富坂聰が斬る!
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【18-05】遺書を書く老人

2018年10月25日

富坂聰

富坂聰(とみさか さとし):拓殖大学海外事情研究所 教授

略歴

1964年、愛知県生まれ。
北京大学中文系中退。
「週刊ポスト」(小学館)「週刊文春」(文芸春秋)記者。
1994年「龍の『伝人』たち」で第一回21世紀国際ノンフィクション大賞受賞。
2014年より現職。

著書

  • 「中国人民解放軍の内幕」(2012 文春新書)
  • 「中国マネーの正体」(2011 PHPビジネス新書)
  • 「平成海防論 国難は海からやってくる」(2009 新潮社) ほか多数

 いま首都の人々の関心を集めている、ちょっと不思議な光景がある。

 場所は北京中心部の西城区西交民にある一つの公共機関。そこに連日、老人たちが押しかけて大行列ができているというのだ。人民大会堂や中国国家大劇院のすぐ裏という位置だけに話題となっている。

 この現象を伝えたのは、社会問題に敏感な『中国青年報』(10月17日)。見出しは、〈最後の秘密 遺書の中に残された人生の甘美と絶望〉だった。

 これに先立つ9月4日、『北京青年報』の運営する『北青ウェブ』は詳しいルポを掲載。〈北京で7500人の老人が列を作り遺書作成の順番待ち 最もひどいケースでは来年の12月まで待たなければならない〉

とのタイトルで反響を得ていた。

 いったい何をする役所なのか。

 北京でコンサルタント会社を経営する元官僚は、「(行列を作っているのは)北京の老人たちが遺書を作成するためですよ」と、こう続けた。

「北京陽光老年健康基金会というボランティア団体が運営する、『中華遺嘱庫』という組織が、老人に代わって遺書を作成し、ビデオも撮影してくれるのです。こんなところに大行列ができるのですから、『時代だなあ』という印象です。

 ただ、この組織も、決して最近できたというわけではないんです。現在のような運営は2013年からです。その意味では、中国の老人の遺書に対する需要は明らかに高まっているのでしょう」

 現在、北京と同じような「遺嘱庫」は、天津市、広東省、江蘇省、広西チワン自治区、上海市、重慶市など七地区にあり、どこも同じような混雑ぶりだという。

 わずか60平米の部屋に一日140人から行列を作る。作業には、一人当たり少なくとも二時間が必要で、一日に対応できる人数はせいぜい25人から30人というなかでのことだ。

 いったいなぜ、中国の老人たちは突然、「遺嘱庫」に群がるようになったのだろうか。

 理由は一つではない、と語るのはメディア関係者だ。

「中国では2002年から離婚率が急激に上昇し始めて、この傾向は現在も続いています。そうした現実が進行したことで、遺産相続も複雑化しているのです。

 離婚の多さについては、統計の取り方も一定ではないので簡単に実情をつかむことはできませんが、ある統計によれば都市によっては離婚率が50%を超えているところもあるというのです。

 相続の問題を生前にきちんと整理したいという需要が高まるのも無理のないことでしょうね」

 問題は、離婚の多さだけではない。

 メディア関係者が続けて語る。

「家族の崩壊です。

 2020年には中国の60歳以上の人口は2億5500万人。そのうち独居老人となると考えられているのは1億1800万人とも予測されています。このなかには家族がいても、出稼ぎに出たままで、それぞれが生活することに汲々としているなど、あてにはできないというケースも多いのです。

 ですから、老人の介護に熱心な人に遺産を託して面倒を見てもらうという選択が増えるとも予測されているのです」

 10月中旬には、やはり『中国青年報』が、〈老いた父を家中で孤独死させた五人の子女に刑罰 政府はこの事件の顛末をCD資料として全県住民に見せた〉と題した記事を掲載して話題を呼んだ。

 舞台となったのは四川省綿陽市平武県の一軒の農家だった。

 遺棄罪は刑法261条に定められ、5年以下の懲役となる。日本にも遺棄罪はあり、生存にかかわる遺棄の場合は、やはり5年以下の懲役と定められている。

 興味深いのは、地元政府がこの事件を資料CDとしてまとめ、県民を集めて上映会を開いたことだ。意味しているのは、これがいまや特殊な問題ではないということだ。中国社会全体に通じる危機感が読み取れる。

 これから本格的な高齢化社会が到来する中国に重くのしかかる課題だ。