中国救援隊独占インタビュー
中国科技日報 2011年 7月13日
放射能の影響は受けず
劉氏と李氏の17日20時30分の通話によれば、中国国際救援隊が活動している岩手県大船渡市は爆発の発生した原発から北に200キロの位置にあり、ここ数日は北風か北西風の日が多いことから、放射能汚染物質は太平洋上に吹き流されており、大船渡市は今のところ放射能の影響を受けていないそうである。救援隊は放射能測定器を携帯しているが、測定器は一度も警報を発していない。
福島原発事故の重大性と不確定性に鑑みて、中国国際救援隊のスムーズな活動と隊員の安全を保障するために、16日、中国地震局は放射能防護服20セットを用意して日本へ緊急発送し、17日には日本に到着した。ただ連絡が取れた時点では、劉氏は記者に防護服はまだ救援隊の駐在地に届いていないと語った。また目下のところ劉氏の体調は良好で、「どうか皆さん安心して欲しい」とのことだった。
高く評価された「離れず放棄せず」
劉氏の説明によると、中国国際救援隊は13日12時30分、日本の羽田空港に到着し、日本外務省関係者および2名の中国在日大使館員の同行の下、自衛隊の飛行機に搭乗して、18時40分、岩手県の花巻軍用空港に到着。隊員たちは一息つくこともなく、ただちに大船渡市入りした。大船渡市は海岸線に近く、小さな入り江で、湾岸の総人口は4万人あまり。地震の時の津波は強烈で、被害が最も大きかった地区の1つである。津波に席巻された同市では至る所でその傷跡を目にすることができるそうだ。救援隊は大船渡市内の高校のグランドに野営している。
中国救援隊の活動地は、3方を山に囲まれ、1方は海に面しており、5、6級の強い風が常にテントに吹き付ける。現場で救助活動を行っていると、曇り空と寒さに加えて、震度5、6以上の余震が頻発し、たびたび津波警報が響き渡る。とくにここ数日は大船渡市では雨交じりの雪が降り、寒く曇りがちな日が続いている。しかし、中国救援隊は救援の「陣地」を堅く守りながら「戦闘」を続けている。
中国国際救援隊は、震災後当地に駆けつけて救援活動を展開した最初の外国籍救援隊である。現在、中国救援隊とともに大船渡市で救援活動を行っているのは、日本、米国、英国の救援隊だ。中国は大船渡市の南部地域を担当し、隊員1人当たりの担当範囲は最も広い。17日、日本側が中国救援隊のために大型救援装備を配備してくれたことから、救援活動の効率が高まった。
劉氏によれば、現地では水・電気がなく、通信も不能で、救援隊は持参して来た発電機を使用し、食・住についても自給自足している。救援隊は来日の際、5トンの物資を携帯して来たが、食料は多くなかった。現在残っている飲料・食料はやや不足気味だが、まだしばらくは持ちこたえられるとのことだった。
現在、日本人は救援隊が被爆の危険をおして救援活動を継続していることにとても感激しているという。16日、中国国際救援隊の隊員が近所にある購入制限中のスーパーに買い物に立ち寄った際、店長は感激して隊員に向かって最敬礼し、物資を救援隊に贈ってくれた。また、大船渡市役所は水が不足している状況の中、わざわざ救援隊のために飲料水を届けてくれた上に、発電に必要な燃料も提供してくれた。
当初は能力を発揮できる場面がなかった建築構造専門家
救援隊の中でただ1人の建築構造専門家としての劉氏の職責は、震災現場における建築物の安全性の鑑定であった。隊員が被災地の建物内に立ち入る際や、もし生存者が発見された場合に、劉氏は建物の損壊程度に基づいて安全で有効な救出方法を考案するのだ。建築構造専門家の最大の責務は救援者と被救援者の双方の安全を保証することであった。
