【14-005】中国の格差と日本の格差、どちらが問題か(その1)
2014年 3月27日
和中 清: ㈱インフォーム代表取締役
昭和21年生まれ、同志社大学経済学部卒業、大手監査法人、経営コンサルティング会社を経て昭和60年、(株)インフォーム設立 代表取締役就任
平成3年より上海に事務所を置き日本企業の中国事業の協力、相談に取り組む
主な著書・監修
- 『中国市場の読み方』(明日香出版、2001年)
- 『中国が日本を救う』(長崎出版、2009年)
- 『中国の成長と衰退の裏側』(総合科学出版、2013年)
想像で膨らむ中国の格差
中国社会の問題はと問われれば、多くの人が格差と答える。経済成長とともに格差は拡がる一方とメデイアが伝え、多くの日本人は、中国が世界に類を見ない格差社会であると考えている。
本当にそうなのかという問いかけが今回の日中論壇のテーマである。
もちろん中国には大きな格差は存在し、それを否定することはできない。だが「中国にも」という問題であり、本当にそうかと言えば、日本や米国と比べて、中国がそれ以上の格差社会なのかということである。
格差の無い社会は世界のどこにもない。中国を大変な格差社会と考えるのは、日本人が持つ中国のイメージが影響する。中国は社会主義国なので、つい最近まで人民服と街に溢れる自転車、貧しい農村の姿で中国を捉える日本人も多かった。そこに突如、億万元長者の情報が飛び込み、同時に腐敗の情報が流れ、「中国はとんでもない格差社会」とのイメージが膨らんだ。
冷静に考えれば、中国が市場経済への移行と同時に格差社会に突入するのは当然だが、日本人には社会主義国なのにどうして、という思いもあり、とんでもない国との想像が膨らむ。日本人の持つ想像に加えて、やはりここにも中国情報の問題がある。中国の格差分析で取り上げられる数字の読み方に多くの間違いがある。その間違った情報が、日本人の想像を“やはり”の確信に変えている。
極端な対比で格差がクローズアップされる
90年代から日本で「中国は崩壊する」という類の本の出版が続いている。3年後には崩壊すると、3年に一度出版する本もある。崩壊の根拠の一つは、格差による不満の爆発だ。また、中国の格差を語るメデイアの報道も変だ。最近も日本の新聞に、北京に住む地方出身の男性の「北京で家を買うのは夢。一生住宅は買えない」との談話が載った。記事で紹介されたのが10年で10倍になった1㎡6万元のアパートの話だ。
だが北京でも南六環(環状高速道路)の外では1㎡1万元程度のアパートもある。上海でも地下鉄終点地域には2万元以下の物件もある。筆者の深圳のアパートは市の中心地に地下鉄やバスで50分かかるが、周辺のアパートは1㎡1万5千元~2万元、政府保障性の低価格住宅なら1㎡6000元程度で中古なら1万元程度である。1㎡1万元なら夫婦二人でローンを返せば一生買えないものでもない。
にもかかわらず、6万元のアパートを例に格差を語るところに日本の中国報道の問題がある。
中国は一人年収2300元を国の貧困標準としている。国務院は2011年に農村扶貧開発綱要を発布し、貴州、西蔵などに14地域、679県の貧困困難地域を指定した。財政の最低生活保障支出も2000年の0.18%から2011年には1.22%に増加している。
一方で、2013年3月末までの1年間の中国人の米国住宅購入は123億ドル、外国人購入の18%を占め70%が現金一括購入だった。1軒の平均購入額は米国住宅平均額の倍だ。
こんな対比を見れば大変な格差で不満の爆発と言いたくもなるが、それなら米国や日本も同じだ。
貧困対策は重要だが、極端な対比で13億人を一括りで格差社会と語るのも問題である。
格差批判には矛盾がある
大きな格差がありながら社会が混乱しないのは、中国人の多くが、格差が硬直した社会と考えていないからだ。多くの人が「昔と比べれば」と「今に私も」との思いを抱いている。
中国は社会の一部に富が集中する独裁国でもない。ベンツやBMWに乗る人も20年前は自転車で通勤していた。知人の中国人レストラン経営者が、うちの守衛は自分の仕事をよくすることを考えず、「自分が経営者になれば」とばかり考えていると嘆いていたが、誰もが「私も」と思う事が出来るのも中国である。
