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【17-08】グラフェン研究に懸けるイノベーション創出

2017年10月24日 劉忠範(中国科学院院士、北京大学化学・分子工程学院教授)

本稿は中国総合研究交流センター編『縁遇恩師 ―藤嶋研から飛び立った中国の英才たち―』より転載したものである。

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藤嶋昭先生の研究室と出会い、「LB膜研究」分野で世界トップレベルの科学者に

 私は1984年10月に日本に留学し、1990年3月に東京大学で博士号を取得した。1990年4月から1991年8月、1991年8月から1993年6月まで、それぞれ東京大学と愛知県岡崎市にある分子科学研究所でポスドクとして研究に取り組んだ。その後、1993年6月5日に北京大学に戻り、化学学部で教鞭を執っている。

 1993年に帰国してから現在に至るまで、私は北京大学ですでに24年間教壇に立っている。そして現在は、中国科学院院士、全国人民代表大会の代表など数多くの肩書を持つ身だ。1984年10月5日に遡ると、当時はまさに中国の改革開放が始まってまもない初期の段階だった。中国国家教育委員会からの派遣で、私は他の成績優秀な学生約100人と共に、日本へ留学した。私が初めに通ったのは横浜国立大学で、そこで2年半勉強し、修士号を取得した。

 横浜国立大学で、私は、生物電気化学を研究し、学術上の成果をある程度収めたものの、私自身が想像していた科学研究とはまだ開きがあった。そこで新しく環境を変えるため、横浜国立大学から、日本の最高学府である東京大学に研究の場を移すことにした。そして、光電気化学と光触媒反応の分野で非常に有名な藤嶋昭先生と出会った。1987年4月、東京大学の博士課程の入学試験に無事合格した私は、志望通り藤嶋先生の研究室での研究を始めた。この研究室で、私は本当の意味での学術キャリアをスタートさせ、そしてこの研究室こそが私が夢を追い求め始める場所にもなった。

  まだ貧しく発展が遅れていた中国から先進国の日本へ渡るに際し、私は祖国の大きな期待を背負うと同時に、旺盛な知識欲を抱いていた。しかし、横浜国立大学で学んだ2年半の間、私は常に物足りなさを感じ、どの分野を研究すればいいのかも定まらず、藤嶋先生の研究室に行くまで、ずっと喪失感に襲われていた。1987年4月、私が藤嶋先生の研究室に入ってまずしなければならなかったのが、研究課題の選択だ。藤嶋先生はある実験室に私を案内し、ほこりが積もった器具を指さしながら、「これはLB膜を作る装置で、今は誰も使っていない。これを使って、学位論文を書いてみるのはどうか」と勧めた。こうして私は状況もよくわからないうちにLB膜分野の研究を始めることになった。

 当時、LB膜の研究は最新の分野だった。LB膜技術を活用すると、両親媒性の分子をきれいに秩序立てて並べることができる。そして、1980年代、モレキュラーデバイス、分子電子学など、新しい学科・分野が登場するにつれ、広く注目されるようになった。しかし、藤嶋先生の研究室は、主に半導体・光電気化学を研究しており、LB膜分野はあまり研究していなかった。また、LB膜の研究をしていた学生らは既に卒業しており、私は当時同研究室でLB膜を研究する唯一の大学院生だった。そのため、それはとてもチャレンジ精神を必要とする孤独な旅であった。

 藤嶋先生は普段、実験する学生に具体的な指示をすることはあまりないものの、私には研究を始めたばかりの時期に、「文献をたくさん読んで、興味を覚えた文献は何度も読みなおすように」とアドバイスした。その言葉に従い、私はLB膜関連の文献をたくさん読み、その過程で、アゾベンゼンLB膜に関する作業に強い興味を抱いた。藤嶋先生のアドバイスもあり、私は何度も実験を繰り返し、それを博士論文のテーマにした。偶然出会った長鎖アゾベンゼン分子のLB膜の研究だったものの、私は科学研究の真のおもしろみを感じるようになり、少しずつ成果が出る喜びも感じることができるようになった。私の3本目となる論文が国際的な総合科学ジャーナルNatureに掲載されると、アゾベンゼンLB膜に基づく光電気化学情報保存技術が多くの人の注目を集め、フジテレビもこれを取り上げる特別報道を行った。

