日中の人材・機関・連携
トップ  > コラム&リポート>  日中の人材・機関・連携 >  【12-007】中国脊柱外科の第一人者、劉海鷹氏を取材

【12-007】中国脊柱外科の第一人者、劉海鷹氏を取材

科学技術日報     2012年 4月26日

写真

 劉海鷹氏は、北京大学人民医院脊柱外科の主任である。劉氏は1995−1997年、ドイツの脊柱外科中央病院で研究を行い、世界的な脊柱外科の権威であるMetz-Stavenhagen教授とMatzen教授に師事し、先進的な脊柱外科手術を学び、中国人として初めて独ブレイン臨床奨学金を獲得した。

 劉氏は2001年、人民医院脊柱外科を設立し、中国の整形外科疾病の変化を対象に、高齢者の脊柱および下肢関節疾患の処理順序を、国内外に先駆けて発表した。劉氏はこの10年間、1万人を超える脊柱疾患の患者に診断と治療を行い、5000例の手術治療を行い、患者の苦しみを取り除いた。

 椎間板ヘルニアは一般的な疾病で、生命の危険はないが、患者に激痛をもたらす。患者は痛みに耐えられず、やむなく手術を行うことが多い。しかし劉氏は実践において、椎間板の突出に対するそれまでの手術方法は大掛かりであり、ミスがあれば深刻な後遺症が残り、薬物注射による治療も安定的な効果を得られないことに気づいた。劉氏は研究を重ね、椎間板の内視鏡手術という先進的な技術により、患者の手術によるリスクを大幅に低減した。

患者のために自己と家庭を犠牲に

 今年47歳になる劉氏には、6歳の娘がいる。父親は娘を最も可愛がると言われるが、劉氏は一日のうち娘とほとんど話をしない。毎朝7時に病院に姿を現し、毎晩8−9時になりようやく帰宅し、土曜日も患者を診察しなければならない。家に帰っても、劉氏にはいつ終わるとも知れない仕事(翌日の手術計画、院生の論文、自分の学術研究等)があり、これらを終えた頃には夜がすっかり更けており、熟睡した娘を起こすこともできない。

 「幸い娘はお利口で、私がかまう必要はありません」娘の話になると、劉氏の表情には幸せな様子、やるせなさ、後ろめたさが入り交じる。「本当にかまってやる時間がないのですから、仕方がありません」。

 娘を放任する劉氏も、患者や病院に対しては強い責任感と使命感を持っている。

 2006年12月、先天的な脊柱側弯症に悩まされる、四川省出身のイ族の馬秀才さん(17)は、人民医院で矯正手術を受けた。手術を成功させるため、放射線の環境下で手術が行われた。劉氏は15キロ以上の防護服を着用し、手術を行った。手術を終えると、全身が汗まみれになった。防護服は胴体部分のみを防護し、頭部および両腕は手術のためむき出しとなっており、放射線にさらされる。放射線にさらされたまま長時間働くと、白血球が損なわれ、全身の抵抗力が低下する。「患者のために自己を犠牲にするしかありません」

海外に渡り研究を進める

 劉氏は1993年に臨床医学博士課程を終了すると、北京医科大学人民医院の整形外科に残った。劉氏は整形外科のうち脊柱外科のリスクが最も高く、術後の併発症が最多であることを知った。最も先進的な脊柱外科の経験を学ぶため、劉氏はドイツ南部最大の整形外科病院、Hessing整形外科病院で研究を行った。

 ドイツ研究期間中、最大の問題は手術の頻度であった。その他のドイツ人医師は毎週1−2日手術をするだけだが、劉氏は絶好の機会と思い、毎日手術に5−6回参加した。脊柱手術は、毎回数十回におよぶ放射線による透視を行う。この激務により劉氏は下肢、特に足のむくみに悩まされた。「1日の手術を終えると、足がむくんで靴が履けなくなります。仕方が無いので、現地のアジアンショップで布製の靴を購入しました」当時を振り返ると、劉氏は笑顔を見せた。

 劉氏の技術には定評があり、ドイツの専門家でさえ難しい第一頚椎の手術を率先して行い、ドイツの同業者から高い評価を得た。劉氏の高い技術と強い意志が、誇り高いドイツ人からの尊敬を勝ち取ったのだ。

