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【18-05】藤嶋昭先生の教育理念から学んだ研究者の真髄

2018年 4月 3日 張昕彤(東北師範大学物理学院教授、博士課程指導教員)

本稿は中国総合研究交流センター編『縁遇恩師 ―藤嶋研から飛び立った中国の英才たち―』より転載したものである。

はじめに

 私は1993年9月から1998年7月まで吉林大学大学院物理化学専攻に在籍して博士学位を取得し、卒業後は吉林大学化学系光化学研究室で講師を務め、2001年に副教授に就任した。

 1998年9月から2000年7月までは、中国科学院感光化学研究所で博士研究員(ポストドクター)として研究に従事していた。2001年11月から2007年10月まで研修のために日本に留学し、東京大学工学部応用化学科藤嶋研究室と神奈川科学技術アカデミー光科学重点研究室で研究員を務めた。2007年10月の帰国後は東北師範大学物理学院先進光電子機能材料研究センター教授となり、博士課程の指導教官でもある。

紆余曲折の後に、良い関係を結ぶ

 藤嶋昭先生は多くの優れた科学者を育てているため、優秀な中国人留学生が集まるのも偶然ではない。当然ながら、私が藤嶋研究室に入れたのも偶然ではなかった。

 私は吉林大学の本科(学部)と大学院で学んだ。大学院時代の指導教官は李鉄津教授で、この中国の一世代前の科学者は藤嶋先生のもう一人の中国人学生、江雷さん(のちの中国科学院院士)の指導教官でもあった。李鉄津教授は1980年代にはすでに藤嶋先生と知り合っており、その後二人の科学者は研究をめぐって頻繁に交流していた。江雷さんは当時、まさにこの二人の研究室の連携育成により博士学位を取得した。

 2000年5月、江雷さんの随行によって藤嶋先生が吉林大学を訪問した際に、藤嶋先生の東京大学の博士研究員(ポストドクター)に李鉄津教授が私を推薦したが、一回目の申請時は締切日までの期間が短すぎ、資料を充分に準備できず、不成功に終わった。

 しかし、これは藤嶋研究室で研修するという私の決意をくだくものではなかった。一年後、藤嶋先生の助手からの通知を受け、再度申請した結果、2001年に私は藤嶋先生の助手の協力により、日本学術振興会の博士研究員奨学金を取得することができた。こうして6年間にわたる日本への留学がスタートした。

 2003年3月末、藤嶋先生は東京大学を離れ、神奈川科学技術アカデミー理事長に就任した。私は藤嶋先生について神奈川科学技術アカデミーの研究室に加わり、研究生活を続けた。神奈川科学技術アカデミー在席中に、私は何人もの師弟関係にある中国人研究者を藤嶋研究室に紹介したため、師匠が弟子を引き連れ、その弟子がまた師匠になり、という世代を超えて続く好循環が生まれた。こうして、彼ら全員が藤嶋研究室とかけがえのない縁を結ぶことができた。

先生の情を忘れることはない

 訪日後間もなく私は、留学生に対する藤嶋先生の心遣いが非常に細やかで、至れり尽くせりであることに気が付いた。留学生は訪日後、異国の地であるために生活上、特に経済的に大きな問題にぶつかる。留学生のこのような問題の確実な解決のために、藤嶋研究室には暗黙のルールがある。それは、来日間もない留学生に住居を提供するというものだ。

 日本の家賃は初めて来日する留学生にとって非常に高価である。日本の賃貸住宅には特有の習わしがあり、毎月決まった家賃のほかに賃貸するときに「礼金」というものが必要になるため、賃貸直後の初回の支払いで約5ヶ月分の家賃を支払うことになる。

 藤嶋先生は、留学生に安い家賃で貸し出すために、東京大学の向かいにアパートを個人で購入し、学生の経済的負担を大いに減らした。私にも訪日後すぐに藤嶋先生の配慮でこのアパートが提供されたため、初めて訪れる日本への不安が解消され、安心して研究生活を送ることができた。アパートは大学と差向いで、研究室からわずか5分の距離にあったため、私や似た境遇の中国人留学生にとっては時間の節約となり、より多くの時間を研究に当てることができた。