 その後、私はLB膜分野のハイレベルな科学研究論文を数十本発表し、同分野では名実共に世界トップレベルの専門家になった。2000年、ドイツ・ポツダムで開催された第9回分子・組織分子膜国際カンファレンスに招かれた私は招待論文を発表した。また、私は2003年に第10回分子・組織分子膜国際カンファレンスの会長を務め、その後も長年にわたり、同カンファレンスの国際組織委員会の委員を務めている。その他にも、私は2人の科学者と共に、アジア組織分子膜学術会議を立ち上げた。藤嶋先生の研究室で、私は本当の意味で科学研究に魅せられ、藤嶋先生が私をその神聖な科学の世界へと導き、科学研究を私にとって一生打ち込める仕事にしたのだ。

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メディアで紹介される藤嶋先生と筆者

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2008年1月8日、国際会議で発表する筆者

教師と学生の枠を超えた「ドリームマスター」

 夢を追い求め続ける過程で、私は藤嶋先生を「ドリームマスター」と呼ぶようになった。私が抱いていた夢の一つ一つが、藤嶋先生の導きの下で生まれ、現実となったからだ。

 ここではビール券にまつわるある一つのエピソードを紹介したいと思う。日本の経済がバブル景気に沸いていた1980年代末、有名な教授だった藤嶋先生は、企業からよくビール券を贈られていた。通常、ビール券1枚でビール4本と引き換えることができた。藤嶋先生はそんなビール券をよく、学生を励ますために使っていた。酒好きの私もその恩恵によくあずかり、「実験がうまくいっていないのなら、ビール券をあげるから、友達と一杯やってからまた帰ってきて続けたら」と、何気なく気遣われていたことを、私は今でもはっきりと記憶している。

  具体的な実験指導はあまりしないものの、藤嶋先生の学術的視野や科学の問題に対する把握力は、トップレベルだった。実験データに非常に敏感で、雑然としたデータの中から、価値ある手がかりを見つけ、さらに一歩進んだ研究をするよう学生を励ました。そして、学生が自分の能力を自由に発揮できるような環境を与え、学生が自分で体験し、腕を磨き、科学研究の楽しみを感じ、自分に合った作業や勉強の方法を見つけることができるよう助けた。藤嶋先生の研究室では、効率や利益が求められることはなく、科学研究そのもののおもしろさだけを感じることができる。実験装置や消耗品を購入する点でも、藤嶋先生は、度量がありできるだけ学生の需要を満たすよう努めてくれた。

 普段、藤嶋先生は非常に忙しいものの、時間を取って学生を励ましサポートしてくれた。特に、中国人留学生にとって、藤嶋先生は恩師であると同時に、友人でもあり、その関係は今に至るまで続いている。博士課程を修了した後、私は米国で引き続き深く研究をしたいと考えていたものの、1度目のビザの申請は却下された。移民する傾向が見られるというのがその理由だった。2度目に在日米国大使館でビザの申請をした時、藤嶋先生は自ら保証人として出向き、私をいたく感動させた。結局、その時も申請を却下されたものの、藤嶋先生の学生に対する心からの関心とサポートは、私の記憶にしっかりと刻み込まれ、その後の教師としての人生にも大きな影響を与えた。

 2回にわたるビザ申請却下をうけ、私は米国行きを断念し、藤嶋先生の提案もあって引き続き研究室で研究することになった。藤嶋先生の研究室で研究し約5年たった1991年8月、私は環境を変えて、新しい事を学びたいと思うようになった。そこで、藤嶋先生に国立の分子科学研究所に行き、著名な化学者・井口洋夫教授の下で、生物有機半導体材料を研究したいという思いを伝えた。藤嶋先生は私の思いを尊重し、「井口教授が受け入れてくれなかったら、また戻って来たらいい」と言ってくれた。その後、私の志望が通り、井口教授の指導の下、新しい分野の研究が始まった。その期間中も、私は藤嶋先生と頻繁に連絡し、藤嶋先生も惜しみないバックアップをしてくれた。

 肝心な時に、藤嶋先生はいつも学生の立場に立って問題を考え、できる限りのサポートをしてくれる。そんな師の姿が現在に至るまで、私に大きな影響を与え続けている。日本から帰国してからの24年間、中国科学院院士で、北京大学の教授である私の研究グループには、外国人留学生も多く、彼らの言語や生活習慣の違いを、私は身をもって知るようになる。そんな留学生を指導することは、中国人の学生を指導するよりも難しいことを知っている。藤嶋先生が留学生の面倒を見ていたことは素晴らしいことであり、特に自ら留学生と共に大使館へ行ってビザの申請を手伝うというのは、並大抵のことではないと思うようになった。私は今でも、毎年正月3日の午後に、藤嶋先生の家で行われる恒例の新年会を覚えている。その会では、豪華な日本料理を食べ、おいしい日本酒を飲み、即興で歌ったり踊ったりして、外国である日本で暮らす留学生全員にとって、それらは素晴らしい思い出として記憶に刻まれている。

