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【08-012】テント学校での思い出

朱渓月(シカゴ大学 社会学専攻)    2008年12月25日

 5月12日汶川大地震発生の翌日、ボランティアが救援のため自発的に震災地に向かうというニュースを聞き私の心は奮い立った。というのも、私は高校在学中からボランティア活動がとても好きでずっと続けていて、四川に行くことはまた1つの社会貢献ができる機会だと思ったからだ。6月初め、私はインターネット上で「希望九洲」プラットホーム・ボランティア募集の情報を目にした。このプラットホームは震災後に民間の力で直ちに構築され、心のケアから始まり、現在は綿陽に置かれた本部が計画の全体調整を行い、各被災者の避難所を支部として末端ボランティア活動を実施している。ボランティア活動は心のケアのほか、避難所の建設、テント学校での管理、教育へと範囲を広げている。私は農村の子供に教えた経験があり、ちょうどこのボランティア活動に適していると思った。そこで準備を済ませた後、私はひとチームを伴い6月14日綿陽に到着した。

 地震発生から約1ヶ月後、地元の運転手によると、各世帯が道端に設けたテントはすでにかなり減り人々は徐々に自宅に戻っている。私たちが到着した日には、地震後の最大の脅威「土砂せき止め湖」の水もすでに排水に成功していた。市区を流れるさほど激しくない川の流れを見ながら、私たちの不安もやや和らいだものだ。

 ほどなく私たちは希望九洲の本部に到着した。午後いっぱいで指導を受けて現地に順応した後に、私たちは北川と綿陽の間に設けられた永安避難所での活動を割り当てられた。そこは本来一面の農地で、周囲を山々に囲まれていたが、地震後に政府が約600張りのテントを設営し、2つのエリアに分け、それぞれを地元の郷政府と科技局が管理していた。避難所全体にはさらに2ヶ所の炊事場(ボランティアと被災者が一緒に大釜の食事をとる)、1ヶ所のテレビがある公共活動エリア、2ヶ所のトイレ、2ヶ所のシャワー室(通常は水のみ)、若干の水道の蛇口、1つの飲料水用の湯沸かし器、そして1ヶ所の売店があった。その他の携帯電話業務、保険業務、弁護士団等にも、専門企業が愛心チームを派遣していた。そして、1ヶ所のテント学校もあった。レンガ道の周囲は泥地でひと雨降ると靴は泥にのめり込み、断水・停電もたびたび発生したが、全体的には被災者の生活はすでに秩序ある回復段階に入っていた。

 このような時間と場所において私は2週間のボランティア活動を経験した。

テント学校

 テント学校は私のボランティア活動の中での主な活動場所であり、そこで毎日授業を行い、放課後は子供たちと学校の前の運動場で遊び、食事は学校でとり、食事後はボランティア会議を教室で開き、物資も学校で配給し......つまり、テント学校の周辺一帯は私に数々の思い出を残した。

 まず授業について話すと、この特殊な時期に私たちボランティアは共通認識を形成した。それは、授業の内容はこれまでの授業の内容を継承するとともに、私たちが去った後に地元の先生が教えないものを子供たちに与えようというものだった。そのため毎日の授業日程表は変化に富んでいて内容も豊富であった。国語、算数、英語等の基本科目のほか、私たちは音楽、写生、三字経(三字句)、交通法規(避難所の子供たちは秋には農村から都市の学校に転校する)、衛生防疫の常識、思春期の常識なども教えた。各ボランティアは自身の得意分野に基づいて各科目を担当し、私は英語、三字経、音楽、そして朝と休み時間の体操を担当し、小学1年生から中学2年生まで教えた。

 子供たちは授業の時、皆とても真剣だった。私は英語の授業で彼らの発音を直すため、生徒に一人ずつ発音させた。彼らは最初に正しい発音ができないと、自ら小声で練習していた。私がある生徒の発音をほめた時には周囲の生徒が集まってきて、ほめられた生徒の口がどのように動いているのかを見つめた。見つめられた生徒は恥ずかしがり、他の生徒はまたそれをからかって笑うのだった。

