義務教育段階の越境入学や入学者選抜の廃止に向けた政府の取組と北京市の実践―小中一貫制の拡大による義務教育学校の共同発展
2015年 9月 3日
新井 聡:
生涯学習政策局参事官(連携推進・地域政策担当)付 専門職
略歴
1998年 埼玉大学文化科学研究科文化構造専攻 修了
2003年 ロンドン大学東洋アフリカ学院 人類学・社会学部博士課程 退学
2005年 在アゼルバイジャン日本国大使館草の根・人間の安全保障無償資金協力外部委嘱員
2009年 文部科学省生涯学習政策局調査企画課専門職
2013年 文部科学省生涯学習政策局参事官(連携推進・地域政策担当)付専門職
はじめに
2010年に全国の義務教育の普及率が100%に達した中国では,教育の地域間・学校間格差の解消や全体的な教育の質の向上が新たな課題として浮かび上がってきた。2010年に制定された2020年までの教育中長期計画や2013年11月に開催された現政権の重要方針が示される中国共産党第18期中央委員会第3回全体会議(通称,「三中全会」)においても同課題の解決にむけた方針が示され,特に「三中全会」では,小学校から前期中等教育機関である初級中学への進学の際に発生する越境入学と重点学校が実施する入学試験が学校間格差や教育の質向上を妨げる要因として問題視された。本稿は,義務教育段階の越境入学や入学試験の廃止に向けた近年の政府の取組を見た後に,小中一貫制の拡大実施により,越境入学の廃止に向けた取組を行いながら,義務教育の全体的な質の向上を達成している北京市の取組と実態を紹介する。
義務教育段階の越境入学や入学試験の廃止に向けた政府の取組
中国では,大学入試に向けて自分の子供を少しでも有利な学校に進学させたいと考える保護者が,児童に早期から受験勉強を強いることが問題となっており,特に義務教育段階の入学者選抜を廃止するための政策が1990年代から推進されてきた。
小学校6年,初級中学3年の9年制義務教育を実施する中国では,小学校から初級中学へ進学する際,入学試験は原則存在せず,コンピュータの割り振りにより進学先を決定する方法が一般的である。しかし,自分の子供を清華大学附属中学等の大学附属校や西城区実験中学等の地域のモデル校などいわゆる「重点学校」に進学させたいと考える保護者は,入学者選抜による越境入学を試みる。重点学校の中には,倍率が30倍に上る学校[注1]もあるため,保護者の中には,小学校第4学年から子供を塾等に通わせ,第6学年の最後の学期には通学させずに家庭教師を雇って自宅で受験対策をさせる者がいる。
もともと,中国の公立学校では,優秀な人材の集中的な早期育成と,教育方法や教育内容の研究・開発を目的とする中核的な学校として「重点学校」が指定されていた。同学校に指定されると,予算,施設設備,教員配置等の面で優遇され,一般の公立の学校よりも非常に高いレベルの教育を実施することができた[注2]。しかし,1986年の義務教育法施行とともに義務教育段階での重点学校が徐々に廃止されるようになり,2006年に改正された義務教育法では,第22条において学校間格差を是正するために「重点学校」と「非重点学校」や「重点クラス」と「非重点クラス」の区分を設けることを禁止している。
重点学校の存在が,教育機会の公平化や教育資源の地域間・学校間格差の解消を妨げていると考えた政府は,2010年に公表された2020年までの教育中長期計画である「国家中長期教育改革・発展計画綱要(2010~2020年)」において越境入学の廃止,重点学校や重点クラスの設置禁止,学区内での入学・進学の保障などの目標を提示し,北京市や天津市等で小中一貫制等の進学制度を改革するための実験を行った。さらに,2013年11月に開催された「三中全会」でも「小学校から初級中学への進学の際に発生する越境入学を抑制し,重点学校での入学試験による学業負担を解消すること」が明示され,早急な状況の改善が求められた。
各地の実験から小中一貫制の導入や学区の再編が,越境入学や義務教育段階の入学者選抜の廃止に効果があると判断した教育部は,2014年1月に小学校から初級中学に進学する際の入学者選抜を廃止し,学区内での進学を推進する事業に関する意見[注3]を発表するとともに,特定の大都市を対象とした義務教育段階の入学者選抜試験の廃止及び学区内の進学の実施に関する通知[注4]を発表した。同年2月には同意見・通知に呼応して,北京市や上海市等の主要19都市が小中一貫制や学区制に基づく入学者選抜のない進学等を実施することを表明し[注5],そのうち,小中一貫制を長年研究してきた北京市は2014年度から小中一貫校を大幅に拡大導入する決定をした。
