第40号:環境・エネルギー特集Part 1-低炭素社会づくりを目指す
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何故ソフトエネルギーへの移行と省エネか

2010年 1月 8日

藤井

藤井石根(ふじいいわね):明治大学名誉教授

1936年1月生まれ。1966年東京工業大学理工学研究科原子核工学専攻 工学博士。専門は熱工学で、熱応力・伝熱・蓄電関係の研究に従事。現在はNPO法人太陽光発電所ネットワーク代表理事、逗子市環境審議会会長、財団法人日本科学振興財団評議員などを務める。
主たる著書に「太陽熱の動力化概論」(IPC)、「新太陽エネルギーハンドブック」(編著:日本太陽エネルギー学会)、「21世紀のエコロジー社会」(編著:七ッ森書館)、「2050年自然エネルギー100%」(監著:時潮社)、「原発で地球は救えない」(原水禁)など多数。

1. はじめに

 世界の気候に対する熱帯雨林の影響の大きさや果たしている役割の貴重さが取り沙汰されている中で、とりわけブラジルのアマゾン川流域の広大な熱帯雨林の乱開発は少なからず世界の不安と懸念を集めている。そもそも国家の概念に従えば、例えばこの問題にしてもどう対処しようが主権を持つブラジルの意思次第で、外からは要請程度のことはできてもそれ以上のことはできないのが実情である。しかし健全な自然環境は地球上に住む生物全体の共有財産という観点に立てば、最早、主権云々で対処すべき問題ではないのではないか。少なくとも共有という感覚を大切にすることは必要である。実際、今や地球の環境すら大きく変えてしまう程の技術を手にし、活動も巨大化させている人類が今後も生き延びていくためには勝手気ままな振舞いをある程度は制限し、判断基準や観点も改められなければこの先の生存の可能性は縮小していくばかりであろう。

 先程、デンマークで開催されたCOP15 でも依然として二酸化炭素(以下CO2と略記)の排出削減は経済活動に悪影響を及ぼすとの強い意志が働き、尚も各国は随所でCO2排出削減を譲り合っている。しかも他方では環境の悪化で各国はこれまで以上に種々の自然災害に見舞われ、大きな経済的な損失を被っている。一体、この辺の経済的な関連性をどう考えるのか。無関係者への災害の波及という人道上の問題も含め大きな課題も残っている。しかし、この度は京都議定書に関し消極的な態度を取り続けていた世界で二番目のCO2排出国、アメリカも具体的な削減目標値を示して当該削減のテーブルに付いたことは一歩前進と言える。加えてこれまで先進国の責任論を終始、強く主張し削減量の話に乗らなかったCO2の最大の排出国、中国もエネルギー利用効率の改善を数値化(2020年までに2005年比で40~45%削減)して見せた。インドも同様の動きを見せた事は地球レベルの問題には各国が協調して解決しようとする機運が芽生えつつあることの一つの証で歓迎すべき事と言える。何れにしろ、地球という同じ船に乗り合わせている者同士、己の利のみを強く主張し、他を顧みないことで結果的に船を沈めてしまっては経済どころか元も子も無いというものであろう。

2. 所詮は一時凌ぎのハードエネルギー依存戦略

 既に述べたように世界の各地で異常気象による災害が頻発し、その具体的な対策が強く求められるようになっている。その一つが化石燃料使用量の削減要求である。各国政府はできるだけ実質的なエネルギー使用量を減らさずにCO2の排出量は抑えたいとして腐心している。その具体的な対応策がカロリーベースでCO2の発生量の少ない天然ガスを石炭や石油の代替として使う方法や発電時にCO2を排出しないことを理由にした原子力発電への依存等である。確かにこれらの対応策は当座の策としてはそれなりの意味を有するであろう。しかし持続性の点では甚だ心許無い存在である。具体的には先ず資源量の問題で、その実態を図1が明らかにしている。この図の外枠で囲まれた部分の広さは一年間に地球に届く太陽エネルギー量、具体値としては5,400兆GJなるエネルギー量を意味している。それに対して石炭や石油などの究極もしくは確認埋蔵量はこの中に同じく正方形の大きさで画かれている。この図から一体、何が見えてくるだろうか。改めて言うまでもなく、たとえ天然ガスやウランにエネルギー供給の活路を求めても数拾年という一時凌ぎの策でしかないと言うことである。「それならば量の多い石炭に」ということにすれば元に戻ってしまうことになり、ここにはCO2排出削減という重い課題が背負わされている。技術的には石炭を液化もしくはガス化して炭素分を減らして使う方法が無い訳ではないが、そこで要するエネルギー消費で本来の目的に使えるエネルギー量はその分、減ってしまうことになる。しかも、化石燃料を使うことで排出されるCO2を液化して地中など地球の然るべき処に埋蔵しておくという論もあるが、これで完全に事が済まされるという保証は何所にも無い。しかもこうした過程でも多くのエネルギーが費やされることになる。