中国で一流の脊柱外科を設立

 北京大学人民医院の呂厚山院長は1997年5月のドイツ視察期間、宿泊先で劉氏と出会い、中国の脊柱外科の現状および人民医院の発展について、丸2日間話し合った。

 劉氏はこれに刺激を受け、帰国を思い立った。「ドイツで私はいつまでたっても客人ですが、中国は祖国であり、主人になることができます。祖国のために貢献し、患者の痛みを取り除かなければ、と考えました」。

 2ヶ月後、各病院からの招聘状を受け取っていたが、劉氏はそれらを顧みず帰国した。当時の中国では、脊柱外科を専門とする病院は数えるほどしかなく、参考にできる経験がなかった。「脊柱外科そのもののリスクが高く、技術条件が厳しく、神経系等の併発症が生じやすいためです」。劉氏は感慨深く当時を振り返った。設立されたばかりの脊柱外科は、医療設備が不足しており、職員の編成も乱れており、技術力など尚更なかった。「人民医院で新設された脊柱外科は、一枚の白紙と言えました」。

 新設当時、劉氏には重い負担がのしかかった。劉氏は病院に住み込み、患者の病状の変化を診察した。ドイツ研究期間、Metz-Stavenhagen教授は脊柱手術のリスクについて、「Zielike教授が脊柱手術を始めた当初は、術後に下半身が麻痺し車椅子生活を余儀なくされた患者もいた」と語った。人民医院にも、それまで同様の事例があった。劉氏はこれらを避けるため、「脊柱外科の併発症を最小限に抑える」を原則とした。

 「併発症を最小限に抑えるためには、卓越した技術の他に、総合的な処理能力とチーム全体の高いレベルが必要です」劉氏は常に同僚をこのように戒めている。「医者という職業を選択したならば、薄氷を踏み、深淵を望みつつ、一生歩き続けなければなりません。毎日就寝前に、患者を治療した全過程を何度も振り返り、不備がなかったか、すべての段取りが厳格な順序に従い行われたか、明日治療プランを調整する必要がないかを検討します。こうすることで、医者の名に恥じない働きができます」。

 1000例の脊柱手術のうち、死亡、神経麻痺等の併発症、傷口の感染が1度も発生していない。劉氏らはこの同業者が羨む記録を樹立したのだ。

 劉氏の指導者、欧州の脊柱手術の権威であるMatzen教授は、劉氏がまとめた手術報告のスライドショーを見ると、何度もうなずき賞賛した。同業者らは劉氏が手術を行った患者のX線を見ると、「優れた手術だ。ボルトと固定装置が誤差なく取り付けられており、まさに芸術品である」と感嘆をもらした。

患者のため、自らの健康を犠牲に

 ある患者は「先生はすっかりやつれてしまった。お体をお大事に、と言うと、先生はいつも感謝の笑みを浮かべてくれるんです」と語る。夜を日に継ぐ業務により、劉氏の手には手術器具により大きなたこができ、長期的な激務により深刻な頚椎病にかかり、毎日放射線を浴び体を損ねている。

 診断の結果、47歳の劉氏の頚椎はすでに6−70歳の高齢者の頚椎に相当することが明らかになった。しかし劉氏は常にネックカラーをつけ、コルセットをはめて手術を行い、自らの病気のために休んだことがない。「患者からの温かい言葉に支えられ、私は努力を続けることができます」。今年の年初、劉氏は長時間直立の姿勢をとり続けたことが原因で、腹部大動脈瘤にかかり、右総腸骨動脈が完全にふさがってしまった。

 劉氏が病気になったことを知ると、患者らは「劉主任、自分のお体を大事にしてください。あなたの頚椎まで手術することになってしまいます」と声をかけた。

基金を設立

 「これが海鷹基金会のマークで、申請を予定しています」劉氏は「海鷹」の頭文字「HY」をデザインした「海鷹」のマークを取り出すと、表彰された子供のように嬉しそうな顔を見せた。脊柱外科成立10周年を控え、北京市民政局の批准を得て、劉氏は北京海鷹脊柱健康公益基金会を設立した。

 治療が遅れた患者を目にするたびに、劉氏は焦燥の色を隠せない。「基金会の設立後、貧困地区、重度の脊柱病患者を対象に無料(一部無料)で入院手術の機会を提供しています。また全国の未発達地区の医療関係者の研修を行っています。さらに、世界に向けて中国医学の全体水準を示しています。基金会は北京大学人民医院の脊柱外科および総合資源を利用し、社会経済からの資源および病院の診療からの資源と結びつけ、より多くの貧困患者に福音をもたらし、中国各地の脊柱外科事業のバランスのとれた発展に貢献します」。