iPS研究における私見
2010年12月15日
須田年生(すだとしお):
慶應義塾大学・医学部・発生・分化生物学講座・教授
慶應義塾大学・医学部 総合医科学研究センター・センター長
1974横浜市立大学医学部卒業
職歴
1974- 神奈川県立こども医療センター・内科・ジュニアレジデント
1976- 自治医科大学・小児科・シニアレジデント
1977- 神奈川県立こども医療センター・シニアレジデント
1978- 自治医科大学血液医学研究施設造血発生部門・助手
1982- サウスカロライナ医科大学内科留学・リサーチアソシエイト(小川真紀雄教授)
1984- 自治医科大学血液医学研究部施設造血発生部門・講師
1991- 自治医科大学血液学・助教授
1992- 熊本大学医学部遺伝発生医学研究施設・分化制御部門・教授
2000.4- 2001.10 熊本大学発生医学研究センター・センター長
2000.4 同・器官形成部門 造血発生分野・教授
2002.4- 慶應義塾大学・医学部・発生分化生物学講座・教授(熊本大学発生医学研究センター・客員教授)
2005.10- 慶應義塾大学・医学部 総合医科学研究センター・センター長
1991.11 ベルツ賞受賞
2004.11 ベルツ賞受賞
初めに
日本のライフサイエンスの動向についてこのこの小論で包括的に述べることはできないので、現在活発におこなわれているiPS 研究について述べる。
2007年11月に、京大・山中伸弥教授によってヒトiPS細胞の作成技術が発表された。マウスiPSの樹立からわずか1年後のことであった。iPS細胞は、ES 細胞のように多系統の細胞に分化させることができ、しかも、患者自身の体細胞から作成することができるために、再生医療実現化の切り札のように言われている。日本で開発された画期的な技術であることから、iPS 研究の進め方に関してホットな議論が続いている。ここでは、あらゆる施策に光と影があるという観点に立ち、iPS研究のあり方について私見を述べたいと思う。
1.研究支援
iPS研究には、文部科学省、厚生労働省、経済産業省から膨大な研究費が投入され、iPS はまさに国家事業となっている(表1)。当然の帰結として、研究の成果が求められるようになり、達成すべき年次目標も明確にする必要が生じている。
先般、文科省よりiPS 細胞研究のロードマップが発表された。 これは、iPS研究に関与する研究者によって作成されたものであるが、明確な根拠を挙げることは難しく、予測でしかない。私個人は、「科学の本質は、予見不測性にある」と信じているので、このような「予測作成」にはためらいがある。 たとえば、線維芽細胞が、わずか3-4の転写因子で多分化能を獲得するとは、誰が予測しえただろうか? 造血研究でも分化転換の研究は活発に行われていたが、こんな簡単に、多能性幹細胞を誘導できるとは、想像していなかった。また、反対に、iPS を用いた再生医療への道は、予想以上に壁が高いのかもしれない。自己の細胞から作成した細胞であるので、移植しても拒絶はない。特定の細胞を分化誘導し組織再生を図るプロジェクトは、多数考えられる。 しかし、現時点では腫瘍原性や分化誘導の確実性に問題があり、組織再生にどれだけ貢献するかは「予測不能」と言っていい。
iPS研究に関する文科省の取り込みは、きわめて迅速であった。この迅速な対応により、幹細胞研究への関心は一気に高まった。しかし、研究が一気に加速したかというと必ずしもそうではない。 山中教授は2008年のiPS細胞研究は「日本の1勝10敗」(2008年のiPS細胞関係の論文発表数が日本1、アメリカ7であった)とも発言した。しかし、米国と比べたときの日本のiPS研究の遅れは、決して行政の対応の遅れなどではない。単に、ES研究を初めとする多能性幹細胞研究者の層の薄さによるものである。iPS 樹立の研究に比べれば、2008年に新規性のある決定的な研究が出たわけでもなく、私自身は、このようなカウントをすることすら意味がないと思う。むしろ、この勝ち負けの延長として、成果を性急に求めることの方が、研究の方向を束縛してしまう恐れがあると考える。
2.iPS のもつ幹細胞の本質的問題