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留学期間の研究室のパーティー写真(左端が藤嶋先生、筆者は左から3番目)

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留学期間の研究室活動写真 (藤嶋先生は左端、筆者は右から2番目)

 1993年6月5日、私は帰国し、北京大学の化学学部の教壇に立つようになった。私が1日も早く北京大学で自分の研究室を立ち上げることができるよう、藤嶋先生は井口教授と共に、トラック1台分の機器や装置を贈呈してくれた。当時、それは未曾有のことで、駐日中華人民共和国大使館と当時の中国教育委員会も注目し、海洋総合調査船「向陽紅」がそれら最先端の科学研究装置を中国に運ぶよう手配してくれた。また駐日中華人民共和国大使館は、私のために歓送会を開き、当時の中国国家教育委員会留学生司や北京大学の関連のトップらが北京首都国際空港で帰国を出迎えてくれた。1993年10月末、藤嶋先生は北京大学で「中日光電気インテリジェント・マテリアル・分子電子学セミナー」を開催し、私が中国で引き続きその科学研究を発展させることができるようサポートしてくれた。同セミナーで私は主席を務め、藤嶋先生は日本の学者数十人を伴っただけでなく、さらには多くのスポンサー企業も伴って参加した。このセミナーは、現在も続いており、規模も当初の数十人から今では数百人にまで拡大し、すでに藤嶋先生が姚建年院士や江雷院士、顧忠沢教授、只金芳研究員といった彼の中国人の教え子の発展をサポートする学術活動となっている。藤嶋先生は多忙を極めていても、毎回セミナーには必ず参加し、教え子らもこのアットホームな雰囲気に満ちたセミナーに積極的に参加している。

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1998年5月4日、北京大学設立100周年記念日に鐘を鳴らす儀式の写真(左から季羨林氏、李嶺氏、王選氏、筆者)

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第一回日中光電気インテリジェント・マテリアル・分子電子学セミナー

孤軍奮闘ではなく「ドリームチーム」を作り上げる

 私の背後には「夢を抱いたチーム」が控えている。私は1993年に帰国すると、すぐに自身の科学研究チームを立ち上げた。藤嶋先生の影響を大きく受けた私は、チームワークと学生の育成を特に重視している。具体的には、毎週一回開く学術セミナーから新年会や5月1日の「メーデー」の旅行、故郷に戻り活動を行うイベントを企画して、チームワーク向上を図っている。私の学生に対する気遣いやその努力は多くの実を結び、研究室から教授や研究員44人を輩出している。また、多くの助教授や副研究員などを、中国国内外の有名学府や科学研究所などに輩出しており、北京大学にも3人の教授を送り込んだ。それら卒業生の多くは既に業界のエキスパートになっており、4人が海外ハイレベル人材招致「千人計画」(一類)に、7人が「グローバル・エクスパート・リクルートメント・プログラム(青年千人計画)」に、3人が「国家ハイレベル人材特別支援計画」の学者に、5人が「国家傑出青年科学基金」に、7人が「優秀青年科学基金プロジェクト」に、4人が「長江学者奨励計画」にそれぞれ選出されている。さらに、ビジネス界のエキスパートも輩出しており、8人が企業の会長や最高経営責任者(CEO)になり、うち4人が私の研究室で奨学金を設立している。これらは全て、藤嶋先生が重視していた人材育成という素晴らしい伝統を継承してきた成果だ。

 学生が視野を広げられるようにと私は科学技術振興機構(JST)と共に、中国や東南アジアなどの国に援助を提供し、アジアの科学技術交流を促進することを目的とした「日本・アジア青少年サイエンス交流計画(さくらサイエンスプラン)」に協力したり、藤嶋先生の研究室との連携もさらに強化した。2016年2月、私は多忙にもかかわらず、時間を取って研究室に加わったばかりの学生数人を連れて東京理科大学を訪問し、藤嶋先生の研究室と学習交流を実施した。日本の科学研究文化を肌で感じ、日本人の学習に対する姿勢を見てもらうことで、学生らが学習や科学研究の良い習慣を身に着けるようサポートした。