 実際のところ私たちの教育条件は楽観視できなかった。教室は大型のテントで、風や雨も十分には防げず、各教室の間は1枚のカーテンで仕切られただけで、授業中の声が互いに入り混じっていた。もっとひどい事には、物資不足のために2、3人の子供たちが1つのイスに詰めて座った。私が最初の授業を行った時、教室の後ろの方から突然誰かが「報告します!」と叫んだ。それは一人の男子生徒が遅刻して来たのだった。私はその時教室がすでに満杯状態であることに気づいた。そこで私が周囲でイスを探していると、3列目に座っている3人の生徒が席を詰めて、机の上の文具も端に移し、そして振り向いて遅刻した生徒を手招きした。こうして教室にはすぐに「もう1つの席」が出来上がった。その4人の生徒は2つのイスに詰めて座り静かにその授業を終えた。彼らはまだ小学校3、4年の生徒である。この出来事を見て私は言いようのない感動を覚えた。その後、同じような情景が何回か見られた。子供たちは互いに席を譲り、鉛筆を削るナイフを持っている子供は新しい鉛筆を削ると鉛筆のない同級生に貸し、机のない同級生たちは互いに背中を借りてノートを写したものだ。ほどなく、避難所にはプラスチック製の長イスが運ばれてきて子供たちのイス不足問題はほぼ解決し、ひと安心となった。

 人手に限りがあり、各ボランティアは毎日数時限の授業を担当し、時には一日6時限をこなした。そのため、のど飴やのどドロップが私たちの良きパートナーとなった。それでも、大部分のボランティアはのどを痛めて声がかすれ、人によっては笑うだけでものどが痛んだ。それでも皆が頑張り続け、声が出せなければ物資を積んだり、飲料水を運んだり、運動場を整備したりして、多くの体力作業に励んだ。薬を飲んでのどが少し良くなると、私たちはまた子供たちの授業を担当した。

 子供たちはいつも、食事後に学校に走って戻り、先生を探しては一緒に遊んだ。私たちボランティアは皆二十歳前後で子供たちと楽しく遊ぶことができるので、彼らはその後、私たちを先生とは呼ばず、○○兄さん、□□姉さんと呼ぶようになった。私たちボランティアと子供たちは1つの家族のようであり、縄飛びをしたり、サッカーをやったり、「ボタンの花が咲いた」といった人探し遊びをしたりして、私たちが決めた子供たちの帰宅時間の夜9時まで遊び続けた。そして私たちは子供たちの帰宅を促し、彼らと手をつなぎながらテントの家まで送って行った。

地震、傷

 避難所の子供たちの間では楽観的な気持ちが主流を占めてはいたが、やはり地震の恐ろしさは簡単には消えず、心を刺すような痛みをたびたび与えた。

 廃墟は言うまでもなく、倒壊した建物はすでに四川の新たなシンボルとなっていた。私が避難所の向い側にある街に行くといつも、世話をする人がいなくなったニワトリが鳴き続けるのを聴いたり、玄関前につながれたままで全く元気のないイヌを見たりしたが、主人はどこにいるのか分からなかった。また、家屋の壁に政府によって「取り壊し」または「強化」といった紙が貼られているのも人目を引いた。

 避難所の人々は、一部が重度被災地の北川から来て仮設住宅に住んでいるが、その他の多くは自宅に戻って再建を開始していた。彼らがテントの家を離れ再び破損した自宅を見た時どういう気持ちになるだろうかと、私は思わずにいられなかった。

 生徒の親に、「自宅の一部が倒壊しているので、もうそこへ戻らずに仮設住宅に住み続けませんか」と訊いたことがある。彼らは首を横に振り、「やはり戻るよ。戻れば政府が補助金をくれるし、各世帯には1、2頭の牛が与えられる。自宅に幾つかの裂け目ができても倒れていなければ何とか住めるようにするよ」と答えた。