しかし今回は、すさまじい津波の被害を前にして、ただ1人の建築構造専門家は当初その能力を発揮する場面がなかった。通常の地震と異なり、今回日本が遭遇した大地震は同時に津波を伴っていた。津波による人命的被害は地震より遥かに大きく、猛烈な津波は多くの家屋を破壊して更地にしてしまい、劉氏は当初、過去の救援活動のようには持ち前の建築構造専門家としての能力を発揮しようがなかったのである。
劉氏は日本で12年間生活していたことがあり、日本人との交流に熟達している。このため、彼は留守応対チームと現場救助チームの交代業務を割り振られた。
3月21日深夜1時、劉氏他14名の中国救援隊隊員は順調に救援任務を果たして帰国した。中国国際救援隊中ただ1人の建築構造専門家だった劉氏から見て、日本の地震・津波被災地域とこれまでの地震現場とではどのような違いがあったのだろうか。また、現場での救援活動と地震の科学的調査から得られた総括的な経験・教訓はどのようなもので、今回の日本の地震が今後の世界の防災・減災に対して示唆するのはどのようなことだろうか。3月24日、科技日報は劉氏への独占インタビューを行った。
救援活動中にも気を配った地震の科学的調査
地震の科学的調査は中国地震局工程力学研究所に所属する専門家が必ず持っていなければならない能力であり、職責でもある。日本での救援作業は非常に気の張り詰めるものだったが、工程力学研究所が救援活動に派遣したただ1人の建築構造専門家として、地震関連の調査以外にも、救援人員と救済者の安全を保障することや現地での応対責任といった多くの役割が劉氏の肩にのしかかっていた。また、調査過程で劉氏が収集した多くの資料は、中国における今後の地震工学研究にとって重要な研究材料となり、研究者たちはその恩恵を受けることになるだろう。劉氏の苦労は人一倍だった。
過去何回かの地震では、鉄筋コンクリート構造の建物と向かい合いながら、建築構造の専門家として現場で安全と救助の技術指導力を発揮して、損壊した建築物の状況に基づいて安全な救助方法を判断しなければならなかったが、今回は津波によって多くの建物が粉々になってしまい、建築構造と言えるものは何もなかった。
とはいえ、ただ1人の建築構造専門家として、今回劉氏は救援現場の安全技術指導という重責を担っただけでなく、同時に現地の建築的特徴や地震・津波の特性を観察し、原因を分析し、科学的調査を実施して、未来の地震工学研究のための資料を蓄積したのである。
津波対策として有効な鉄構造や鉄筋コンクリート
劉氏の実感では、今回の日本地震は震度は非常に大きかったものの、救援隊の活動区域では木造家屋に対する地震の影響は軽微で、津波が到達していない地域では、多くの建物は亀裂すら見当たらず、一部の建物でガラスが割れたり壁がはがれたりしているのが見られる程度だった。
一方で、海岸に比較的近い木造家屋は、地震の被害は免れたものの、津波から逃れることはできず、巨大な波により多くの建物、道路、橋梁などが破壊され、壊滅的な打撃を被った。
劉氏の観察では、津波による被害は木造家屋で大きく、逆に鉄骨、セメント、鉄の混構造の大型建築物は比較的耐性が高くて、海水の屋内侵入により物質的損失は被ったものの、建物の構造的には損壊はなかった。これは代表的な例と言えよう。
劉氏が驚いたのは、日本の木造建築は耐震性が高い一方で、津波には非常に脆弱だということだ。鉄構造や鉄筋コンクリート構造の建築物は木造家屋よりさらに強い津波への耐性を有していることが見て取れた。
津波発生の可能性がある地域における今後の建築について劉氏は、できるだけ鉄骨構造かあるいは鉄筋コンクリート構造を用いることと大型建築物とすることを挙げた。こうした方法によって、建築物の津波に対する抵抗力を引き上げることができるとのことである。
災害警報には最悪の事態を想定すべき
日本側提供のデータによれば、今回の津波によって大船渡市では死者約200名、行方不明者約200名に達したが、死因は地震ではなく津波による溺死が大半だった。