北京市による越境入学の廃止に向けた取組
北京市は,地方からの流入に伴う都市部の人口増大や教育資源の地域間・学校間の不均衡,保護者の教育を重視する価値観等の要因から,1990年代に越境入学が過熱する状況が生じていた。当初,北京市教育委員会は,教育行財政の改革による地域間・学校間格差の解消によって問題の解決を図り,2000年に,郷・鎮で管理していた義務教育をそれより上のレベルの行政単位である区・県で管理するようにした。これにより区域内の予算規模が増大したことから,教育資源の分配がより効率的になり学校間格差が縮小した。また,収入の少ない農村地域では,県レベルの政府の教育予算が不足した場合には,より上のレベルの市政府が補助を支給する等の方法が導入されたことにより,都市部と農村部の教育格差が解消された[注6]。
しかし,この改革によっても,新設校よりも歴史のある伝統校の方が教育のレベルが高く,受験に有利であるという一般の人々のイメージを変えるには至らなかった。また,都市部の保護者ほど教育に熱心でない農村地域の保護者の方針や地域間で異なる学校外教育の規模と質が子供の学習意欲や学力に影響する等,学校教育とは異なる要因から教育格差が存在しつづけたことから,人々は格差が解消されていないと誤解し,越境入学は一向になくならなかった。
そこで北京市は,保護者の意識を改革し,児童・生徒の学習負担の軽減を行い,さらに現行の教育レベルを全体的に向上させるという複合的問題を解決しようと,学校制度の再編に着手した。同市は,2007年から入学試験のない小学校から初級中学への学区内での進学制度を導入し,その際20校あまりが6-3制から小中一貫制に移行するなど[注7],越境入学の解消に向けた取組が拡大していった。
2014年現在,北京市は,初等教育6年と中等教育6年を連携させた6-6制(63校)や,6-3制及び5-4制(102校)の小中一貫制を実施しており,これは市内の普通教育を行う初等中等学校総数(1,683校)の10%に当たっている[注8]。このうち,最も早期に小中一貫制を取り入れた学校は,東城区の景山学校である。同校は,1980年代に5-4制の小中一貫制を実施し,教材や試験問題を独自開発するなど,小中一貫制や,中央政府が推進する創造性の育成などの子供の様々な資質を全面的に伸ばす資質教育の研究を続けてきた。同校の取組は,東城区の模範となるなど,北京市には小中一貫校の拡大導入を行う上で十分な経験があった。
北京市の小中一貫制の導入の実態
2014年から開始された北京市の小中一貫制の拡大策は,越境入学や入学者選抜の廃止による児童への学業負担の軽減が主な目的とされるが,それ以外にも,学区内の学校の再編や新設[注9]による教育資源の公平化と質の向上という地域レベルの学校の共同的な発展も目標とされていた。そのため,小中一貫制は,単に小学校と初級中学が合併したものだけではなく,複数の小学校が初級中学部分を新設したもの,初級中学が小学部を新設したもの,大学の附属として新たに小中一貫校を設置したもの,特定の小学校を卒業した者が特定の初級中学に入学するもの等様々な形態がある。
北京市における小中一貫制の導入の実態は,次のとおりである[注10]。
東城区
・地域の名門校である第171中学と一般的な成績の青年湖小学校の連携。2015年の同小学校の卒業者の10%は第171中学に進学でき,2020年には全員が進学できるように進学枠を毎年拡大する。
・東城有史家実験学校と北京一師景山実験学校の2つの小学校による初級中学の新設。初級中学部分は小中一貫校の運営に経験のある学校に委託管理される。
西城区
・裕中小学や西単小学等の12校の卒業生の30%が同校と連携した初級中学に進学。2020年には同区内の80%の学校で特定の小学校から特定の初級中学への直接の進学が可能とする。
海淀区
・群英小学と第206中学が合併して,6年制の中等教育を行う十一学校の第1分校となった。分校内部でのみ小中一貫制が行われるが,分校には地域の優秀校である十一学校から教員が派遣され,十一学校と同一の課程が使用される。
・車道溝小学が北京理工大学附属中学と合併し,同校の小学校部分となり,北京理工大学附属中学に直接進学できるようになった。
