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【16-03】中国社会の光と影

2016年 3月24日

柯 隆

柯 隆:富士通総研経済研究所 主席研究員

略歴

1963年 中国南京市生まれ、1988年来日
1994年 名古屋大学大学院経済学修士
1994年 長銀総合研究所国際調査部研究員
1998年 富士通総研経済研究所主任研究員
2005年 同上席主任研究員
2007年 同主席研究員

プロフィール詳細

 日本経済が減速すれば、日本社会全体はなんとなく暗くなる。否、日本経済は減速しなくても、日本社会は静かであり、生き生きとした雰囲気は感じとられにくい。逆にいえば、日本社会の雰囲気は景気のように大きく変動しない。これは日本社会の良さでもある。

 今、中国経済は急減速している。テレビや新聞などのマスコミの報道を通してみえるのは、不動産バブルの崩壊に伴って出現するゴーストタウン、給料の遅配に対する抗議活動、幹部の腐敗の横行、株の暴落などなどマイナスの話がほとんどである。それにPM2.5に代表される環境汚染が深刻化し、中国はまるで地獄のようにみえる。「中国はたいへんだね」と最近、日本の方からよく同情される。

 しかし、実際に中国に行ってみると、人々は意外に陽気である。どこにも不安や不況は感じられない。これぞ中国である。日本の国土の25倍にも相当する中国では、14億人が共存し、少なくとも56の民族がいる。多民族国家の大国だから毎日何かが起きるのは不思議なことではない。日本ではめったにないが、たとえば、あるコンビニで一枚の偽札が使われた場合、間違いなく新聞とテレビでニュースとして報道される。中国では、毎年数億円分の偽札が見つかっているが、よほどのことないかぎりニュースにはならない。昔、中国出張中、気が付いたら財布に一枚の100元の偽札が入っていた。それを使って買い物しようとしたとき、店員が受け取るのを拒否して返された。日本だったら、おそらく警察に通報されたはずである。

危機は危機と思わなければ危機にならない

 日本人同士の会話のなかでもっともよく使われる言葉は、「たいへんですね」である。たいしたことがなくても、「たいへん」と表現するのは日本人である。逆にいうと、日本人が「たいへん」といっているときは、たいへんでないということになる。中国人はめったに「たいへん」といわない。ちなみに、中国語では、たいへんなことを「不得了」という。

 たとえば、オーソドックスな経済学理論で中国経済を分析すれば、これまでの35年間、少なくとも3回以上大規模な経済危機が起きたに違いない。しかし、現実的には、危機らしい危機が一度も起きていない。なぜだろうか。実に不可解なことといえる。

 まず、中国人は危機を危機と思わない傾向が強い。危機は危機と思わなければ危機にならないかもしれない。むろん、危機にならなくても、その都度、犠牲者が出る。危機はその被害が広範囲に広がる場合のことである。中国では、危機の広がりを最小限に抑えるやり方で危機に対処する傾向がある。すなわち、危機的な状況に陥った場合、危機の震源地にもっとも近い人々が犠牲になるが、それ以上被害が広がらないようにする。そうすると、危機と無関係な人は知らない顔をするので、社会全体は何も起きていないような雰囲気になる。

 2015年、天津の港で薬品の倉庫で大爆発事故が起きた。これは間違いなく危機的な状況にほかならない。しかし、半径10キロ以内に住んでいた人々は家が破壊されるなど被害を被ったが、事故が起きてから2か月が経ったころには、マスコミは報道もせず、まるで何も起きていないようだった。むろん、事故現場にもっとも近いマンションに住んでいた人々は事故をきっかけに人生プランが完全に狂ってしまった。彼らが十分な補償を得ているかも不明である。

 実は、天津の近くに唐山という町があるが、1976年7月に大地震が起きて、町そのものは全壊してしまった。しかし、今となって唐山で何が起きたか知らない人が多いぐらいで、あのころの教訓などまったく語られていない。中国では、「無知者無畏」という言葉があるが、知らないものは恐れるものもない、という意味である。

光を通してみえる影

 2016年の全人代で中央電視台(CCTV)だった崔永元代表は「総理の政府活動報告は成績のみ報告するのではなく、問題も言及すべきである」と記者に述べた。これは今の中国では、爆弾発言のようなものである。成績を華々しく誇張し、問題をできるだけ言及しないのは中国社会の文化のようなものである。今年の政府活動報告でも、李克強首相は、中国経済は安定して成長しており、構造転換も前進していると冒頭で強調した。中国人は人々をおもてなしするとき、光の部分を全面的に示す傾向が強い。指導者も同じである。

 振り返れば、2008年北京五輪のとき、北京の目抜き通りのほとんどは塗料できれいに塗装されていた。しかし、一歩路地裏に踏み入ると、そこは旧態依然の雑多な様子だった。外国人からみると、違和感を覚えるだろうが、これは中国の常識といえる。別に影を隠すのではなく、影、すなわち、不愉快な部分を人に見せないというのは人に対する一番の配慮である。したがって、中国経済が減速しており、問題も山積しているのは明々白々であるが、李克強総理は光の部分を示しながら、中国人、そして世界を安心させようとする心配りが見え隠れしていた。要するに、これは隠ぺい工作ではなく、文化と習慣に則った発言といえる。

 中国人ならば、人民日報や新華社の記事を読むときのコツをたいてい知っている。すなわち、出だしの部分をほとんど真剣に見る必要はなく、真ん中も乾燥無味の陳述が多い。重要なのは、最後の部分、すなわち、「しかしながら、我々は依然として厳しい困難に直面している。」という表現から始まるパートをしっかり読む必要がある。あえていえば、これは光を通してほんとうの影を読み取るわざである。

 なぜ日本人は中国のことについて分からないというのだろうか。日本人は人民日報の文章を出だしから真面目に読み、それを鵜呑みしようとするから、訳が分からなくなる。

 今の中国は大変革の時代にあるが、なかなか変わらない文化と習慣もある。鄧小平の時代から「発展こそこの上ない理屈だ」というスローガンが叫ばれてきた。発展とはなにか。GDPの拡大は発展というならば、その恩恵を受けている人にとり発展は何の意味もなかろう。

 この3年間、どれほどの腐敗幹部が拘束されているのだろうか。確かな人数と収賄の金額は分からない。少なくとも共産党が発表した収賄の金額は実態からかい離しているはずである。これにも光と影がある。中国経済の規模が大きくなればなるほど、光の部分はまぶしいが、影も暗い。その影の部分を暴露するのはメディアであるが、良心的なジャーナリストが相次いで拘束されている。全人代の記者会見で、ワシントンにある華僑新聞の記者は、「なぜ『新聞法』(メディア法)が制定されないのか」という質問を責任者にぶつけた。その責任者は、「今日の記者会見はできるだけ西側の主流(メインストリーム)メディアにチャンスを与えよう」と言ってはぐらした。これこそ傲慢と偏見そのものである。