劉氏が救援活動中、被災者に聞き取り調査を行ったところ、彼らは口をそろえて次のように答えた。「地震は逃れたのに津波で溺死したという人の多くは、経験主義的な間違いを犯した」。日本ではここ数年、大規模な津波が発生していなかったことから、何十年も前にチリ地震による津波があったものの、現地の人々は遙か昔の出来事だと思っていて、津波の襲来についてすっかり油断していたというのである。日本の気象庁は地震発生から3分後には大津波警報を発令していたし、大船渡市がある入り江から海底の震源まで130キロほどあることから、地震発生後に高い場所へ避難する時間は数十分あった。しかし、現地の人々の多くは津波はそんなに大きくないと考え、その結果津波に巻き込まれてしまったのだ。
「用心深く操船していれば、船は1万年走らせることができる」〔どんなことも注意深く慎重に行動してこそ一定の成功が得られるという中国の箴言〕 。劉氏からは「これからの防災では油断こそが大敵で、警報があった場合には最悪の事態を想定すべきだ。そうして初めて危機から逃れることができる」との指摘があった。
地震救援の「黄金の72時間」をも呑み込んだ津波
劉氏は救援活動に従事する中で、地震による負傷・死亡と津波によるそれとでは大きな違いがあることに気付いた。地震では発生から72時間が救助の「黄金の時間」とされる。しかし、今回の日本の大地震は津波災害を引き起こしたことから、救援活動にとって最もカギとなる時間帯が、発生から72時間という地震の場合と比べてとても短くなってしまい、数十分か数時間、どんなに長くてもわずか1、2日ほどに限られた。
津波の発生後、救援隊は時間との競争だった。統計によれば、大船渡市では地震発生の第1日目に救出された生存者は12名で、2日目は3名、3日目以降はゼロだった。津波によって水中に引き込まれた場合、数分以内に救助されなければ溺死の可能性が高まる。救出の「黄金の時間」は大幅に短くなり、いくら救援人員が一刻を争っても、津波で生存者を救出することは非常に難しいと言えよう。
劉氏は調査・研究を通して、津波に襲われた場合、避難経路が生死を左右するということに気付いた。波と同じ方向に逃げた人は当然津波より速く逃げることはできず波に巻き込まれてしまったが、機転がきく人は波と同じ方向に逃げずに高い場所に逃げて助かったのである。
劉氏は、逃走経路も含めた津波からの避難計画を立てた上で、津波が発生する可能性のある地域の人々に訓練をさせるべきだと述べていた。
参考とすべき日本の相互協力・応援制度
12年間の日本での生活・勤務経験がある劉氏は、今回の大地震での日本人の冷静さをとても高く評価している。放射能の危険が間近に迫っても、食料が欠乏しても、日本人は慌てることなく、秩序を保ちながら並んで物を受け取っていた。このように大災害に直面する中で冷静さを保つという素質は、我々中国人も参考とすべきであろう。
劉氏がもう1つ感嘆したのは、日本の近隣県市の災害時における相互協力・応援制度である。中国救援隊が13日に大船渡市に到着した際、すでに多くの近隣県市の消防隊員が現場で救助活動を開始しており、地震発生の初日・2日目に救助された生存者はすべて彼らによって発見された。中国救援隊の到着は地震から3日目で、日本人自らの手による生存者救助もすでにゼロになってしまっており、生存者の捜索・救助はすでに不可能だった。
日本は地震多発地帯に位置する島国であることから、近隣県市が地震救援活動で互いに協力・救助し合う制度がよく整っている。毎年定期的に緊急救援訓練が実施され、各地域の消防隊員は何回もの合同訓練で互いの協力・連携を養っていたことが、迅速に救援状態への移行と貴重な救援時間の獲得につながったのだ。