・12ある小学校の学区に初級中学を再配置し,個々の小学校と初級中学を連携させ,小学校卒業者の進学先を固定化することで,越境入学を減少させた。
石景山区
・全4学区の中に高級中学を基盤とした8つの集団を作り,その中で小学校と初級中学による9年制,小学校と初級中学,高級中学による12年制,就学前教育から高級中学までの15年制の一貫校を10校設置した。
また,以上の導入によって生じた効果は,次のとおりである。
○ 東城区では,区を8学区に分け,教育資源の再配置を図るとともに,教員の任用を学校単位から学区単位に切り替え,教員の流動性を高めることで,教育の質の学校間格差を縮小させた。
○ 海淀区では,教員の職階を調整し,初級中学の教員が小学校でも教育を行えるようにし,教育の質向上を図った。
○ 海淀区の群英小学と第206中学の例では,地域の有名校である十一学校に進学できる期待感から,ほとんどの児童が分校内で進学し,越境入学をする児童の割合が減少した。だが,幼稚園から十一学校第1分校に入学させようと考える保護者の急増による越境入学の前倒しが発生する可能性がある。
なお,「人民日報」傘下の「京華時報」は,北京教育科学研究院の副院長桑錦竜氏の意見を紹介し,小中一貫制を含めた近年の北京市の義務教育改革によって,越境入学は次第に減少し,保護者の教育観念が変化する可能性や,以前は入学者を選抜していた初級中学に様々な学力の子供が入学することになるため,教員管理や教育の質に関する評価等で学校は新たな課題に直面する可能性を指摘している[注11]。
おわりに
2010年以降,地域間・学校間格差の解消や質の向上に教育政策の重点を移した中央政府の政策に則り,北京市は2014年から越境入学や義務教育段階の入学者選抜の廃止に向けて小中一貫制を拡大実施した。同市の様々な形式の小中一貫制は,当初の目的以外に,学区の再編や教員の任用方法の改正による教育資源の公平化,教育レベルの高い学校とそれ以外の学校との連携による教育の質の向上等の複合的な効果をもたらした。今後は導入の規模拡大とともに,幼稚園から小学校に入学する際の越境入学の前倒しや進学先の固定化による児童の成長における選択性や多様性の減少等,小中一貫制独自の課題に直面すると思われるが,北京市の取組は地域レベルで教育の機会均等や質向上を達成するためのモデルケースとなるかもしれず,今後の動向を注意深く追っていきたい。
注1:新浪教育ウェブサイト「家長必読:北京小昇初択校重点中学五大類」,2013年8月16日,(http://edu.sina.com.cn/)。
注2:文部科学省,2002年,『諸外国の初等中等教育』,財務省印刷局,p.173。
注3:教育部ウェブサイト「関於進一歩做好小学昇入初中免試就近入学工作的実施意見」2014年1月14日,(http://www.moe.gov.cn/)。
注4:教育部ウェブサイト「教育部弁公庁関於進一歩做好重点大城市義務教育免試就近入学工作的通知」2014年1月28日,(http://www.moe.gov.cn/)。
注5:新華網「"択校熱"能否真降温?――19城市回応教育部就近入学工作方案意見」2014年2月19日,(http://education.news.cn/)。
注6:北京市教育委員会財務課長,李艶春女史から聞き取り(2010年12月13日)。
注7:光明日報「九年一貫制学校能緩解択校難嗎?」2013年12月5日。
注8:北京市教育委員会「2014~2015学年度北京教育事業発展統計概況」,2015年3月31日(http://www.bjedu.gov.cn/)。
注9:小学校の新設は,2008年に出生したオリンピックベビーの入学に対応するためでもあった。北京市教育委員会の統計によると2012年度の小学校在学者数は71万8,655人であったが,2014年度では,82万1,152人と2年間で約10万人増加していた。(参考:北京市教育委員会「2012~2013学年度北京教育事業発展統計概況」2013年3月21日「2014~2015学年度北京教育事業発展統計概況」2015年3月31日(http://www.bjedu.gov.cn/))。
注10:光明日報「九年一貫制学校能緩解択校難嗎?」2013年12月5日/京華時報「北京中小学入学:九年一貫制是未来方向」2015年4月21日,(http://epaper.jinghua.cn/)。
注11:京華時報,前掲記事。