第62号:ナノ材料科学
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ナノテクノロジーの標準化プロセス及び倫理的問題

2011年11月11日

沈 電洪

沈 電洪(Shen Dianhong):中国科学院物理研究所研究員、
国家ナノ科学センター研究員(兼務)

1941年1月生まれ。1964年、北京大学物理学部卒。中国科学院化工冶金研究所研究員補佐、中国科学院自動化研究所副研究員、中国科学院物理所研究員、表面物理学国家重点実験室副主任を歴任。1980~2003年にかけ、大阪大学産業科学研究所、米国アリゾナ大学物理学部、静岡大学電子工学研究所、ドイツ・カールスルーエ研究センター・ナノテクノロジー研究所で訪問学者・客員教授を務め、研修・研究に従事。主な研究分野はナノ・マイクロ技術の基礎研究、巨大磁気抵抗効果(GMR)の材料と物理学、高密度包装材料の界面物理に関する研究、高温超電導物質の表面・界面に関する研究。Japanese Journal of Applied Physics、Modern Physics Letter、Applied Physics A、Chinese Physics等で論文60本以上を発表。1997年から全国マイクロビーム分析標準化委員会・表面化学分析標準化技術委員会の主任委員を務め、表面分析の標準化研究作業に従事。2005年に全国ナノテクノロジー標準化委員会の副主任委員を務め、ナノテクノロジーの標準化作業に従事。

1 問題提起

 ナノテクノロジーは人類の生活と生産のさまざまな分野に関係する。20世紀末にナノテクノロジーは急速に発展し、ナノ素材の多くに特殊な性能があることが見出された。セラミックス、マイクロエレクトロニクス、バイオテクノロジー、光電気、化学工業、医学、分子の自己組織化及び光学等の実用面で幅広い将来性があり、科学技術上の多くの難題を解決でき、人々に幸せをもたらした。この新技術により、人々の生活のさまざまな分野に大きな進歩がもたらされることが期待されている。一方、遺伝子工学、クローン技術及び原子核物理学の発展により多くの倫理的問題が発生したことから、ナノテクロノロジーの進歩でも倫理面でのとまどいに直面するのではないかと人々は懸念している。ナノテクノロジーの発展では合理的な規範と正しい運営方針により、健康的で調和のとれた社会の発展を導くことが望まれている。ナノテクノロジーは豊かで調和のとれた世界を創造し、人々が十分な食料、安全な飲料水、そして清潔で安全な生活環境を享受できるよう全人類に対し奉仕しなければならない。

 米国を主とする西洋の国々は2004年6月以降、「責任あるナノテクノロジー研究開発に関する国際対話」を数回にわたり開催した。第1回は2004年6月17~18日に米国バージニア州アレクサンドリアで開催され、25の国、地域及び国際機関の代表が出席した。主な議題はナノテクノロジーと人類の健康・安全との関係、環境に対する影響・ハザード・リスク、社会経済と倫理への影響であった。また、ナノテクノロジーと発展途上国の問題についても特に話し合われた。

 第2回は2006年6 月26~28日に東京で開催され、23の国、地域及び国際機関の代表が参加し、各国のナノ分野のリーダーたちが責任あるナノテクノロジーとの研究・開発について非公式な対話を行った。参加者は5つの分科会、すなわち、環境・健康・安全(EHS)、倫理・法律・社会問題(LSI)、教育・能力建設、発展途上国の問題、標準化に分かれた。第2分科会では中国科学院高エネルギー物理研究所ナノ安全実験室の趙宇亮主任が"China's Development for the Safety Assessment of Manufactured Nanomaterials"というテーマで発表した。当時、国際標準化機構ナノテクノロジー標準化技術委員会(ISO/TC229)は成立後1年に満たなかったが、委員長が招聘されて参加した。

 2008年3月11~12日にはブリュッセルの欧州議会で第3回会議が開催され、49の国、地域及び国際機関から代表97人が出席した。会議では主に、世界規模で1つの適切な枠組みをデザインしてナノテクノロジー専門の公共政策を策定することや、ナノテクノロジーで存在する問題の認識について互いに意思疎通すること、ナノテクノロジーに起因する問題について検証可能な評価方法を構築し、かつ、責任ある国際対話を確保することについて話し合われた。この会議では、国家ナノテクノロジー科学センター主任の王探研究員が"Progress on Responsible Research and Development of Nanotechnology in China"というテーマで発表し、中国のナノテクノロジー指導委員会や、ナノテクノロジーの健康、環境・安全面における中国の研究や標準化の進捗状況ならびにナノテクノロジーと一般市民とのつながり等の問題について説明した。