 24年間の努力を経て、私の研究チームには現在、120人が所属するまで発展し、北京大学で最大の学術チーム、世界に名を馳せるナノカーボン材料研究チームになっている。近年、私はいずれも中国で初めてとなる学際的な北京大学ナノ科学・技術研究センター、北京大学ナノ化学研究センター、北京市低次元カーボン材料科学・エンジニアリング技術研究センター、北京大学-東京大学ナノカーボン材料卓越イノベーションセンター、中国化学会ナノ化学専門委員会、国家ハイレベル人材特別支援計画」の「科学者工作室など、たくさんの「中国初」を実現している。また実用的な技術の研究開発を強化するため、私は、北京大学-凱盛グラフェン研究センター、北京大学-宝安烯碳科学技術聯合実験室、北京グラフェン研究院なども立ち上げた。私が、このような成果を上げることができたのは、藤嶋先生から受けた丁寧な指導と切り離すことができない。

「グラフェンの研究」をさらなら高みへ

 「新材料のキング」と呼ばれるグラフェンは、1原子の厚さのsp2結合炭素原子(上付き)のシート状物質で、炭素原子とその結合からできた蜂の巣のような六角形格子構造をとっている。2004年,英国マンチェスター大学の物理学者・アンドレ・ガイムとコンスタンチン・ノボセロフが、セロハンテープ(スコッチテープ)にグラファイト(黒鉛)のかけらを貼り付けて剥がすことで、単層のグラフェンを得ることに初めて成功した。グラフェンはバンドギャップがゼロのエネルギー帯構造で、著しく高い電子移動度をもち、導電性は銀を超え、現時点で最高の熱伝導率を備えている。その強度は鋼の200倍で、「黒い金」と呼ばれており、広く応用することができると見込まれている戦略的新興材料の一種だ。アンドレ・ガイムとコンスタンチン・ノボセロフは2010年にノーベル物理学賞を受賞した。その時から、グラフェンは学術界や産業界において注目されるようになり、世界的にグラフェンの研究ブームが起こった。

  私のチームは2008年からグラフェンの分野の研究を始めた。私のオフィスには、グラフェンの構造模型が置かれており、私は現在、グラフェンの分野では屈指の一流専門家となったと自負している。

  グラフェンの原材料調合は、今後のグラフェン産業の基礎となり、グラフェンの分野における研究開発のポイントにもなっている。私のチームは、グラフェンの薄膜材料生成の面で旗手役を担っており、化学気相成長の研究の面でも、パイオニア精神とリーダー的な成果を上げている。

 私は日本で長年学んだ経験から本当の意味で役に立つことに対しコツコツと着実に積み重ねていくことを非常に重視している。特に近年、中国の学術界が文献にばかり注目し、研究成果の転化率は非常に低く、見掛け倒しの状態になっている。私は、このような中身の薄い科学研究文化に1日も早く変化をもたらし、本当の意味で価値のあることを行い、科学そのものに役に立つことや、国の経済や国民の生活に役に立つことをしなければならないと思っている。日本人は地道にかつ確実に物事を進め、科学や社会に有益なことを、心を込めて行う。これは、日本人が過去20年もの間、ノーベル賞を次々受賞している根本的な理由でもあると考え、中国の研究者にも伝えるようにしている。

 基礎研究の産業化には時間と忍耐が必要で、炭素繊維の発展史はその典型的なケースだ。東レは、1970年代初めから現在に至るまで、約半世紀にわたって、炭素繊維材料の工業量産を行っている。当初は、炭素繊維を使った釣り竿やゴルフクラブしか製作できなかったが、現在では航空・宇宙飛行、国防などの分野を支える材料になっている。東レが、炭素繊維の原材料の調合の面で行ってきたたゆまぬ努力は、今日の炭素繊維産業における重要な推進力となっている。私は、グラフェン産業も今後、同じような発展の道を歩み、決して一夜にして大きな成果を上げるようなことはないため、我慢強く努力し続け東レのような職人の精神が必要だと考えている。私は、「私のチームはその歴史における重責を喜んで担う」と強調している。私のチームはハイエンド・グラフェンの薄膜生成の面で多大な努力を費やし、同分野で支えとなる働きをする柱となっている。2008年以降、私のチームはグラフェンの分野において大きな成果を相次いで上げており、グレードグラフェン薄膜、スーパークリーングラフェン、スーパーグラフェンガラス、スーパーグラフェンファイバー、新世代グラフェン基半導体照明技術などはいずれもグラフェン研究の発展の最前線を歩む代表的な存在となっている。

