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【13-008】中国行政法Q&A(その2)

周 作彩(流通経済大学法学部教授)  2013年 6月 3日

周 作彩

周 作彩(しゅう さくさい):流通経済大学法学部教授

1962年、中国江西省に生まれる。
1984年、北京大学卒業。1992年、一橋大学大学院法学研究科博士課程単位修得満期退学。一橋大学法学部講師、山形大学人文学部助教授などを経て2005年から流通経済大学法学部教授(現職)。専攻は行政法。
主な著作として、『岩波現代中国事典』(岩波書店、1999年)(「行政法」「行政訴訟法」「国家賠償法」「行政区画」など20数項目を担当)、「法の支配と行政訴訟制度改革」原田尚彦先生古稀記念『法治国家と行政訴訟』(有斐閣、2004年)83頁、「改正行政事件訴訟法と抗告訴訟の可能性」高橋滋・只野雅人編『東アジアにおける公法の過去、現在、そして未来』(国際書院、2012年)107頁など。

2 法治行政の確立に向けて

中国は人治の国であって法治国家ではないとよく言われますが?

 

 この疑問に答えるためには、何よりもまず法治国家の内実をなす法治主義の意義を明らかにしておかなければならない。というのは、法治主義という言葉は多義的であってこれについて必ずしも万国共通の理解が存在するわけではないからである。

 試しに『広辞苑(第6版)』(岩波書店)で「法治主義」を引いてみると、「①人の本性を悪と考え、徳治主義を排斥して、法律の強制による人民統治の重要性を強調する立場。韓非子がその代表者。ホッブスもこれと同様。②王の統治権の絶対性を否定し、法に準拠する政治を主張する近代国家の政治原理。」との説明に出くわす。

 韓非子(?~前233年)とは中国春秋戦国時代の法家思想の大成者であるから、これによれば中国には古くから法治主義が存在したことになる[1]。したがって、中国に法治主義が存在せず、中国は法治国家ではないというイメージは、当然のことながら、①の意味ではなく、②の意味の法治主義すなわち国家権力も法に服するのだということを前提としての話ということになる。

 しかし、②の意味の法治主義についても、『広辞苑』レベルでは異論がないかもしれないが、それを超えてそこでいう「法」とは何か、「人」ではなく「法」がどのように国を「治める」のかを突き詰めていくと、忽ち見解が分かれ、国により時代によってさまざまなバージョンが存在するのである[2]

 

では、法治主義をどのように理解したらよいのでしょうか?

 

 ここでは、特定の国をモデルとしたものではなく、中国における法治のあり様を考えるときに、あるいはアメリカや日本などにおいて本当のところいったいどうなんだというときの参照枠組みとして比較可能な法治主義の条件を提示しておく。

 法治主義といえるためには、当然のことながら、まず第1に、成文法か不文法か、成文法の場合、誰が制定したか、さらに法の内容がどのようなものかを問わず、とにかく従うべき法が存在していなければならない。

 しかし、それらの法がただ単に末端の役人や官僚をコントロールするためのものではなく、国家権力全体が法の下にあるといえるためには、第2に、一つ一つの法律や条文がばらばらに存在しているのではなく、それらが全体として一つの自律的な体系をなして存在していなければならない。行政や裁判官が法体系全体に適合するように個々の法律を解釈適用しなければならないだけでなく、時の政権が新しい法律を創出するときも、まっさらな砂漠の中で建物を建てるかのようにどんなに奇抜なものを建ててもよいのではなく、やはり街全体の景観や雰囲気に溶け込めるように設計し建築しなければならない。既存の法から離れてまったく自由に法律を作ることができるのではない。

 ロン・フラーが「法の内在的徳性」として挙げた諸条件(一般性、公布、遡及法の禁止、明確性、整合性、実行可能性、安定性など)はまさに法が全体的に一つの自律的な体系として存立・機能するための必要条件といえる。これらの条件はいずれも一義的なものではなく一定の幅または例外をもつものであるが、どれか一つでも完全に欠けたならば、単に法システムの機能が害されるだけでなく、厳密にはそもそも法システムとは呼べないとされている[3]

 そして第3に、国家権力が法に準拠して行動しているかをチェックする何がしかの制度や仕組みが必要不可欠である。制度や仕組みの具体的なあり方は国によって多種多様である。たとえば、アメリカでは、行政と立法のいずれに対しても、通常の裁判所による司法審査制がとられているが、ヨーロッパ大陸諸国では、通常の裁判所とは別に行政裁判所による行政裁判や憲法裁判所による違憲立法審査制度が採用されている。

 しかし、これに対しては、通常の裁判所であれ、行政裁判所または憲法裁判所であれ、裁判官自身が人間であり、裁判自体も権力ではないのかという疑問が忽ち湧いてくるであろう。裁判官によるコントロールが人治ではなく、「法」が「治めている」のだといえるためには、裁判官の独立をはじめとする裁判の諸手続原理、さらには法の自律的な解釈運用を担う法コミュニティの存在が必要不可欠であろう[4]

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[1] 伝統中国における「法治」ないし法秩序のあり様を論じたものとして、寺田浩明「《人治》と《法治》――伝統中国を素材として」(京都大学大学院法学研究科21世紀COEプログム第1回連続市民公開講座『法と政治における「人」』(2005年5月14日・ホテルグランヴィア京都)における講演記録)が興味深い(2013年5月28日アクセス)。

[2] ここで詳論することはできないが、②の意味の法治主義は、少なくとも英米法系のRule of Law(法の支配)とドイツを源流とするRechtsstaat(法治国)に大別することができ、その上でさらにそれぞれについて形式的と実質的概念に区別することができる。法の支配については、とりあえず周作彩「法の支配と行政訴訟制度改革」原田尚彦先生古稀記念『法治国家と行政訴訟』(有斐閣、2004年)91頁以下、ドイツを源流とする日本の法治主義の意義およびその現状について、塩野宏「法治主義の諸相」同『法治主義の諸相』(有斐閣、2001年)112頁を参照。

[3] Lon L. Fuller, The Morality of Law 46-91, 39 (revised ed., 1969).

[4] 周作彩・前出注(2)98〜100頁を参照。