トノサマバッタの相変異についての生態ゲノム学的研究
(中国科学院北京生命科学研究院 院長) 2011年 2月10日
康 楽(Le Kang):中国科学院北京生命科学研究 院長 兼
中国科学院動物研究所 研究員
1959年4月生まれ。1990年 中国科学院動物研究所/中国科学院大学院生態学専攻、理学博士取得。米国ネプラスカ大学(University of Nebraska)栄誉科学博士。国際昆虫学会執行理事を併任。長期にわたりイナゴの生態学とゲノム研究に従事、関連論文180以上。
蝗害は一つの重大な農業災害であり、世界の多くの国々で発生している。特に、アフリカ、アジア、南米、オーストラリア、アラブ地域ではしょっちゅう発生し、すでに現地の農業発展に悪影響を及ぼす大きな要因となっている。蝗害は主にイナゴとバッタによって引き起こされるが、なかでもイナゴの引き起こす災害はきわめて深刻であるため、よりいっそう人々の注目を集めている。では、イナゴとバッタにはどのような違いがあるのだろうか。イナゴ(訳注: 中国語で「蝗」)の中国語における意味は虫の中の王である。科学的意味においては、イナゴとは高密度の下で群衆を形成でき、かつ長距離の移動ができるものを指す。イナゴのもう一つの特徴は、種群密度の変化にともなって、群生相と孤独相の間での相互変異を起こすことができることである。全世界に、イナゴと呼ばれる昆虫は約7種いるが、その中ではサバクトビバッタとトノサマバッタが最も有名である。一般的なバッタには上記の二つの特徴はないが、バッタも時としてその土地の植物や農作物に被害をもたらすことがある。
イナゴの相変異理論は最も早期には、Uvarovによって1921年に提起された。様々な環境条件に適応するために、イナゴは自分の形態、生理学・生化学、行動、発育などの特徴を変化させるが、それは形態学、生理学、行動学の面で二種類の明らかに異なる相―群生相と孤独相に分けることができる。Uvarovが(1921年に)イナゴの相変異理論を提起するまで、イナゴの群生相と孤独相はそれぞれ他の学者によって、二つの異なるイナゴの種類、すなわちLocusta migratoriaとLocusta danicaとして鑑定されていた。このことからわかるように、この二つの相の間の違いは大きい。イナゴの密度に変化が発生すると、この二つの相が互いに転換し得ること、この現象は相変異と呼ばれる。相変異を引き起こす要因には外界要因と内部要因があり、内在要因が外界要因の刺激作用の下で起こす一連の生理学・生化学的変化が、幼虫個体を異なった方向へと発達させることにより、異なる相を形成させるのである。イナゴの両相の転換に影響を与える外材要因は主に、イナゴの密度、温湿度、光照射、食物などである。自然条件の下で、イナゴは高密度下、例えば10~50匹/m2かそれより高い密度下において、群生相を形成しやすく、0.1~1匹/m2かそれ以下だと、孤独相という形で存在しやすくなる。したがって、蝗害の発生は常にイナゴの群生相の形成及び大規模な渡りと密接な関係がある。イナゴ種群の突発災害は主として環境要因とそれ自身の遺伝要因の共同作用の結果であるが、イナゴ種群に関する突発災害の分子機序は解明されているわけではなく、群生行動と遺伝子との関係については、いまなお系統的な研究報告がなされていない。イナゴの相変異のメカニズムは、一貫して人々が関心を寄せてきた科学的問題であった。その研究はほぼ三つの段階に分けることができる。第一段階には主に、形態学及び基礎生物学等方面の研究が含まれる。第二段階では、主に行動学、生理学、遺伝学などの方面から、イナゴの相変異に対する生理学的メカニズムの研究が開始された。第三段階では、分子生物学など新しい学科の発展と新技術の応用にともない、イナゴの相変異に関する研究が分子メカニズムの研究へと移行するようになった。要するに、イナゴの相変異は一つの複雑なプロセスである。この複雑さは仮説に基づいて進める、「海に落ちた針をすくう」式の研究を決定づけ、相変異のある一つの面しか理解することができず、両相間の変化の分子メカニズムを解明するにはまだ相当の難しさがあった。