 2003年、藤嶋先生は東京大学を離れて神奈川科学技術アカデミーに移ったため、同年4月に私も藤嶋先生について異動し研究を続けた。しかし、私の妻は当時まだ東京大学で学んでいたため、藤嶋先生は私の家族に便利なようにと、東京大学の向かいのアパートに私を引き続き住まわせた。その後、私の妻が卒業すると藤嶋先生は神奈川県で新たに購入した3LDKの家に私を住まわせた上に、「通勤には遠すぎて仕事に差し支えるから、君に家をもう1軒買ったよ」と私に告げた。その家は神奈川科学技術アカデミーの研究室から約5キロで、電車でわずか3駅という非常に便利な場所にあった。こうして、再び破格の家賃で住居を提供し、家族を連れてくるようにとまで言う先生に私は深く感動し、幸せな生活を送った。

 藤嶋先生はいつもこうだった。学生に対して常にさりげない気配りを寄せ、学生を感動させるのだ。

先生に導かれて学問の道に入り、自分を信じて修行を進める

 藤嶋研究室を初めて訪れた際、先生はもう60歳近くになられ、研究に成功してすでに海外でも有名だったが、それでも毎朝一番に研究室に出勤され、夜遅くまで研究に励まれていた。

 誰よりも早く研究室に出勤するのは、楽なことではなかった。藤嶋研究室では毎週水曜日に定例の報告会を開いていた。先生はどんなに忙しくても必ず出席して司会を務めた。飛行機に乗り、荷物を引いて駆けつけることもよくあった。そして、その定例報告会での先生の最初の一言は常に、「君の目標は何か」というものだった。気軽な質問のようだが、聞かれる側には大きな刺激とプレッシャーがあり、今でも私の記憶に新しい。

 藤嶋研究室には外国から多くの留学生や訪問学者、さらには外国人の教員も在籍し、人数比で常に全体の3分の1以上を維持していた。このため、藤嶋先生は開放的な考えの持ち主で、国際的な研究の雰囲気を好んでいるのだと研究室のメンバーで話していた。藤嶋研究室は日常の意思疎通においても、また、研究上のディスカッションや定例の報告会においても、英語を日本語と同じくらい重要視していた。日本に初めて来た頃、私の英会話はひどいものだったが、国際的な雰囲気のおかげで、すぐに英語で研究報告を行えるようになった。

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 藤嶋先生は、積極的かつ前向きな姿勢で思考し、仕事に取り組むよう呼びかけていた。藤嶋研究室では研究のペースが速く、先生が注目するテーマについては研究グループで毎週1回、報告会を開く必要があった。このため、私も日本滞在の最初の年は、ゴールデンウィークも含め、毎週のように報告を行わなければならなかった。報告会は頻繁に行われていたが、長期間にわたり新たな成果がなくても先生は容認してくださった。しかし、先生は、積極性のなさは許さないことに私は気づいた。どんな時も愚痴をこぼさず、問題を前向きに捉えるべきことは、私が藤嶋先生から学んだ最も貴重な経験であった。

 藤嶋先生は、科学研究は社会の進歩や生活の向上に役立つべきと主張していた。このため彼の研究テーマ、例えばTiO2 光触媒や導電性ダイヤモンドの電気化学等は、一見簡単なようだが、常に新たな研究の話題を生み、産業界や一般の人々から関心を持たれ、最終的には多くの研究が実用に至った。

 先生はよく荘子の言葉、「新発硎(しんはっけい)」を引用して、研いだばかりの刀のように、研究に対する感覚を研ぎ澄ますように皆を啓発していた。「研究はシンプルに、しかし要点を押さえて」という感覚は、その後の私の研究に大きな影響を及ぼした。「藤嶋先生から教えを受ける機会を得たことは、一生の幸せだ」と私は誰に対しても話している。

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 神奈川科学技術アカデミーの在籍期間中、私は研究業務に加え藤嶋先生の講演資料作成の仕事を徐々に引き継ぐようになり、3年間でPPTファイルを300件以上作成した。膨大な時間をかけて先生のために講演資料を作ることは、時間の無駄ではないかと思う人がいるかもしれない。しかしそうではないことに私はすぐに気が付いた。先生のために講演資料を作成することが一番勉強になる。講演資料は科学研究と研究者としての社会責任に対する先生の深い思考を凝縮したものであり、先生の教育理念や人生の知恵の縮図でもある。講演資料の作成は先生の足跡をたどるようなものであり、そこで得たことは今も役立っている。

