文化の交差点
トップ  > コラム&リポート 文化の交差点 >  【14-12】細川護立の美術品蒐集と文化支援(その1)

【14-12】細川護立の美術品蒐集と文化支援(その1)

2014年12月18日

三宅 秀和:公益財団法人永青文庫 学芸課長

日本美術史、特に絵画史を専攻
2002年03月 学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課程修了 修士
2007年04月 財団法人永青文庫(現、公益財団法人永青文庫)学芸員
2008年03月 学習院大学大学院人文科学研究科博士後期課程単位取得満期退学
2011年03月 博士(哲学、学習院大学)
2014年10月 公益財団法人永青文庫 学芸課長

 細川護立は、明治16年(1883)に生まれた。父は細川護久(1839~93)、母は鍋島直正の娘、宏子(1851~1919)。護立が生まれた細川家は、寛永9年(1632)に豊前小倉藩39万9000石から加増転封して以降、肥後熊本藩54万石を治めた大名家である。近代には侯爵家であった。母方の鍋島家も肥前佐賀藩35万7000石の大名家であった。護立は、この旧大名家の華族の4男として生まれ、兄たちの没後、本家を継いだ。以下、この細川護立が行った美術品の収集と文化支援について、述べていきたい。

image

写真1 細川護立(1883~1970) 永青文庫提供

 細川護立の履歴は華々しい経歴で飾られ、その中でも文化行政に関わってきたことが特筆されるが、現在彼を、辞書の冒頭のように、一言でまとめると、近代の美術コレクター、と見なされることがほとんどであろう。護立は10代半ばで最初の美術品を入手してから、残りの生涯、作品を見出し、購入し、鑑賞した。

 護立の蒐集品は、大名家の子孫でありながら、大名家の道具とは重ならないところが多い。コレクションの代表的なものとしては白隠(1685~1768)、仙厓(1750~1837)を中心とした近世の禅画に、刀と鐔、それに横山大観(1868~1958)や菱田春草(1874~1911)、梅原龍三郎(1888~1986)、安井曾太郎(1888~1955)らの近代絵画などが挙げられる。近世の禅画は当時、見過ごされていたといってよく、近代の絵画はまさしく現在のものであり、美術品蒐集の対象としては新しいものばかりであった。

 また、日本に関係するものに限られはしなかった。セザンヌやマティスの西洋絵画、中国の書や画、文房具、仏像、道教像、清朝の磁器、唐三彩や、銀器や銅器などの考古の出土物もあった。さらにはインド神像、イスラム陶器やオリエントのガラスもあった。唐三彩や考古の出土物は歴史の中に文字通り埋もれて忘却されていたものであり、これらの蒐集も先駆的なものといえた。

 細川護立の日本の外への関心は、その教育環境によるところも大きいようである。西洋の美術の動向への関心は、華族の子弟として通った学習院で出会った白樺の仲間たちとの交流のなかで培われたことだろう。護立は、白樺の美術館設立計画に協力して日本にもたらすために西洋絵画を購入したのである。

 中国への関心も、学習院での教育の影響を想定することができるかもしれない。学習院では「東洋諸国の歴史」として実物資料を積極的に活用した東洋史の授業が行われていたのである。加えて、護立の生まれた旧大名家という環境も、影響が大きかったことだろう。江戸時代、漢詩、漢文や儒学は、上層武家の嗜みであり、学問の一つであった。熊本の大名細川家でも同様で、その後裔の細川護立は5歳頃から漢籍を読んでいた。晩年の鼎談の折に、「僕は子供の時、五つ位から漢籍を読ませられて、唐詩選は今でも覚えている位で中国の事は昔から好きでした。」といっている(「蒐集懐旧 ―鼎談 細川コレクションを聞く―」細川護立・広田護熙・磯野風船子『陶説』130号、1964年)。百人一首のような『唐詩選』のカルタが細川家で作られており、「厭でも応でも覚えちまつたんです。そんなことで、好きだつたんですね。」と語るぐあいに、これで遊ぶうちに、自然と『唐詩選』に護立は親しんでいたのである(「細川護立・藝術放談」細川護立・白洲正子・河上徹太郎『芸術新潮』12号、1950年)。さらに17歳ぐらいでやめたというのだが、『桟雲峡雨日記』の竹添井井(進一郎、1842~1917)から漢詩を学び、学校の同人雑誌に漢文を草していたという。また明治33、4年(1900、01)頃には北京公使の内田康哉(熊本出身、後外務大臣)を頼って義和団事件後の北京に、紫禁城や万寿山を見にいっている。多感な十代に西洋や日本の美術だけでなく、日常的に接していた中国文化に憧れを強くし、漢詩文の才に諦めをつける一方で現地へ赴く行動を起こしていたのである。

 18歳頃の北京行き以前、10代半ばの頃、護立は大病していた。学校に行かず、療養に専心していたが、この時期に、美術品をコレクションするきっかけがあった。

 このとき国民新聞の副社長を務めた阿部無仏(充家、1862~1936)から、病は気の持ちようであると、白隠の著述である『夜船閑話』を薦められた。苛烈な修業で心身を病んだ白隠が内観の法を修得して病を克服した体験が記されてあり、これを読んだところ護立は、不思議に病が癒えていく心地になったという。やがて護立は健康を取り戻すのだが、このことで白隠に興味を覚え、それを無仏に伝えたところ、無仏から達磨図一幅を譲られた。これが護立が禅僧の書画の蒐集するようになる始まりである。

 同じ頃、刀剣や鐔などの刀装具への関心も、護立に芽生えている。当時の細川家には、刀剣の手入れのため、熊本の鐔工の西垣家の末裔である西垣四郎作が出入りしており、護立は四郎作から刀剣の鑑賞と鑑識を学んだのである。

 さらに護立は、中国の陶器を蒐集する下地も学習院を卒業する24歳頃までにできたことをいっている。「ぼくは若いころから、陶磁が非常に好きだった。学習院を卒業する時分だ。友人に大河内正敏、奥田誠一さんなどがいて、陶磁のはなしをずいぶんきいた。しかしぼくは買う気にはならなかつた。妙にきこえるかもしれないが、日本にあるものを、いわゆるお茶人式に、日本人同士が売つたり買つたりというのは好かなかつたからだ。それだけならせまい日本の中でただあつちへ動いたりこつちへ動いたりするだけの話にすぎない。できれば日本にないものを持つてきたいと思つた。それで一番いい芸術というのは中国に湧いたのだから、中国のものでも少し集めようかと思つたのがはじまりなのだ。幸か不幸か、ぼくは身体が弱かつたから、学校を休んでいる日が多かつた。その間に中国陶器に関する書物をずいぶん読んだ。」というのである(「私の美術談義」『芸術新潮』11巻7号、1960年)。

 このように中国の文化への興味を深め、美術品の蒐集を護立は始めたのが、長じては、大正14年(1925)から東京帝国大学が行った漢代の楽浪遺跡の発掘を支援している。この発掘は、前年春に東京帝国大学の黒板勝美(1874~1946)と村川堅固(1875~1946)から楽浪の事情と発掘の希望を聞いて護立が資金のほとんどを提供することにしたもので、『楽浪』と題した分厚い発掘報告書の刊行資金も護立が援助した。

その2へつづく)