ますます多くの種のゲノム配列が解読されるにしたがい、生物科学はすでにゲノム及びポストゲノムの時代へと突入している。この時代の研究の目標は、膨大な遺伝子配列の機能と発現プロファイリングを鑑定することである。このような背景の下で、一つの将来的発展の可能性の大きい学際的学科―生態ゲノム学がすでに盛んになっている。この学科は主にゲノム学という手段を利用して、生物種の遺伝子発現制御と環境変化との関係を研究する。昆虫綱においては、すでにショウジョウバエ、ミツバチ、カ、甲虫、アブラムシ、カイコなど、十数種類の昆虫の全ゲノムシーケンシングが行われている。このような多くのゲノム情報は、生物の成長発育をコントロールし、外界の環境変化に対応する遺伝メカニズムを我々が深く理解する上で、有利な条件を提供している。現在、生物の遺伝子発現プロファイリングの分析を行うことのできる方法は数種類あるが、なかでもDNAマイクロアレイ及びハイスループットシーケンシング技術は機能が最も優れている。これらの技術は比較対照とサンプル処理を通じて、多くの、ひいては全ゲノム転写産物の豊富度を分析することができる。生物の発育、代謝等の基本的生命プロセス及び、環境適応と関連のある遺伝子発現プロファイリングがすでに徐々に分析されている。これらの技術を応用することにより、大量の遺伝子が同一の実験処理の中に同時に集められることが可能になっている。生態ゲノム学の発展にともない、非モデル生物に関するますます多くの研究からの成果が急速に増加している。
トノサマバッタは世界的に重要な農業害虫であり、その分布区域は他のどのイナゴよりも広く、東半球の温帯・熱帯地域全体をほぼ覆っている。Uvarovの(1921年の)イナゴの相変異理論は、トノサマバッタを根拠として提起されたものであった。我々の研究室はトノサマバッタを研究のモデルシステムとして、さまざまな研究手段を集めることにより、多くのレベルからトノサマバッタの相変異の分子機序を明らかにし、蝗害の抑制のために重要な理論的根拠を提示した。我々はまず孤独相と群生相のトノサマバッタの3つの組織(脳、中腸、後脚)及び1個の全体、計7つのcDNAライブラリーを作製し、シーケンシングにより45474個のESTs(expression sequences tags, 発現配列タグ)と12161個のUnigenesを得た。532個のトノサマバッタ相変異との関連遺伝子を発見したが、その中にはペプチダーゼ、幼若ホルモン結合タンパク質、酸素運搬タンパク質、成長発育に関わるいくつかの遺伝子が含まれていた。これらの分析から、さまざまな制御経路が相の表現型可塑性に関与しているに違いないことが明らかとなった。同時に、トノサマバッタの初のトランスクリプトーム・リレーショナルデータベースを作り上げた。データベースはトノサマバッタEST配列の機能注釈情報とシグナル経路分析情報のほか、さらにトノサマバッタのトランスクリプトームデータとカイコ、ミツバチ、ショウジョウバエ、ハマダラカ、線虫の全ゲノム配列との比較分析情報(http://locusdb.genomics.org.cn)を提供している。この基盤の上に立って、我々はトノサマバッタのオリゴヌクレチドマイクロアレイを開発し、イナゴの遺伝子転写と発現をより広く研究するための実験プラットフォームを提供した。最近、我々はさらにトノサマバッタの相変異の研究を、トランスクリプトームとエピジェネティクスの分野へと拡大している。我々は新世代のハイスループットシーケンシング技術RNA-seqとDe novo組立のトランスクリプトーム解析法を応用し、トノサマバッタの代表的なコア遺伝子集合を初めて手に入れ、昆虫の保存された遺伝子及びトノサマバッタの遺伝子構成に対する高度なカバーを実現した。我々は発育過程における群生・孤独の二つの相のトランスクリプトームを系統的に比較し、発育過程における両相の分化モデルを初めて発見し、242本の両相のマーカー遺伝子をスクリーニングした。両相の発現の差が最も大きい発育段階は第4齢期であるため、4齢イナゴの詳細なシーケンシングと結び付けて、我々は分子レベルにおける群生相と孤独相の生物的資質の違い、すなわち群生相は環境シグナル関連の経路を感知、処理する面でより活発であり、一方、孤独相は代謝、生合成など生存関連の経路を維持する面でより活発であるということを初めて発見した。我々はさらにトノサマバッタの二つの相の分子ネットワークの枠組みを構築し、トノサマバッタの種群密度ストレスに対処するメカニズムを提示したが、それはトノサマバッタは神経伝達物質の活性を調節することによって種群密度のストレスに対処しており、GPCRシグナル経路を中心としたシグナル伝達ネットワークがこのプロセスに関与している、ということである。トノサマバッタの両相の変化は明らかなエピジェネティックな特徴をも示しており、我々はトノサマバッタの両相間のsmall RNAの転写の差が非常に大きく、最も大きな差は27bp前後におけるsmall RNAの転写であることを発見した。いくつかの保存された、かつ特有のmiRNAはトノサマバッタの相変異の制御に関連しており、同時に大量のトノサマバッタに特有のsmall RNAを鑑定した。我々はさらにゲノムデータに依存しない、microRNA及びpiRNAを鑑定する一つの方法を開発し、27bp前後のsmall RNAが主にpiRNAに属していることは、両相のトノサマバッタのsmall RNAにおける発現の差が主にpiRNAにあることを示していることを発見したが、これはトノサマバッタの両相の生殖力の差が重要な手掛かりを提供しているのだと解釈できるかもしれない。我々が開発した、ゲノムデータに依存せずに非モデル生物のmicroRNAとpiRNAを鑑定する新しい方法は、広範囲な価値を有している。