格差が問題ではなく不正、腐敗が問題である。13億人が同時に豊かになる社会は、資本主義でも社会主義でも不可能だ。強い社会主義で格差縮小は可能かもしれないが、それでは元も子もない。伸び盛りの子供と同じで頭を強く押さえつければ、社会の活力は低下して格差も改善できない。格差が大きいことは、先頭の機関車の馬力が大きいことでもある。機関車に引っ張られて後尾の車両も必ず先に進む。先頭の馬力が弱ければ後の車両の速度も遅い。だから表面的、感情的に格差を批判することは問題だ。それには格差解消のため、強い社会主義に戻れと言う矛盾も感じる。皆が共に貧しかった昔を懐かしむ人もいるが、懐かしむ人の生活も向上している。心底、昔に戻りたい人はいない。
中国の格差は多様化している、格差を考えるには冷静さが大切
格差は一様でなく、腐敗だけが格差の原因でもない。貧しさから逃れる手段もなく、ただ「没法子(しかたがない)」と嘆くのみだった中国人が、改革開放で「私も」との思いを持ち、それによって社会のエネルギーが生まれて中国は成長した。当然格差は拡大し多様化する。腐敗と農民にだけ焦点を当て「とんでもない格差社会」と考えては中国を読み誤る。
こんな格差もある。深圳の末端行政組織のある社区に7つの村がある。その多くの村が農地を工業団地にして不動産事業をしている。村長は村の書記であり、不動産会社の董事長でもある。事業手腕のある村長のいる村は栄え、村の格差が拡がっている。
集体土地の転用には政府許可が必要である。政府との関係が強く、開発面積の割り当てを多く得た村は開発で多額の収入を得る。また交通の便でも格差が生まれる。
筆者の知る村は、20年前は農業だけの村だったが、村民の出資で工業団地を建設した。今は1㎡3000元の鉄筋工場も、当時は250元ほどである。お金に困り、入居企業から資金を借りて配当を払う年もあったが、今は数か所の団地を持ち、高層アパートも建設している。市の中心地に地下鉄で50分、村民への販売価格は1㎡1000元である。近くの高速道路にも投資し、20年で村の資産は20億元になった。
団地の建設時に村民は保障金を得たが、人により使途が違う。村の事業に出資して配当を受ける人、自身で農民工アパートを建てる人、澳門(マカオ)に近いのでカジノで使い果たす人もいる。1600人の出資者配当は、一人平均2万元ほど。筆者の知人は家族で出資し、農村信用社の融資も受けて出資を増やし、今年は20万元の配当を得た。数棟のアパートも持ち、村の会社からの給料もある。他の村で出資する彼の友人は今年、100万元の配当を得た。一方、農民工アパートを経営する村民も多く、融資を受けて何棟も持つ人もいる。1棟で、毎月1万元ほどの収入になる。
澳門のカジノで使い果たした人には配当もなく、農地もない。毎年配当を受ける人やアパート収入のある人から見れば格差に見える。四川省冕宁県復興鎮建設村の村民の昨年末の賞与合計は1312万元、多い家庭は30万元、少ない家庭でも5万元の賞与だった。
中国は「差のある不満」より「差のない不満」の方が多い
中国は誰もが「私も」と思える社会になったが、思いと人の行動は違う。先の守衛の例のように、経営者になりたいとは思うが、行動に移れない人もいる。中国は社会主義市場経済社会だが、それは社会主義の意識の人と市場経済を理解する人の混在社会でもある。権力と繋がり富裕者となる人も多いが、より多くの人は地道な努力で豊かさを手に入れる。思いを行動に移した人は先に進み、それが格差となる。
農村学校を卒業した若者にも、どちらの人かで差が出る。一般工なら出来高奨励で賃金に差がつき、仕事に取り組む意識や態度がすぐに役職や賃金に反映する。
今も中国の工場では、終業ベルと同時に、1秒も間を置かずに作業を止めて夕食に走る光景が見られる。
仕事の進捗や区切りがどうかは考えない。よほどしっかりと目標を持たせて管理しないと生産性の向上は難しい。現場主任でも終業と同時にタイムカードを押す人もいる。作業場からの移動や着替えで物理的に同時は不可能だが、それを指摘しても言い訳が返る。だから差をつけなければ、意識を変えた人から不満が出る。
昨年、上海の中等職業学校を卒業したばかりの人の平均賃金は2763元である。半年で2万元を稼ぐ人も多い。賃金が上がって、半年働き、後の半年を寝て暮らす若い人も増えた。彼らは仕事を離れていても失業者でなく、そのために所得が低くても格差とは言えない。また、自身も格差とは考えていない。
中国の都市家庭にはダブルインカムが多い。都会の「高所得夫と高所得妻」が話題でもある。普通の家庭でも、夫婦二人が意識を行動に移せば、そうでない家庭より2倍速く進む。社会主義の国が市場経済社会になれば、意識から生まれる格差が大きい。今の中国は「差のある不満」より「差のない不満」の方が多いことを認識することも、格差を考える上で大切である。
(その2へつづく)