帰国後もさらに支援を続ける

 藤嶋先生は留学生を日本に引きとめることは決してせず、だれもが帰国して自分の国で努力すべきと考えておられた。2006年に先生は私に対し「帰国の時が来たのではないか。ここでもずっと君に仕事をあげることはできるが、君の将来は保証し切れない。君の目で見ても、祖国に帰るべき時期ではないのか」と語りかけた。折しも、日本で東北師範大学の公募があったため、私は東北師範大学学長の招きで2007年10月に中国に帰国し、東北師範大学での仕事をスタートさせた。

 2009年、私は帰国して2年目に、東北師範大学が主催側となって中日双方間の交流会を開くよう要請する藤嶋先生からの通知を受け取った。当時の私にとっては、人材面でも資金面でも大きな困難があったが、帰国まもない私はこの機会を大変貴重なものと受け取り、私に対する藤嶋先生の励ましと感じた。この会議で私は多くの不可能に挑戦して自らの潜在能力を発見するに至り、最終的には会議を成功に導いた。これも、弟子を育てる藤嶋先生の手法の一つである。弟子にチャンスを与え、より良い成果を上げさせ、大胆に取り組ませ、自分でも知らない潜在能力を弟子自身に発掘させるのである。

さくらサイエンスプランの力で、学生のさらなる飛躍を

 2014年の「日本・アジア青少年サイエンス交流計画」(さくらサイエンスプラン)開始後、藤嶋先生は各国から来ていた留学生に対し、自分の研究室の学生たちを日本に連れて来て学術交流と勉強を行い、日本の科学研究と教育を理解させるように何度も呼びかけていた。2014年11月、私の研究室もさくらサイエンスプランによる招きを初めて受け、研究室に入ったばかりの大学院生9名を連れて日本を訪問し、5日間の短期交流を行った。

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さくらサイエンスプランに参加する筆者たちのグループ

 この間ずっと藤嶋先生は手厚くもてなし、非常に行き届いた視察プログラムを組んでくださった。学生たちは5日の間に研究室、科学技術館、東京大学等を見学し、東京の生活と研究環境を全体的に理解し、視野を広げることができた。このころすでに、藤嶋先生は東京理科大学の学長になっておられたが、同校でも光触媒の研究を継続され、産業界の友人たちに出資してもらって光触媒国際研究センターを設立していた。

 学生たちはここで簡単な実験をさせてもらった。同センターは落成したばかりで設備が揃っていたが、研究者はまだ少なかったため、設備をかなり自由に使わせてもらえた。藤嶋先生は学生のために他の研究室の視察も組んでくださったため、学生たちは秩序が高く行き届いた日本の研究環境を体験することができ、帰国後の彼らの研究生活の大きな参考となった。

 2016年に藤嶋先生が3年連続の提携交流を申請してくださったために、私は毎年、学生を率いて日本で21日間の交流を行い、研究を深められることになった。その年、私は再び学生を連れて東京理科大学光触媒国際研究センターを訪れた。21日間の交流で、学生は日本の科学研究や文化、教育を理解するのに充分な時間を持つことができた。この間、学生たちは藤嶋研究室で簡単な実験を行うとともに、東京の観光スポットや科学技術館を訪れ、研究のみならず文化面でも視野を広げることができた。

 さくらサイエンスプランの開始以降、藤嶋先生は招聘事業に力を注ぎ続け、中国、インド、韓国ならびに東南アジア諸国の提携校から多数の研究グループを招いている。中国からはさくらサイエンスプランに私の研究室のほか、姚建年院士、劉忠範院士、江雷院士らも参加している。プランによる招聘期間中は、迎える側にとってはプレッシャーが強く、大量のエネルギーを注ぐ必要がある。藤嶋研究室では毎年多くの研究グループを招くため、研究室としては超負荷運転をしているようなものだ。