熱ショックタンパク質ファミリー遺伝子は、生物が環境の変化に対応する際の分子シャペロンと考えられており、遺伝子発現の分析を通じて、熱ショックタンパク質ファミリーは相変異のプロセスに関与しており、群生化の条件下では、熱ショックタンパク質ファミリー全体がアップレギュレートし、孤独化条件の下ではその逆となること、このような変化は種群密度の変化にしたがって発生するということがわかった。この研究は、群生相トノサマバッタは一種の種群ストレス状態にあり、熱ショックタンパク質ファミリーがトノサマバッタの相変異の制御に関与していることを示している。さらに、我々は環境適応とストレスに関連のある一種のレトロトランスポゾン遺伝子が、トノサマバッタの孤独相と群生相の間において差の発現を表していることを発見した。さらなる分析によれば、これらの遺伝子はⅠ因子ファミリーに属し、しかも両相の間の差は主に神経系内に存在していることが明らかである。これは、レトロトランスポゾン遺伝子はトノサマバッタの相変異プロセスの神経可塑性制御に関与している可能性があることを示している。我々は自主開発したトノサマバッタのオリゴヌクレチドマイクロアレイを利用して、4齢幼虫の孤独化及び群生化の時間プロセスにおける遺伝子発現プロファイリングを検査し、900余りの差異発現遺伝子をスクリーニングした。さらなる生物情報学的分析によれば、二種類の嗅覚に凝縮している関連遺伝子(CSPとtakeout)はすべての遺伝子類別の中で、占めている割合が最大である。RT-PCR実験では、これらの遺伝子はイナゴの主な嗅覚器官―触覚において発現量が最も高く、しかも相変異の時間プロセスと密接に関わっていることが証明された。最終的に、RNAi干渉実験から明らかになったように、この二種類の遺伝子はトノサマバッタの孤独相と群生相の吸引及び排斥の行動転換の制御に関与している。この研究はトノサマバッタの群集行動を制御する分子メカニズムを初めて解明した。最近、我々はトノサマバッタのオリゴヌクレチドマイクロアレイを利用して、トノサマバッタの両相のそれぞれ異なる発育段階の転写特徴について研究し、両相の4齢幼虫の間の転写差が最も大きいことを発見した。生物情報学的分析は、ドーパミン代謝経路はトノサマバッタ群生相において安定的に高発現することを証明した。遺伝子サイレンサー技術(RNAi)及び薬物干渉を通じて、この代謝経路におけるhenna、pale、ebony、vatlは、トノサマバッタの両相の転換と体色の変化を制御していることが証明された。神経伝達物質としてのドーパミンとセロトニンも相変異のプロセスにおいて重要な役割を果たす。しかも、トノサマバッタの孤独相から群生相への転換のプロセスは比較的ゆっくりであり、この特徴はサバクトビバッタ、オーストラリアトビバッタとは明らかに異なっている。
イナゴの相変異は非常に複雑な生物学的プロセスに関連しており、そこにおける行動と体色の変化は最も明らかな二つの表現型性状である。日本の学者Seiji Tanakaはイナゴ体色の黒化研究の分野において非常に際立った貢献を行った。オーストラリアの学者Steven Simpsonはサバクトビバッタの両相転換の行動学研究の分野で大きな成果を上げ、世界的な影響力を有している。イナゴ体色の変化と相変異の関係は、一つの非常にチャレンジ性のあるテーマとなるだろう。今後、イナゴ相変異の機序を明らかにする研究は、以下の三つの方面――神経伝達物質の相互作用、エピジェネティクス、母性効果等の方面において進展を遂げていく可能性がある。これらの研究において突破口が開かられることは、イナゴの相変異と蝗害への人々の認識を深め、昆虫の社会行動についての研究を促し、環境友好型のイナゴ抑制技術を開発するであろう。トノサマバッタ全ゲノムシーケンシングの完成にともない、トノサマバッタは重要な実験モデルシステムとなり、我々人類の健康問題の解決のために役立っていく可能性がある。