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【18-05】大学とは何か、教育のあり方を再考

2018年7月4日

柯 隆

柯 隆:東京財団政策研究所 主席研究員

略歴

1963年 中国南京市生まれ、1988年来日
1994年 名古屋大学大学院経済学修士
1994年 長銀総合研究所国際調査部研究員
1998年 富士通総研経済研究所主任研究員
2005年 同上席主任研究員
2007年 同主席研究員
2018年 東京財団政策研究所主席研究員、富士通総研経済研究所客員研究員

プロフィール詳細

 中国でも日本でも大学教育を受けた筆者は、教室に座るのが好きではない。どちらかといえば、図書館にこもって読書するのが好きである。

 先日、ある国際会議に参加し、アイスランドから来た教育者の講演を聞いて、ふっとひらめいた。彼女によると、学校とは教える(teaching)ところではなく、学ぶ(learning)ところであるという。なるほど、日本でも中国でも「学校」という名前の通り、学ぶ場所の意味である。ちなみに、「大学」というのは幅広く深く学ぶという意味のようだ。

 しかし、現実的には、中国の学校は学ぶところになっておらず、教え込まれるところになっている。筆者は母国の中国の学校であまりいい思いをしたことがない。なぜならば、大学受験のとき、歴史や政治の試験でほとんど点数が取れなかった。今、歴史の書籍をたくさん読んでいるが、大学受験のときの歴史は単なる説教に過ぎず、たとえば、共産党の赤軍が敢行した長征の意義を書きなさいという出題があった。それについてはほとんど覚えていなかった。政治の試験も似たようなことで、資本家の搾取とは、という出題があった。

 30年前に名古屋へ留学に行った。学部のとき、経済原論という講義を履修したことがあるが、年配の教授はいきなり、黒板に「搾取とは」と書き始めた。なぜ社会主義中国を脱出した若者が資本主義の日本に来て、マルクス経済学を学ばないといけないのか、理解できなかった。

 今、ある大学で特任教授を兼務しているが、毎年、3回だけ講義を行う。ある日、数十人いる学生に、「毎日、新聞を読む人、手を挙げてください」と言ったら、一人だけだった。個人的に担当する講義は教えるための授業にしたくない。みんなで参加してみんなで考える授業にしたい。プーチンの写真をみせたら、毎日新聞を読む女子学生はいきなりプーチンのフルネームが言えた。

 日本では、学力テストという試験があるようだが、そもそも学力というのは学ぶ力であり、教える力ではない。教師の役割といえば、せいぜい啓発してあげる程度であろう。

 もっともいやな光景といえば、大学の教室で学生が聞いているかどうか、構わず滔々と事前に用意したノートをメリハリもなく読み上げる教師の授業である。学生は勉強したくない。教師はそれを理由に真面目に教育しない。それでも、学生にとってとりあえず大学に進学できれば、4年間遊んでからどこかの会社へ就職できる。教師にとっては、勉強もせず、目的もなく大学に通ってくる学生がいれば、社会の平均よりも高い給料がもらえる。これほど、ラッキーなことはない。だが、これはモラルハザードと言わざるを得ない。

 日本と中国はいろいろな意味でよく似ている。現在、世界の名門大学は少しでもランクを上げられるようにあの手この手で競っている。その一つの指標は、在学生が執筆した論文の引用される回数である。この考えはまったく無意味ではないが、それはあくまでもエリート教育に対する評価であり、大学教育全体に対する評価にはならない。

 中国の大学教育の問題といえば、イデオロギー教育を取り入れることと思われる。かつて、北京大学清華大学の学長たちは、学生が独立思考できるように追及していた。イデオロギー教育の問題点といえば、学生に服従を求めることである。

 中国人大学生は日本人大学生と比較した場合、いくらか陽気であり、しかも上昇志向が強い。しかし、今の中国社会では、拝金主義が横行している。拝金主義とは、金になることなら何でもやるが、金にならないことはだれもしない。その結果、中国人大学生は最低限の教養が備わらない。教養のある人と対話すると、話が弾む。教養のない人の話は往々にして乾燥無味である。

 日本社会では、決して拝金主義が横行しているわけではないが、若者たちは読書をしなくなった。30年前に名古屋で留学していたときのことを思い出すと、あのとき、地下鉄に乗ると、読書する人が多かったように覚えている。今は、朝の通勤時、電車に乗っているほぼすべての人は携帯をいじっている。

 携帯電話はとても便利なツールだが、デメリットもある。携帯電話でニュースを確認することができるが、文章は短いもので、それに慣れると、人間の思考も浅薄になる恐れがある。読書の素晴らしいところは、文字通りの意味を吸収するだけでなく、読書と同時にイマジネーションが働き、感性がより豊かになる。

 日本の政治家は失言することが多い。なぜ失言するのか。その原因の一つは読書、とりわけ真面目な本を読まなくなったことにある。キャッチフレーズしか思い浮かばない政治家は口を開けると、すぐに失言してしまう。

 個人的に漫画をいっさいみない。決して漫画がよくないというつもりはないが、わかり易い読み物ほどイマジネーションが働かない。明治以降、日本の一つの功績は世界の名著をほぼ全訳していることである。しかも、昔の訳者のほうが丁寧に訳すため、原著の味がにじみ出るように訳されている。それが読まれなくなったというのは何とも言えないさびしいことである。

 ときどき神保町の古本屋を彷徨うことがある。やはり昔の著述家と翻訳家に傾倒せざるを得ない。今年は、明治維新から150年経過した。これまでの150年間を振り返れば、日本の教育のあり方は大きく変化した。個人的に理科系教育についてコメントする立場にないが、文系教育に大きな問題が浮上していると思う。

 次の150年を展望すれば、今の教育制度では、国家を支えきれるかは疑わしい。おそらく教育の原点に一度立ち返る必要があると思われる。

 中国も同じである。今までの40年間の「改革・開放」で経済は奇跡的に発展したが、それで現在の教育がよかったという理由にはならない。とくに、イデオロギー教育には百害があっても一利すらない。重要なのは若者の感性を豊かに育成していくことである。