 原子力についても同様である。世界の多くで再度、原子力発電(以下、原発と略記)に関心を示し始めているが、先ずその燃料になるウランの資源量は既に図1で見てきた通りである。その上、原発を動かせばその川上、川下で莫大な手間と諸々の資源が必要、それに多くのエネルギーも費やす必要があることを知らねばならない。しかもこうしたエネルギー消費によるCO2の排出に加えて放射能という厄介な代物にも対峙しなければならない。この辺の状況を100万kWの原発を例に分り易く示している図が図2である。これ程までの資材とエネルギーを使い、他方で放射性廃棄物という負の遺産を大量に産み出して、この場合に手にできる電力はたったの70億kW時、これでエネルギー経済的に見て辻褄が合うのか否か、よく検討してみる必要があろう。おまけに廃炉の処理や高レベル放射性廃棄物などの処分・保管の問題も未解決の儘になっている。

 このような現実をつぶさに観れば化石燃料やウランなどハードエネルギー資源への依存は一時凌ぎであるばかりか安全面や環境への影響の程を考えれば到底ありえない話である。言い換えれば持続性は不可能であり、環境が大きく犠牲になることを容認しなければ成り立たない話でもある。

3. 希薄な未来世代への配慮

 先だっての地球上で1秒間のうちに消えていく天然林地の広さは5,100平方メートル(テニスコート20面分)、放出されるCO2の量は39万立方メートル(体育館32棟分)大気から失われてゆく酸素量は710トン(140万人の人達が日に必要とする酸素量)、そして砂漠化している農地や牧草地の面積は1,900平方メートルと言われていた[3]。数年前の話である。現在もこの状況は一向に改まっていないし、むしろ悪化の度合いを強めていよう。こうした不合理な事が世界でまかり通る最大の原因は「環境はタダ」という認識が尚もまかり通っているからである。しかし一旦、破壊されてしまった環境を復元・修復するには如何に大きな手間と費用を要するか、また如何に難しいかをこれまで経験した諸々の公害が教えている。例えば日本では水俣湾の有機水銀汚染による公害が典型的なそれである。しかし、いま国際的な場で議論されているCO2排出による地球温暖化や嘗てのチエルノブイリ原発事故の様な広範な放射能汚染という事態ともなれば最早、当事国の国内問題として処理できる代物ではない。地球レベルで未来の世代の生きる可能性すら縮小させるものである。加えて原発は常時、環境を放射能で汚染し続けると同時に「死の灰」と比喩される負の遺産を末長く後世に残す。しかも高レベル放射性廃棄物に至っては百万年もの間、その管理・保存に当たらなければならないとアメリカの環境保護庁は警告している[4]。こうした厄介物の保管の任を原発の恩恵を全く受ける事のない人達にひたすら果たすことを強いることの理不尽さを考えてみたことがあるだろうか。このようにハードエネルギーに頼る行為はかかる理不尽な側面も兼ね備えていることを知らねばならない。