2 標準化作業の主な任務

 生産、貿易及び公共生活等の社会活動において、一定の範囲内で最善の秩序を得るために協議により制定され、かつ、公証機関により認可され、繰り返し使用される共通の規範的文書を「標準」という。標準は科学、技術及び経験に基づく総合的成果を基礎に、共通の最大効果を求めることを目的としている。一定の範囲内で最大の秩序を得るために、実際の、または潜在的な問題に対して共通の、ならびに繰り返し使用される規則を制定することを「標準化」といい、これには標準の制定、公布及び実施のプロセスが含まれる。標準化の重要性は、製品や生産過程、サービスの実用性の改善、貿易障壁の撤廃ならびに技術協力の促進にある。標準化の本質と目的は、標準の制定、公布及び実施を通じて、統一された最善の秩序と社会効率を獲得することである。

 標準化の主な役割は、科学的管理の基礎を築くだけでなく経済全体の発展を促し、経済効率を高めることにある。さらには、科学研究では研究作業の重複を避けることができ、製品設計では設計期間を短縮でき、生産プロセスでは科学的かつ秩序ある基礎の上に生産を進めることができ、管理規範では統一性や調和を促進し、効率を高めることができる。また更に、標準化は自然資源の合理的な利用や生態環境の維持、人類社会の既存利益・長期的利益の確保、製品品質の保証、消費者利益の保護などを促し、生産に関わる社会の各構成要素を調和させ、順守すべき共通規則を構築し、秩序を安定させる。

 標準化は貿易障壁の撤廃、国際的な技術交流と貿易の発展、国際市場における製品の競争力向上に大きな役割を果たすだけでなく、健康や生命の安全を保証する上でも重要な役割を果たす。環境標準、衛生標準及び安全標準を多数制定し、必要に応じて法的手段により強制的に取り締まることは、国民の健康と生命・財産の安全を保障する上で重要な役割を果たす。このため、ナノテクノロジーの標準化体系を整備することで、ナノテクノロジーの倫理的問題に対する人々の疑惑を消すことができるかもしれない。

3 ナノテクノロジーの健康、安全及び環境面における標準化作業

 国際標準化機構ナノテクノロジー標準化委員会(ISO/TC 229)は2005年11月に成立し、事務局は英国規格協会(BSI)に置かれている。ISO/TC 229には成立と同時にナノテクノロジーの用語、測定法と評価、健康・安全・環境という3つのワーキンググループが置かれた。健康・安全・環境ワーキンググループ(ISO/TC 229/WG3)の主旨は、ナノテクノロジーの健康・安全・環境面に関係する標準を発展させることにあり、すでに国際標準ISO/TR 12885:2008 "Nanotechnologies-Health and Safety Practices in Occupational Settings Relevant to Nanotechnologies"を公布している。

 このワーキンググループが現在取り組んでいる標準には、「ナノ素材サンプルのエンドトキシンに関する体外系統試験」、「発生したナノ粒子をナノ毒性学試験に用いるための標準」、「ナノ粒子吸引室の測定標準」、「ナノ素材のリスク評価体系」、「人工的に製造されたナノ素材の安全処理ガイダンス」及び「ナノ素材の安全データベース」等がある。このほか、ナノテクノロジーの持続可能な発展ワーキンググループを設置し、主にナノテクノロジーの発展によるマイナス影響、特に環境破壊の問題をいかに減らすか、を主に検討することとした。

 わが国では2005年5月、ISOに先立ち全国ナノテクノロジー標準化技術委員会(SAC/TC279)を設置し、その後まもなくナノ素材標準化分化技術委員会とその他4つのナノテクノロジーの測定・加工技術と関係する標準化ワーキンググループを設置した。SAC/TC279の成立記念式典の際に、ナノテクノロジー・バイオ製薬標準化準備グループの設置が提案された。

 この分野の及ぶ範囲は広く、協調作業に時間がかかるため、全国ナノテクノロジー標準化委員会の傘下にナノテクノロジー健康・安全・環境標準化ワーキンググループが2010年3月に設置された。このワーキンググループは中国医学科学院基礎医学研究所の管轄下にあり、ナノテクノロジーの医学的・生物学的効果ならびにナノ素材・ナノ製品の生産・包装・輸送・使用プロセスにおけるヒト・環境の安全性に対する影響の標準化作業を行う。実際に、わが国ではナノ粒子製造における湿式法、検査法及び労働者保護技術の分野ですでに国家標準または業界標準を30件公布している。これら標準・法規はナノサイズの粒子を対象に特に制定されたものではなく、マイクロメートル以下の粒子を対象としたに過ぎないが、ナノ粒子の製造にも同じように使用される。当然ながら、ナノサイズの粒子の製造、検査及び労働者保護技術に対する要求はより高くなる。