 夜に子供たちと遊び、皆が疲れて座って星を見ながら雑談をしたことがあった。私と比較的親しい子供たちは、時おり地震発生前の事(被災者の心を再び傷つけることを心配し、この種の話題はボランティアから決して軽々しく話すことはしない)を話し出した。彼らは自分が最も好きな先生のこと、誰と誰がかつて同級生だったこと、地震が発生した日に彼らがどうやって建物から抜け出し、運動場では立っていられずに腹ばいになっていたこと、先生とともに3日間で7つの山を越えてやっと安全な場所にたどり着いたことを話してくれた。ある時、話していた中学1年生の女子生徒が泣き始め、すすり泣きながら「どうして亡くなった先生は私が一番好きだった先生なの。どうしてあの先生たちは逃げ出せなかったの。私はあの先生たちに会いたい......」と続けた。その時、私はただその生徒をやさしく抱き抱え彼女に微笑むのみで、もう少しで涙がこぼれ落ちるのを我慢したのだった。

別れ、愛情の現れと伝達

 私が永安で過ごした2週間に少なからぬ別れがあり、それは毎回感動と感傷に包まれたものであった。

 その間、多くの子供たちが親に連れられて故郷に戻って行った。ある夜のこと、私と他の数人のボランティアが街で用事を済ませてから戻った時、すでに遅い時間になっていた。私は、私が担当する中学2年のクラスの二人の兄弟が、学校の周りを徘徊してなかなかテントに戻らないのを目にした。彼ら二人も私に気づき、私の所にやって来て「渓月先生、僕らは......あしたここを去ります」と言った。それは私にとって最も聞きたくない言葉であった。私の心にぽっかりと穴が空いた。毎回、生徒が去るという知らせを聞くと、私はいつも何の準備もなしにあの可愛い子供たちと別れなければならないのがつらかった。その日、避難所はちょうど停電であり、頭上の星の光があるだけであった。暗闇の中、私は彼ら二人の影に向かい、最後の言葉を言い聞かせた。「氷くん、これからは授業をさぼったらだめだよ。今日は三字経を勉強してあんなに良く答えていたじゃないか。これからもたくさん聞いてしっかり勉強するんだよ! 林くん、ここ数日は保健委員をしっかりやったね。これからも頑張るんだよ!」彼らはうなずいた。そして、彼らに私のTシャツに名前とひと言を書いてもらった。私は携帯電話の光で照らし、すでに書かれた文字でいっぱいになったTシャツを見ながら多くの言葉を心の中にしまい込み、話すことができなかった。その後、私は洗面してからまた学校の方に行き、運動場に座って再び星を眺めようと思った。四川の星は私が生活する北京よりも多くて美しい。その途中で先の兄弟がまた私の方に歩いてくることに気づいた。「渓月姉さん、僕たち探していたんだよ」と言うと、彼らは私に一つのアクセサリーをくれた。「僕が今作ったんだよ」と林くんが言い、「見て、この貝殻はあっちの山で拾ったんだよ。中には僕のお守りが入っている。僕はトリ年生まれなんだ!」貝殻の表面を指でなでながら、私はそれがとても重くて大事なものだと感じていた。

 私はボランティアとして子供たちに数時限の授業を行い、彼らと数日遊んだだけなのに、子供たちはこのように最も純朴な方法でその倍ものお返しをくれるのだった。生徒たちを送り出す時、ある生徒は私に小さい頃の写真をくれ、ある生徒は父親からもらったばかりの梨をかたくなに私の手に渡し、ある生徒は故郷の家に戻るとわざわざ私に無事を知らせる電話をくれ、子供たちの純粋な感情はこの時期に残らず表現されたのだった。私が思うに、こうした日々の中で困難を克服しながらボランティア活動を続けてこられたのは、一部分はボランティア同士の励まし合いによるが、もっと多くは子供たちのうれしそうな笑顔と愛情によるものであった。

 6月末、私は北京に戻った。ある友人はMSNで、四川に行って最も感慨深いことは何かと質問した。私は長い間考え、最も感慨深いことはやはりひと文字「愛」と答えた。この愛はボランティア同士の戦友愛であり、ボランティアによる子供たちや被災者への博愛であり、そして私たちすべての中華民族への愛である。愛がこの民族の未来を守り、私たちすべてがそれぞれに少しの愛を捧げれば、中華民族は廃墟の中から立ち上がることができるのだと思う。

朱渓月

朱渓月(Zhu Xiyue):

05年7月、天津市南開翔宇中学校卒業
08年7月、中国人民大学付属中学(高校)卒業
08年9月、シカゴ大学社会学部入学