4. 持続性を保障するソフトエネルギー

 図1が示すエネルギー資源量の状況から見て、早晩、人類は太陽エネルギーなどソフトエネルギーに今後の活路を見出さざるを得ない事態に追い込まれる事は明白である。それならばできるだけ早くその方向に政策の舵を切り、着々とその準備を進めていく方が賢明と言える。無論、たとえ太陽エネルギーそのものの量は世界の年間総エネルギー消費量に比べて頗る大きいとは言え、全て利用できる訳でもないし、他の多くの生物を差し置いて独り占めにすることも許されない。当然、省エネルギーの習慣は今後も持ち続けていかなければならない。また、ソフトエネルギーを効果的にかつ上手く使いこなす技術開発にも引き続き力を注いて行かなければならない。もしこの努力が実ればエネルギー供給の持続性は保障されるし、環境への負荷も大きく軽減させることができる。よく自然が用意してくれるエネルギーは気紛れで量の制約もあって頼りにならないとの論もあるが、それに対する適切な対応策を考えるべく知恵を絞ることも人間の人間たるところと言えよう。自然からの贈り物には常に限度があることも心得ておかないと取り返しのつかない事態を招く。必要だからと限度以上の収奪を行えば何れは持続性が失われることになる。その典型的な実例が薪や炭を採ることによる自然林の縮小・消失である。バイオマスエネルギーもソフトエネルギーの代表的な資源の一つであるが、自然林の消失はソフトエネルギー資源の一角を損なうことに加えて、間接的には水力の利用や気候の面にも大きな影響を及ぼすことになる。しかもその損失の程には計り知れないものがある。本稿の冒頭で触れた熱帯雨林の乱開発による縮小もこの面では同じ意味合いを持っている。

図1

図1 再生不能エネルギー資源の埋蔵量[1]

 こうして見るとソフトエネルギーの代表格と目される自然エネルギーの殆どは健全な自然環境が保証されない限り、その安定的な利用は覚束ないことになる。唯一、地熱は余り環境の変化に直接、影響を受けそうにないが、地下水との関係もあってその程は必ずしも定かでない。しかしそうは言うもののソフトエネルギーは我々にとって結局は救世主のような存在と言っても過言ではない。

図2

図2 100万kwの原子力発電所を動かすために必要な作業の流れ[2]

5. おわりに

 いま、世界は社会システムの変革を逼られている。これまで化石燃料を主体として築き上げられた社会システムをソフトエネルギー主体の環境負荷の少ないシステムへ変える変革である。その動機付けには既に述べた化石燃料枯渇への懸念と世界共有の財産に当たる「健全な環境」という掛け替えのない建物が壊れかかっている事の不安がある。従って、もしこれらの不安が解消されれば必然的に社会の持続性も担保されることになる。しかし、これからの大きな課題は如何にしてこの改革を円滑かつ小さな抵抗で成し遂げるかであり、ここに人類の英知と力量が問われている。

 世界には種々の国が存在している。財力や技術力を培っている先進国と目される国がある一方で、その対極にある後進国と呼ばれている国々もある。また、その中間に位置する中進国とか開発途上国と言われる国々もあるが、後進国以外、これらの国々も結局は大なり小なり先進国と同じような変革を余儀なくされることになる。違いは変革の程度の差だけである。その場合、どの状況の国がよりスムーズに移行できる立場にあるだろうか。やはり先進国だろうか。見方を変えれば中進国や開発途上国の方が有利と言うこともできる。その理由に先進国は進んでいた分、旧来の社会システムを多く抱え込んでいる。従って、その分、舵を大きく切らざるを得ず慣性力も大きいという訳である。おまけに社会のインフラもより多く変更もしくは再生せざるを得ず、詰る所はより多くの手間と大きな負担が強いられるからである。その点では中進国や開発途上国はその負担の程は相対的に少なく、舵の方向変えも小さく済ませることができる。後進国に至っては変更の要は殆ど無く新たな船出と言うところかもしれない。

 何れにしてもこの変革は産業革命にも匹敵する大きな変革である。しかも人類の命運も掛っている。その点でもお互いに足らざるを補い合いつつ、協力して事を運ぶことも肝要である。

参考文献:

  1. 小出裕章、「古くて新しい原発の話」(京都コンソーシアム、集中講義資料、2008年8月)頁10
  2. 同上、頁7
  3. 藤井石根監著、フオーラム平和編、「2050年自然エネルギー100%」(時潮社、2005年)
  4. 末田一秀、「あなたの町に核のごみがやってくる!?」(原水爆禁止国民会議、2007年)