隅々に大きな影響をもたらしているのを目の当たりにし、科学の知識が社会発展に大きく貢献できること、またそうあるべきことを痛切に認識した。1995年に学習を終えて帰国すると、中国科学院感光化学研究所で化学研究活動に専念するようになった。感光化学研究所は私に、30平米余りの小さな部屋を与えた。簡素で小さなこの場所から、私は自らの研究室の設立準備を開始した。

 当時は研究室と呼べるようなものではなく、何かをする場所がやっと手に入ったという状態だった。初めは何もなかった。機器類は言うまでもなく、事務用の机もほかの場所から中古の品を持ってくる始末だった。研究員も南開大学の大学院生を借りてくるような状況だった。このような状況の中で指導教師と学生がそろい、独立した研究活動を何とか開始することができた。

 研究室には設立当初、研究機器がほとんどなかった。当時の研究資源はすべて研究所内共有のもので、ほかの人の実験装置や器具類を借りることはしょっちゅうで、所外で実験することも珍しくなかった。感光化学研究所に入ったばかりの頃はとにかく経費が不足していた。当時はお金を使うのがもったいなく、資金は傑出青年基金の20万元だけだった。実験をするためにあちこち聞いてまわり、実験設備のあるところには協力を持ちかけた。物理研究所には当時、一緒に帰国した知人が何人かいた。しばしば彼らと話しに行ったが、知識面での交流をしたいというだけでなく、協力して実験面での便宜を得られないかとの思いがあった。

 経費節約のため、実験で用いる小型の設備も、所内で共同購入して共用した。高価な実験設備は、所外の研究者と協力して調達した。私が国内で苦しい研究条件に直面していると聞き、藤嶋教授も実験用品を購入し、日本から送ってくれた。国内で実現できない研究については、藤嶋研究室で行ったらどうかと提案してくれた。

 1996年1月、私の研究室に、中国科学院の路甬祥・副院長が視察に訪れた。路氏も当時の中国にまだこれほど粗末な研究室があったかと驚き、研究室が各種機器設備を調達するために十数万ドルを割り当ててくれた。研究室はこうして、長期にわたり外部に過度に依存していた局面を打開することができた。

 困難は言い訳に過ぎない。勤勉さこそが事業を発展させる。科学の道は険しいが、勇気があればよじ登ることができるという基本的な考えを私は、自らの行動で証明したように思った。私はその後、国の方針に基づいて「青年実験室」を設立し、実験室の室長となった。数年の努力を経て、実験室は大きく拡大し、優秀な研究チームが形成され、研究員らはそれぞれ独立した課題チームを組織するようになった。研究経費も年々増加し、年間500万元前後に増えた。多くの国家重大プロジェクトを相次いで担当し、光化学研究の領域で優れた成果を上げることができた。

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研究チームの学生たちと問題について議論する姚建年院士(2004年4月)

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顕微鏡を調整する姚建年院士

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チームのメンバーと話し合う姚建年院士

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プロジェクトチーム、博士卒業生と(2013年)

さまざまな研究成果を蓄積

 日本での学習を通じて、私は、さまざまな分野の研究の展開に極めて重要となる多くの研究方法を把握した。帰国後は、藤嶋研究室に在籍した頃の研究方向にはこだわらず、有機小分子光化学の新たな方向を切り開いた。光化学プロセス(電荷移動励起状態など)の基礎研究から光の機能的性質(光導波路とマイクロ・ナノレーザー)の実現と制御、さらに研究成果の実際の運用(光通信部品とレーザーディスプレイ)まで、研究の道を一歩一歩進め、その道をますます広げ、足取りをますます確かなものとしていった。

 例えば新型光機能材料の基礎・応用探索の長期にわたる研究では、有機低次元機能材料やナノ光電子学などで一連の画期的な成果を上げた。また超分子化学の方法を利用し、変色性能の良好な無機/有機複合薄膜材料の生成に初めて成功し、超分子体系内でのプロトン—電子協同移動の新たなメカニズムを打ち出した。伝統的な変色材料に対する貴金属の変色増幅作用を発見し、ショットキー接合の増幅原理を提出した。さらに分子堆積膜の方法を用いて、単層のフォトクロミズム超薄膜を初めて生成した。薄膜の厚さは2nm以下で、超薄型の機能薄膜と新型分子変色デバイスの研究に土台を築いた。