幹細胞は、自ら幹細胞をつくるという自己複製能を有するがゆえに、長期にわたって組織を再生することができる。この自己複製能のない細胞、すなわち、前駆細胞や成熟細胞は、寿命に限りがあり、組織の再生や永続的な維持には限りがある。「組織再生・維持」を支えるのが幹細胞の自己複製能とすると、腫瘍発生のリスクとは切り離しがたいと思われる。このジレンマを乗り越える方法があるのか否かを見極めるのが大きな課題である。今までも、多系列に分化する造血(幹)細胞株が得られたことがある。しかし、それらは、すべて生体内では、多系列に分化することなく、自己複製をし、白血病細胞のようにふるまった。 しかし、反対に自己複製能のない分化した細胞(あるいは前駆細胞)を移植した場合は、その細胞の寿命が尽きたとき、ドナー細胞による再生・維持は終止する。もちろん、この過程で内在性の幹細胞が活性化されれば、その組織の維持は継続される、造血幹細胞が発見されたのが1961年。このとき、幹細胞のもつ自己複製能と多分化能が明確に示された。すでに、50年近い幹細胞研究の歴史があるが、我々は、まだ自己複製か分化かの運命決定(コミットメント)機構を知らないのである。また、コミットメントというと、白か黒かのイメージを与えるが、果たしてそうであろうか?細胞分裂は先行した分裂の影響を受け、数回以上の分裂過程で運命決定されるのかも知れない。個々の幹細胞ではなく、集団で見たとき、コミットメントは自己複製にp=0.55、分化に0.45というような確立で起きていて、その小さな偏りの集積が、幹細胞の増幅という現象を生むと考えることができる。腫瘍化は、分化停止も含めて自己複製の集積であり、ES 細胞やiPS細胞の腫瘍化問題は、幹細胞の属性に関わる問題である。
この議論とは別に、iPS細胞作製時、遺伝子導入に用いられるレトロウィルスやレンチウィルスは、染色体に組み込まれるため、この挿入部位によってはがん化につながる可能性がある。もう一度、免疫不全症における遺伝子治療の蹉跌を十分に検証する必要がある。現在、染色体への組み込みを回避するために、センダイウイルスベクターや蛋白質導入などの方法が試みられており、これは一定の成果をあげると考える。
また、ES細胞では継代培養において染色体の数の変化、変異の集積、エピジェネティックな変化が生じていくことが知られている。In vitroでは、DNA 損傷の修復は起こりえないことから、パッセージ数・培養期間の厳格なコントロールが iPSにとって重要である。
3.臨床応用への道:標準化と品質保証
「現在、臨床で投与されている薬剤などの作用メカニズムはすべて解明されているわけではない。一定の効果が予測できるときにそれをしないのは、むしろ不作為として倫理的問題がある」というのが、iPSの臨床応用積極論の理由である。一方、「再生のメカニズムが不明であり、まして、腫瘍化の恐れがある以上、十分な検討が必要である」という慎重論もある。
現在までの解析では、作成されたiPSの遺伝子発現や性状は多様と言われている。どの細胞からどの方法により作成したかで、その性質が違うことが示されている(この根底には、上記の各組織幹細胞の自己複製問題がありそうである)。現在の方法では、複数の遺伝子が自他に作用しあった結果、1/100 以下の頻度でしかGround stateが形成されないと考えられ、iPS 形成過程の多様性、ひいては生成されたiPS の不均質性は理解できる。したがって、iPS の標準化は、研究成果を比較する上で、緊要のステップであるが、現時点で、標準化に徹底的に集中するのが賢明かどうかもわからない。もっと、初期化のプロセス(培養期間)を短縮し、作成頻度を高率化し、より安定的なクローンが得られるようになるまで、ゆっくり進んでいいのかもしれない。
再度、絶対安全が保障されるまでは、iPSの臨床応用は進まないのかという疑問に戻ってみる。恐らくは、医師と患者の間での同意によって進む「医師主導型」の治験に頼らざるを得ないであろう。効果の不確実性、腫瘍のリスクを患者が了解して、iPS治療を受けるという選択はあってもいいと思う。しかし、当面、企業はサポートしないであろうから、この治験を遂行するのには、相当の経済的治験支援が必要になるであろう。
細胞移植による再生医学とは異なり、iPSを病態の解明や薬剤のスリーニングに使おうという試みがある。これは、細胞移植にくらべて一見容易に見えるが、あまり楽観は許されない。 iPS から、ヒト神経細胞・心筋細胞・肝臓細胞など、得がたいヒト細胞が用意できることは、研究上大変な進歩である。しかし、まだ、iPS から心臓や肝臓組織をつくることはできず、単一の細胞種でのデータ解析には、十分なチェックが必要であろう。もっとも容易と考えられている心電図上のQT延長にしても、心臓ではなく、培養心筋細胞シートで検討するとき、どこまで再現できるかは予測不能である。これらの障壁を克服した結果、「iPSを用いた心臓毒性のスクリーニング」が可能になる。iPS由来の分化細胞で、どこまで新しい病態メカニズムが解明できるか難問であり、それこそ対象とする疾患を選び抜き、解析の知恵を絞る必要があると思われる。
4.社会に対するiPS 研究へのインパクト