 中国科学院高エネルギー物理研究所は2001年11月に「ナノ物質の生物毒性に関する研究レポート」を発表した。中国科学院は「科学的発展観」の見地から、ナノ素材の安全性研究について明確な見解を持ち、かつ、多くの分野にわたり整備を行った。国家科学技術部、国家自然科学基金委員会及び国家ナノ科学センターもこの分野の研究作業を支援した。中国科学院、中国医学科学院、軍事医学科学院、中国医科大学、北京大学東南大学等の研究機関もナノ素材の生物学的効果と毒性に関する研究を行っている。

 2004年11月30日から12月2日まで、「ナノ物質による生物学的効果」をテーマとする第243回香山科学会議が北京で開催された。中国科学院の白春礼院士、北京大学の劉元方院士、中国科学院武漢分院の葉朝輝院士、中国医学科学院の強伯勤院士及び中国科学院高エネルギー物理研究所の趙宇亮研究員が座長を務め、ナノ科学、生物学、化学、医学、物理学、環境学等のさまざまな分野の専門家40名余りが会議に招待された。中国科学院高エネルギー物理研究所ナノ生物作用実験室の研究者が特別報告を行い、高エネルギー物理研究所の最新の研究成果と今後の研究計画を紹介した。2007年11月27~29日には「ナノテクノロジーと環境安全」をテーマとする香山科学会議の第314回学術シンポジウムが北京で開催され、解思深、魏複盛、張先恩及び劉錦准研究員が座長を務め、物理学、化学、材料学、環境学、情報・生命科学等の研究機関及び企業から40名余りの専門家が招待された。参加者は「ナノ素材の環境リスク及び安全性評価」、「ナノテクノロジーと環境管理・修復」、「ナノ検査技術と環境モニタリング」の3つのテーマについて討論し、ナノテクノロジーと環境安全分野におけるわが国の研究について、次の提言がなされた。すなわち、(1)現行の技術レベルでナノテクノロジーと環境の安全性に関する公共の研究プラットフォームを構築し、国内のナノテクノロジー及び環境分野の専門家に学際的研究のための公共の場を提供する。(2)新しい環境モニタリング及び安全性評価体系を構築する。(3)国の関連政策においては、ナノテクノロジーと環境安全問題を重視し、支援を強化すること。これら提言をきっかけに、科学技術部はナノテクノロジーの生物学的安全性分野における科学技術事業と研究を大々的に支援するようになった。

 全国ナノテクノロジー標準化技術委員会とナノ・バイオ製薬標準化準備ワーキンググループはそれぞれ2006年3月23日及び2007年7月16日に中国科学院物理研究所及び中国疾病対策予防センター(中国CDC)職業衛生・中毒制御研究所において、ナノテクノロジーと健康・安全・環境問題に関するシンポジウムを開催し、国家環境保護総局、中国疾病対策予防センター(中国CDC)職業衛生・中毒制御研究所、中国疾病対策予防センター環境・健康関連製品安全研究所、中国医薬品・バイオ製品制品検査所、中国医学科学院、軍事医学科学院、北京大学清華大学、中国医科大学、冶金工業情報標準化研究院、北京理化分析試験センター、中国科学院物理研究所、中国科学院高エネルギー物理研究所、中国科学院生態環境センター、国家ナノ科学センターの代表が参加した。2回のシンポジウムで、参加者は各機関で関心を集めているナノテクノロジーと関連製品の健康・安全・環境面における状況やわが国におけるナノテクノロジーの健康・安全分野における研究の進捗について情報交換した。ナノテクノロジーの健康・安全・環境問題は、国家標準化管理委員会の「第11次5ヵ年計画」にもリストアップされている。

 標準化の問題は科学技術の問題だけでなく、管理学、法律学、倫理面での問題とも関係するため、自然科学、エンジニアリング、人文・社会科学分野をつなぐ架け橋やきずなであるとも言える。ナノテクノロジーの健康・安全・環境標準化ワーキンググループの成立により、社会科学と自然科学それぞれの研究者によるナノテクノロジーの倫理問題での交流と意思疎通がより促進されるだろう。ナノテクノロジーの標準化には倫理学研究者と法律専門家による関与とアドバイスが必要である。自然科学と社会科学の専門家は手を携え、ナノテクノロジーの持続可能な発展と生活の向上に向け、共に貢献しなければならない。