 私はまた、超分子化学の考え方を材料の分野に持ち込み、無機—高分子と無機—無機の複合を利用し、ゾルゲル法を用いて、青色光に感度を持つ良好な薄膜の生成に成功し、中国が完全な知的財産権を持つ次世代ブルーレイストレージ材料の設計に土台を築いた。

 国際的なナノ研究の波に後押しされ、私は、有機ナノ体系の光化学と光物理の研究活動を率先的に展開し、ナノ材料の特異性研究を金属や無機半導体から有機小分子の分野に広げることに成功した。また、金属や無機半導体とは異なる有機分子ナノ体系の新たな特質を明らかにし、有機ナノ光機能材料の設計と製造に理論的な土台を与え、新型光機能材料の研究や開発、新型光電機能デバイスの構築に新たな方法と道を提供した。私の研究室の研究成果に啓発され、世界では、十数組の研究チームによる関連研究が相次いで展開された。

 私の研究室は長年の努力を通じて数多くの成果を上げ、『Nature』『Acc. Chem. Res.』『Chem. Soc. Rev.』『J. Am. Chem. Soc.』『Angew. Chem. Int. Ed.』『Adv. Mater.』などの世界の化学・材料分野などの雑誌に400本余りの論文を発表した(引用回数延べ1万1千回余り)。出版した共著は4冊、共訳は1冊。国家による特許の授与は30件近くにのぼる。2016年には中国科学院傑出成果賞、2015年には何梁何利基金科学・技術進歩賞、2014年と2004年には国家自然科学賞二等賞(第一受賞者)、2013年には中国分析測試協会(CAIA)科学技術賞一等賞(第二受賞者)を獲得している。

大志を捨てることなくさらなる高みを目指す

 私はすでに還暦を過ぎたが、大志を抱いたまま、科学のさらなる高みを目指し今も戦いを続けている。科学研究の革新について、私は次の4つのポイントをあげておきたい。

 第一に、しっかりとした基本的な能力の会得。砂上に高いビルを建てることはできない。研究者の基本的な能力は、学部と大学院生の時代に築いておかなければならない。

 第二に、大量の文献を閲読。他人が何をしているのかを知り、最先端を目指す必要がある。現実から乖離して事を進めてはならない。

 第三に、自分の学科に対する徹底的で全面的な理解と思考。「苟日新,日日新,又日新」(苟(まこと)に日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり、出典『大学』)。研究者は皆、自分の考えを持たなければならない。科学のインスピレーションは怠惰な人にはやってこない。

 第四に、学科の交差。多くの新たな思想は、ほかの学科の知識や方法を源としている。伝統的な学科はある程度まで発展すると限界を迎える。現状に甘んじることなく、障壁を打破し、相互に学習し、相互を手本として初めて、各学科の革新発展を後押しすることができる。

 「十年かけて一振りの剣を磨く」と言われる。私は2005年、帰国から10年目に、学術上の傑出した成果が認められ、中国科学院院士に選出された。私はこれまでに、国家自然科学基金委員会副主任や中国化学会理事長、農工民主党中央副主席、第9・10期全国政治協商会議委員、第11・12期全国人民代表大会常務委員会委員、全人代教育科学文化衛生委員会副主任委員、中国科学技術協会第7期全国委員会常務委員、英国王立化学協会と国際ナノ製造学会のフェロー、科学技術振興機構(JST)中国総合研究交流センターのアドバイザリー委員を歴任した。2016年には中国科学院傑出科学技術成果賞を受賞し、中国科学院化学研究所の団体賞も受賞した。

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授賞式の写真

あとがきにかえて

 私は中国国内で大きな科学研究成果を収めたが、恩師の藤嶋昭教授との友情も続いている。私は帰国後、感光化学研究所(後の化学研究所)での仕事のほか、中国化学会で秘書長(事務局長)と理事長を相次いで務めている。藤嶋教授もかつて日本化学学会会長に就いていた。藤嶋教授が日本化学学会会長を務めていた時、私は中国化学学会秘書長を務めていた。化学界における2つの大きな権威ある組織は、この師弟関係を通じ、吉林省長春での協力に成功し、両国の化学界の学術交流を大きく促進する役割を果たした。中国化学会は私の指導の下、急速に発展し、社会各界の評価を得た。帰国から長年が経っても、私は藤嶋教授との密接な交流を続け、師弟関係は帰国後もさらに深まっている。

日本語版編集:馬場錬成(特定非営利活動法人21世紀構想研究会理事長、科学ジャーナリスト)


日本語版「縁遇恩師 ―藤嶋研から飛び立った中国の英才たち―」( PDFファイル 3.08MB )