マスコミは、iPS 研究を過剰なほどに報道した。繰り返しの報道により、多くの人がiPS や幹細胞に関心をもつことができた。また、2008年の日本人のノーベル賞受賞とも重なって、理系の志望者が増えたとも伝聞する。しかし、どこまで一般の人に、幹細胞は染み渡ったのか? メディアはセンセーショナルな言葉が好きである。刺激的な言葉は、一般の人の関心を引くものの、研究の核心からは遠ざかっていくような気がする。「研究はスポーツ記事のように報道する」というのは一つの見識である。人が知りたいと思うことを、面白く伝えるという点で、研究もスポーツも同じかもしれない。しかし、「医療」となるとそうはいかない。病める人の切実な関心に対し、真摯に対応することが重要になる。
iPS研究は、知的財産(知財)に対する関心を増進した。日本発ということで、この研究を主軸に知的財産を形成しようという機運は、大学(ことに京都大学)でも、各省庁でも一気に高まった。これにより大学の研究者が知的財産権を見直したのは、一つの成果である。しかし、一方、これが過剰になり大学の研究も企業の研究同様、「役に立つもの」を追及する動きに拍車がかかったのも事実である。大学らしい「知的好奇心」で進む研究ではなく、「出口」といわれる応用、波及効果を最重要視する評価基盤をつくるのに加勢した。この傾向が、もし、研究費の分配に及ぶとしたら、もっと端的にいえば、時期尚早の一部のiPS 研究などによって、他の優れた研究が圧迫されるとしたら、これは弊害につながるといえる。
また、果たしてiPS の概念だけで、特許化が認められるかどうか私には分からない。リプログラミングという概念はすでにあり、また、遺伝子や遺伝子導入のツールは既知のものであった。むしろ、iPS研究から波及した技術や物質のほうが特許が認められやすいと思う。その点、心もとないのは、日本のiPS研究が、目標を狭く設定するあまりユニークさを欠いていることである。また研究を支える周辺の技術開発も追いついてきていないのが現状がある。 iPS研究によって、細胞分離や細胞培養技術、遺伝子解析技術などが刺激されていいはずである。アメリカでは、雨後の筍のように、幹細胞研究の周辺にベンチャー企業が出現するのに、日本では、再生医療実現という目標のためか、ベンチャーが僅少である。
5.競争か共同か?
自由な個人競争を旨とする研究分野で、 iPS 研究者のネットワークが形成されたのはある意味では有意義なことである。今までも特定領域研究などで班研究が進められてきた。これは互いに情報や材料を交換しあい、当該領域の研究を推進するのに極めて有益である。問題は、研究テーマの多様性である。iPSの臨床応用にテーマが絞られると、科学に最重要である「独創性・ユニークさ」が失われる。
iPS は、新しい研究であるだけに、経験のある研究者は極めて少ない。いかに、今まで自分が培ってきた研究基盤にiPS を取り込むかが大切である。日本には、幹細胞やシグナル解析に強い研究があり、これがiPS 研究に一段進化したレベルで繋がると、第二、第三のブレークスルーが起きると考える。
マスコミ報道は多くの場合「世界で始めて・・・」という枕詞で始まる。その「世界で始めて」の研究以後、大抵は数ヶ月、遅くとも1、2年後にあちこちの研究者が同じような結果を出している。こうなると、「世界で始めて」は単なる先陣争いでしかない。更に最近は特許権に結びつく、ということから論文上の先陣争いさえ複雑な様相を呈している。
おわりに
前世紀から「科学の時代」といわれるほどに科学は進展してきた。「正しいものが残っていく」科学の世界においては、批判精神が保持され、研究テーマを狭隘にしないようにさえ舵が取られれば大きな問題はないと思う。私自身は、「iPS 研究はこの数年で臨床応用できるものではない、だからこそ、底辺を広くして次世代の研究者の教育も重要である」と考えている。研究への取り組みが早いと拙速といわれ、リーダーシップが強いと束縛といわれる。光と影の両方を見ることが大切であることはもちろんだが、ロードマップに「わき道」の余裕を残すことが、iPS のようなプロジェクトには必要である。
表1:iPS 研究に対する支援活動
各省の連携
- iPS細胞等研究戦略会議
内閣府
- 総合技術会議
- iPS細胞研究ワーキンググループ
文部科学省
- iPS細胞等研究ネットワーク
- 再生医療の実現に向けた研究
- iPS細胞を用いた診断・治療に向けた基盤技術開発
- iPS細胞のリプログラミング解明等の基礎研究・基盤技術の構築(CREST ・さきがけ・山中特別プロジェクト)
厚生労働省
- 再生医療実用化研究・社会還元プロジェクト
- ヒトiPS 細胞を用いた新規in vitro毒性評価系の構築
- 「ヒト幹細胞を用いる臨床研究に関する指針」の策定
経済産業省・NEDO
- iPS細胞等幹細胞産業応用促進基盤技術開発
- iPS細胞産業応用促進に向けた産学対話