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【18-03】カール・マルクス生誕200年の歴史と現実

2018年5月21日

柯 隆

柯 隆:東京財団政策研究所 主席研究員

略歴

1963年 中国南京市生まれ、1988年来日
1994年 名古屋大学大学院経済学修士
1994年 長銀総合研究所国際調査部研究員
1998年 富士通総研経済研究所主任研究員
2005年 同上席主任研究員
2007年 同主席研究員
2018年 東京財団政策研究所主席研究員、富士通総研経済研究所客員研究員

プロフィール詳細

 2018年は中国の「改革・開放」の40周年である。日本にとっても、明治維新の150周年であり、とても記念すべき年である。一方、ほとんどの日本人にはなじみのないことだが、今年はカール・マルクス生誕200年記念でもある。最近ではドイツのマルクスの故郷に中国人観光客が押し寄せ、聖地を参拝するような光景となっている。当地の知事はなぜこんなたくさんの中国人が「参拝」に来るか、戸惑いを隠せない様子である。

 日本では、マルクスといえば、「資本論」が有名であろうが、それでも読んだことのある日本人は少ないはずである。マルクスは同書で資本を定義し、資本を軸にして資本主義社会の問題点を紐解く努力をしており、学術的に評価されるに値する。それに対して、中国では、「資本論」も広く知られているが、「資本論」よりも「共産党宣言」という共産党の綱領(マニフェスト)的文書がまるでキリスト教徒にとっての聖書のようなものとして祭られている。

 それでも、「資本論」も「共産党宣言」もたとえ指導者でも真面目に読んだことのある人は皆無ではないが、少ないはずである。個人的に共産党員ではないため、「共産党宣言」を読む気にならない。「資本論」を走り読みしてみたが、当時の西ヨーロッパの社会情勢を詳しく観察した労作と言わざるを得ない。しかし、今の時代には適応しない主張である。繰り返しになるが、19世紀当時の西欧社会を観察するうえでは、それなりに学術的価値のある観察といえる。

 今までの200年間を振り返れば、200年前の資本主義社会と比較して、今の資本主義社会はまるで異質の社会構造になっている。たえず進化している資本主義社会においてもっとも革新的な出来事は民主主義体制を導入し、それを法的に保障したことである。

 マルクスが目にした資本主義社会は間違いなく資本家が労働者を搾取していた、社会の矛盾がもっとも深刻な時代だった。マルクスは資本家による搾取行為を理論的に解明した。すなわち、資本家は労働者が生産した余剰価値を勝手に着服したということである。

 問題は、マルクスが考案したソリューションが階級闘争であるということにある。階級闘争とは、プロレタリア階級が自らを解放するために、ブルジョア階級と闘争する考えである。すなわち、労働者階級の不満と怒りを暴力に転換させることである。この考えは後ほどレーニン、スターリン、毛沢東と継承されていった。階級闘争は法に則って行われるものではなく、労働者階級の都合のいいように資本家階級が革命のなかで追放されていった。

 マルクスが唱えた共産主義体制の最大の問題は労働者階級による専制を正当化し、民主主義体制の導入を拒んだことだった。その結果、旧ソ連や東欧および中国と北朝鮮、さらにキューバなどの社会主義国のすべては独裁政治になってしまった。専制的な独裁政治の恐ろしさは政治権力が国民によってガバナンス・制御されないため、暴挙に出ることが多い。

不完全なマルクス理論

 おそらくマルクス自身も自らの研究がここまで祭られるとは夢にも思わなかっただろう。しかも、20世紀に入ってから、旧ソ連や東欧、中国などの社会主義国で起きた暴挙のほとんどがマルクス主義の大義名分で行われたものとしてマルクス本人がそれを知ったら、後悔しているはずである。

 マルクス理論の最大の欠陥は人間のエゴイズム(利己主義)を無視して、共産主義体制を提案した点である。すなわち、共産主義のエゴイズムをいかなるメカニズムによって抑えるかについてマルクスは何の言及もしなかった。資本主義社会においても権力者が腐敗するが、それを抑制するために、資本主義は民主主義とハイブリッドしてガバナンスのメカニズムを取り入れた。モンテスキューによって提起された三権分立の考えはガバナンスの有効性を最大限に担保している。

 かつて毛沢東が豪語したことだが、「共産党員は特別な素材で作られたものである」といわれた。すなわち、共産主義者は生まれつきでその体にエゴイズムなど付随していないということである。しかし、この5年間で、中国で150万人以上の腐敗幹部が追放された。一人または二人なら別として、150万人以上の腐敗幹部が追放されたことを考えれば、共産党員が特別な素材で作られたものではないことは明白である。

 そもそも共産主義というのはどういう社会的枠組みだろうか。

 おそらくその基本的なエレメントといえば、一つは共産主義の名前の通り、私有財産が認められない。私有財産が認められなければ、エゴイズムは相当抑制される。しかし、旧ソ連や東欧と中国などの社会主義国を観察すればわかるように、財産に関して個人所有どころか、権力者はそれを占有することができる。財産を個人所有しなくても、それを占有することの意味はより重要である。

 共産主義体制のもう一つの重要なエレメントは平等の原則である。旧ソ連においてスターリンおよびその取り巻きは特権階級となり、彼らが占有していた財産は普通のソ連人民がまったく想像できないほどのものだった。しかもスターリンにとり、政敵や自分に対して批判的な態度を取る知識人を殺害するのはハエを一匹殺すのとほとんど同じ重みだった。晩年の毛沢東もスターリンとほぼ同じだった。共産主義体制における不平等は財産所有に関する不平等ではなく、権力と権限に関する不平等およびそれに関する利害の不平等である。

 なぜ社会主義国の体制のほとんどは失敗に終わったのだろうか。

 原点を辿れば、やはりマルクスが考案した共産主義体制の欠陥によるものといえよう。しかも、その後継者たちはマルクス理論を教条主義的に継承するが、それを進化させようとしないところに問題がある。

 最後に、マルクス生誕200年に際して、マルクスを神格化する動きが中国にあるが、マルクス理論を客観的に考察し、それをさらに進化させていくことこそ重要である。マルクスの著作を読まず、それを神様のように祭る行為はなによりも愚かであると言わざるを得ない。