 しかし、藤嶋先生はさくらサイエンスプランのような学術交流は非常に重要と考え、訪日する研究グループのために労苦をいとわず素晴らしい訪問プログラムの準備を続けられている。聞くところによれば、訪日後の研究グループでは答礼訪問が計画され、藤嶋研究室の学生を研究室に招いて交流することもあるようだ。こうして、双方の学生たちの間で、研究や文化の上で、より良い交流と共通認識が促されている。

藤嶋先生を師と仰ぎ、生涯にわたり恩恵を受ける

 私は帰国後、東北師範大学物理学院に勤務した。藤嶋研究室の主な研究テーマは光機能材料であり、私の最も関心ある分野でもあった。日本留学の間、私は数十名の教授と共同で、文部科学省から数十億円の予算がついた一大プロジェクト「光機能界面の学理と応用」に参加し、帰国後も光化学分野における太陽光エネルギーの変換について研究を続けた。

 しかし、条件に限りがあったために、物理学出身の研究生に化学研究をさせることは当時最大の困難であった。その理由は、一つには物理学院の学生は化学の基礎に弱く、入学後まもなくは化学の基本的な単位換算さえわからないためであり、もう一つには物理学院には化学関連設備がほとんどなかったためだ。このため、帰国当初の研究は困難を極めた。それでも、私は光機能材料の研究を粘り強く行い、恩師の藤嶋先生と長年にわたって緊密な研究上の交流を持ち続けた。

 私が最初の困難を克服できたのも、藤嶋先生と無関係ではなかった。それは、「物事を行うには、その報酬がどれだけあるかではなく、まずはきちんとやり抜くことを考えるべきだ」という先生の教えのためだ。当時、帰国の準備をしていたころ、神奈川科学技術アカデミーの事務担当者が私の妻に向かって「彼のような人はどこに行っても問題ないから、心配することはない」と話したことがあったという。

 実際にその通りになり、東北師範大学は中国の985工程の指定大学ではなかったために当初予算が少なく、研究条件が厳しかったが、それでも私は大学に特別の待遇を要求したりしなかった。私の記憶では、当初数年間に申請したプロジェクトのうち、最初の3つの予算はいずれもわずか3万元前後で、私はこの微々たる資金を研究室の機器購入に使いながら、研究に最大限の力を注いだ。

 帰国後まもない頃は研究資金に加え、経験豊富な研究者も不足していた。当時、藤嶋研究室から共に卒業して帰国した姚建年院士、劉忠範院士、江雷院士のほか、理化学研究所の先輩たちはみな北京で活躍していた。北京に比べて中国東北地方は研究のためのリソースと資金が不足していたため、研究初期は困難をきたした。

 しかし、努力は必ず報われるもので、帰国してから10年後には、私の研究グループは次第に充実し、研究グループの教員たちも徐々に育成され、私を補佐して学生たちを管理できるまでになった。私は学生たちと共に過ごすのを好んだが、これは藤嶋研究室の伝統でもあった。私の研究グループは毎週のように丸一日をかけてゼミを開催し、学生たちの研究を把握し、彼らの方向性を把握し、指導するようにしていた。これも藤嶋先生の教えだ。学生の良き手本となるために、私は永遠に、精力的に学生たちの前に立つことにしている。

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筆者と学生たち

 私の主な研究テーマは光機能材料、光触媒、新型太陽電池等である。長年の努力の末、私は自らの研究室と共に成長を遂げ、これまでに累計で博士12人と修士22人を育て上げた。現在、研究グループにはさらに4人の若い教員が在籍し、このうち副教授は3人であり、学生は修士課程に15人、博士課程に7人が在籍している。研究グループの人員増に伴い、私の研究成果も発展を続けている。

 私の研究グループは2016年までに累計で論文155編を発表し、特許6件を取得し、書籍を1冊出版している。また、それらの論文は8300回引用され、h指数は39 に達している。また、私は帰国後に多くの栄誉を与えられており、2016年11月に長白山学者特任教授、2011年10月に吉林省青年科学賞、2010年10月に教育部新世紀優秀人才計画を獲得している。

日本語版編集:馬場錬成(特定非営利活動法人21世紀構想研究会理事長、科学ジャーナリスト)


日本語版「縁遇恩師 ―藤嶋研から飛び立った中国の英才たち―」( PDFファイル 3.08MB )