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実験室にいる筆者

 私とそのチームはこうした研究成果で満足することはなく、グラフェン産業の今後の発展のために、多くの模索を行っている。北京市政府のサポートの下、私は、「北京グラフェン研究院」の立ち上げを推進し、国際グラフェンイノベーションセンターを構築し、自らその院長も務めている。同研究院には10年で計20億元(約340億円)が投じられ、第一期実験室の面積は2万平方メートル、専門研究開発職員は300人となっている。研究院は、今後のグラフェン産業の核心技術の発祥地、政府・産学研の連携イノベーションメカニズム、イノベーション文化建設モデルエリア、国際ハイレベル人材集結地・起業拠点にするという位置付けの下、すでに国家科学技術イノベーションセンターの「新型研究開発機構」試験ポイント拠点に盛り込まれている。産学研が効果的に連携するというのは中国のハイテク産業の発展においてこれまでずっとネックとなってきたため、私は、「企業研究開発代工」という概念を提案している。この新しい理念に基づき、私は北京グラフェン研究院に、特定の企業を対象にした専門の研究開発チームを複数設置して、それら企業のグラフェン応用研究開発機構という役割を担っている。このような新しい産学研連携のスタイルは、研究開発チームに明確で具体的な応用目標を提供すると同時に、研究開発成果の産業化の実行という問題も解決し、研究開発スタッフと企業がそれぞれの持ち味を十分に発揮できるようにし、さらに、ハイテク研究開発のために安定した資金援助を提供できると考えている。

 北京グラフェン研究院はその成立からほどなくしてすでに巨大な吸引力を発揮し、中国国内外の同業者から広く注目を集めている。また、私が筆頭となり「中関村グラフェン産業連盟」を立ち上げ、理事長を務めたり、「北京市グラフェン産業イノベーションセンター」の立ち上げを促進したりしている。これらは、中国の今後のグラフェン産業のために強固な基礎を築くことにつながっている。

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北京のグラフェン研究院

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「北京市グラフェン産業イノベーションセンター」の立ち上げの儀式にいる筆者

 最後に私のプロフィールを紹介したい。

 1984年10月日本に留学。1990年3月、東京大学で博士号を取得。1990年4月から1991年8月、1991年8月から1993年6月まで、東京大学と愛知県岡崎市にある分子科学研究所で博士研究員として研究に取り組む。

 1993年6月5日、北京大学に戻り、化学学部の教員になり、同年教授に昇進する。1994年、第1期中国国家自然科学基金傑出人材基金支援を受ける。1999年、「長江学者奨励計画」のディスティングイッシュトプロフェッサーに選ばれ、2013年、中国共産党中央組織部の「国家ハイレベル人材特別支援計画」の傑出人材の第一陣メンバーに選ばれる。主に、ナノカーボン材料、二次元原子クリスタル材料、ナノ化学などの研究に従事し、グラフェン、カーボンナノチューブの化学気相成長の方法の研究の分野で、一連の開拓に向けた主導的な役割を担い、世界的にも認められたナノカーボン材料の研究者の一人となった。

 引用文献データベース・サイエンス・サイテーション・インデックス(SCI)に掲載されている学術論文は約500編で、中国で取得した特許は70件以上。中国の国家基礎性研究重大プロジェクト計画(B)、973計画、ナノ重大研究計画などの首席科学者、国家自然科学基金「インターフェースナノエンジニアリング学」イノベーション研究グループ学術リーダー(三期)などを務めた。

 現在、北京グラフェン研究院の院長、中関村グラフェン産業連盟理事長、中国国際科学技術促進会の副会長、北京大学ナノ科学・技術研究センターのセンター長、教育部(省)・科学技術委員会の委員、学風建設委員会の副会長、国際合作学部の副部長、北京市人民政府専門家コンサルティング委員会の委員などを務めている。一方で「物理化学学報」の編集長、「科学通報」の副編集長も務めている。また英国王立化学会のメンバー、英国物理学会のメンバー、中国マイクロ・ナノ技術学会のメンバーでもある。

 第12回全国人民代表大会の代表、九三学社第13回中央委員会の委員、院士工作委員会の副主任、北京市九三学社第13回委員会の主任委員を務めた。北京市科学技術委員会の臨時副主任を務めた経験もある。

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中国科学技術二等賞受賞(右から2番目が筆者)

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2013年3月9日、第十二回全国人民代表大会代表団でスピーチする筆者

日本語版編集:馬場錬成(特定非営利活動法人21世紀構想研究会理事長、科学ジャーナリスト)


日本語版「縁遇恩師 ―藤嶋研から飛び立った中国の英才たち―」( PDFファイル 3.08MB )

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